後家
腥田をにゆり
「Wi-Fiのパスワード教えて」
鏡の中で、急に甥の賢太が後ろから出てきて、廊下を通った時はフローリングを強く踏み込んで、いつもの弱くなった所が軋み音を立てていた。
「ほらほら、莉緒ちゃんに聞けばいいんじゃない? 叔母さんがメイクしてるから邪魔しないの」
今日は土曜日で、自分の夫と喧嘩して家出した梨枝子が泊まりに来たが、相変わらずこの夫婦は仲が悪くて困った。賢太も、こんなことで振り回されるのが可哀想なようだった。
そういえば、あの夫も悪いと思う。梨枝子は昔から手のかかる妹だった。それでも、私たちはいつも仲良く遊んでいて、実家で蝶々を獲ったりしていたが、今思えばいい子供時代を過ごせたのだと思う。子供の頃は、本当に好奇心が抑えきれず、何を見つけたらすぐ大人に話すので、それで当時は叱られることもよくあった。私は梨枝子のことをとても大切にしていて、——双子なのかお互いに似た性格で、何をするのも常に一緒だった。それで、彼女が結婚して以来、顔色が少しずつ暗くなったのは正直見るのに耐えられず、離婚を勧めようとしたけど、最初から離婚だと決めていたらこんなことにもならず、賢太にとってもきっとそれが良かったのに。
「姉さん、保冷ケースの中にある肉をどうするの?」と梨枝子がキッチンに置かれたケースを指して、私は少し悩んだ。
「そうだね⋯⋯。また考えるわ、それよりあとで莉緒の三者面談のために、学校の先生が来るよ」
「え? 今?なんで早く話さないの?」
「ごめんごめん。二人は寝室でゆっくりしていいから、もし先生が帰ったらまた教えるよ」
と話した所、やっと莉緒がフィットネスロープを持って玄関から入った。
「莉緒、先生そろそろ来るよ。ささっと準備してね」
「はーい」と莉緒がフィットネスロープを玄関のコンソールテーブルに置いて、「手を洗わなきゃ」と小声で呟きながらトイレに入った。
「姉さん。じゃ、とりあえず寝室で言われた通りにのんびりするわ。そういえば夕飯の食材はあとで一緒に買いに行く?」
と梨枝子が少し申し訳そうな顔になって、毎回そんな顔になるとこっちも胸が痛むから、と思いながらもあまり指摘する気にはなれなかった。それで、彼女はどうしてもさっきのことが気掛かりになったので、なんとか安心させたらやっと賢太と一緒に寝室に入った。
手を洗った莉緒もその時トイレから出てきた。
「ねえ、賢太の父さんは?」
「今日は先生が来るんじゃない?だからさっき帰ったよ」
「賢太の父さんだけ先に帰ったんだ。なんか喧嘩でもした?」
「まあ……」
何かを誤魔化そうとしたら急にインターホンが鳴った。
「どちら様ですか?」
インターホン越しに、顔の角度のせいか先生なのか配達員なのかよく分からなかった。それにしても、約束の時間より少し早かった気がする。
「どうもです。少しお時間戴けますか?わたくし、R社の保険調査員、栗山と申しますが」
この男の声が異様に冷淡だった。確かに昔、保険の契約書にサインしたが、なぜこんなタイミングなのかよく分からなかった。三者面談のこともあるので、とりあえず断ってみた。
「あの、折角来てくれて何かしらお茶でも用意したかったのですが、しかし、今日は小学校の先生が三者面談の約束は前からしてあったので、また私の方から御社に電話かけて、リスケの後にまた来て頂けますか?」
と話したら、男がやっと顔を上げて、その眼はこっちを凝視するようで、そして、粗い画素を通しても、眼玉全体が薄ら燻んだ紅色がついて、脣は腐った肉のような紫色でどこかへんだった。何かを言い出そうと思ったら、まず彼が突拍子もなく笑ってしまった。
「ははは、奥さん。ご心配なさらずに。先生の方は先ほどマンションのエントランスでお会いして、帰らせておきました。わたくしは今、奥さんの部屋の玄関扉の前に立たせていただいております。娘さんの莉緒ちゃんの学校の先生のことなど、わたくしの方でも調べ尽くしましたので、それよりも夫の件についていくつかお尋ねしたいことがありますが、」
と莉緒が困惑していて、「大丈夫だよ」と莉緒を宥めてからこの栗山と自称した男に答えた。
「それは困ります。勝手なことをしないでもらいたいが……。お父さんの件で、莉緒は未だに引きずっていて、——保険とか、そういう現実的なことは子供のいない所で話し合いたいです」
「はは。それは困りましたよ、奥さん。ちなみに今、家に他の人いませんか?たとえば、あなたの妹さんとかは」
なぜ保険調査員がここまでうちのことを把握できたか、急に怖くなった。莉緒と今寝室にいる二人のために、栗山という男を家に入れるべきではないと感じた。この男は危険だ、そもそも保険調査員であることは嘘かもしれない。
「どうやら何か誤解があるようですな。まあ、いい。——このインターホンからいくつか質問だけさせて貰います。招待されないのは仕方ないですから……。質問に答えてくれたらこっちもグダグダと粘らないので、宜しいですか?」
「何が聞きたいですか?」
と急に彼が鞄から古びた手帳とボールペンを取り出した。
「えっと……けっけっ」
と彼が一回喉を鳴らして、痰が溜まっていたのか、ドロリとした掠れた音がして、彼はそのまま痰が喉に引っかかった状態で話を続けた。
「故人の与那寛太郎さん、貴女の夫に当たる男ですが、この与那は珍しい名前ですな」
「はい、彼の実家は沖縄にあるから、結婚したあとは何回も沖縄の義実家に行ったことがありますが——」
「へー。どこで出会いましたか?」
「大学時代は同じ研究室に居たので」
「態々神奈川県まで来て勉学するなんて、夫は立派ですな。わたくし、実は沖縄やら台湾、マレーシアといった南国が好きなのでわりと毎年旅行しに行くが、沖縄の地元民ってみんな島から離れるのがいやだと言いましてね。本州のことを日本と言ったりしてまるで自分は日本人じゃないみたいな言い方する人も何人か居た」
「それは流石にみんなそれぞれじゃないですか?」
「あ、失敬。確かにそうですけれども。こんな歳になると、人の属性で決めつけるのが多少ありますから、というより、自分の考察癖と言っていいのだろうか。それで、奥さんの名前は元の名前ですな」
「ええ、結婚前そのまま、鏡なんです。鏡菜津子なんです」
「これは、また珍しい苗字ですな。きっと大学で出会った時は運命でも感じたのでしょ?それで、娘さんの名前も確かに鏡ですな。結婚前にもうそう決めてありましたか?」
「ええ、彼は自分のルーツに多少コンプレックスを持っていると、昔たまに話したので」
とインターホンからも、栗山が手帳に記録するのがはっきりと見えた。いよいよ彼も満足して、帰るかと思ったら、
「え、わかりました。今回、実は夫の件で保険金について調査するために伺ったが、聞いた感じ申請条件に符合したので、あとはサインだけ戴いても宜しいですか?」
と話して、その時インターホンの前に彼が自分の名刺を持ち上げて、確かにR社だと書かれて、名前もさっき伝えたのと同じだったので、私は警戒しながら解錠した。
まるでこの瞬間を待ったように、すぐにも彼はドアを強い力で押しやった。土間に踏み込んだ瞬間、莉緒と眼が合って「莉緒ちゃん初めまして」と挨拶したら、あまりにも不気味だったので、莉緒が奥へ逃げた。
「あら、そんなに怖がらなくていいのに」
栗山が少しがっかりした様子で、それで、先ほど莉緒がコンソールテーブルに置いたフィットネスロープのほうを見た。
「与那さんのこと、お辛かったでしょうが、——死亡診断書によるとアルコール中毒に起因した心神喪失で、頸を吊ったということですが、しかし、ヘンなことに当時の報告書によると、フィットネスロープを使ったとのことで。だってへんではありませんか?酔っ払った状態なら態々フィットネスロープを選ぶのも、家で適した場所を見つけて縄をかけるのも容易ではありません。成人男性の体重を支えられるフックなど、わたくしにはどこから探せばいいのか皆眼分かりませんから。それを、酔っ払った人が——」
と家に入ったら栗山がまた勝手に考察し始めた。聞いてて、おそらくこっちは女性だから終始、舐めてくる態度を取っているのであって、とても不快だった。
「主人は生前、お酒飲んだら何でもするわ。一度この家を燃やそうとしたし、別にそんなに可笑しなことではありません。発見された時はマンション横のイチイでした」
と話したら、栗山が靴を脱いで勝手に上がってきた。
「ちょっと、何するんですか?」
「まだまだ質問がありますよ。奥さんも、保険金がないと困るんでしょ? ご協力のほどお願いします」
彼はそのまま廊下を通り過ぎて、フローリングの軋んだ所をあえて選んで踏んでいるかのように、歩くたびに不快な音がしていた。
やがて彼が突き当たりのベランダに着いて、粗暴に網戸を開けた。
「なんだ、木が切られたか。どうりで、さっきは見てなかった」
とあの数日前に伐採された切り株を見て、感想を述べた。不動産のオーナーが業者を呼んできてチェーンソーで切ったが、当時は倒れた瞬間に大きな音がして、それで、近所のみんなが驚かされて、一斉に家から出てきたほどだ。それくらい木が大きかったので、彼が酔っ払って自分で縄を枝にかけて頸を吊るのを、実際に眼撃する人が何人もいた。
「これはこれは、当時は頸を吊った夫の方をベランダから見れるでしょ、相当ショックではないか」
「はい、ショックではありますが、」
「えっと、なんかありましたか?」
「家庭内暴力の件で何回か窓口に相談したが、ずっと適当にあしらわれて自分も、……実は死のうと考えた時期があった。身代わり……と言ったら不謹慎なのか、はい、夫が死んでくれて正直良かったと思います」
「お辛かったですね。確かに彼は死ぬ前に自主退職をした記録があったので、——経済面は不安なかったのか?」
「それは……これから莉緒のこと考えると、貯金も頑張らなければ、とは思いますよ。夫婦二人とも大学卒だから、大学教育の重要性をよく理解していますから」
「重要性?例えばなんでしょうか?」
「知識があれば色々と方法があるんです。今も実はFXをやっていて、それなりに黒字を出しているんです。それで、noteで有料記事を書いてわりと儲かっています」
「これはかなりの頭脳派ですな、確か、奥さんは心理学を勉強されてますな」
「そうです。だからなんですか?」
「彼は元々お酒を飲まなかったでしょ。何かのきっかけでお酒を飲み始めたのかお分かりになりますか?」
「さア、どうでしょうね」
「それより、ナッジ理論という行動心理学の理論がありましたね。大学でも学んだでしょ?不気味な理論ですな。わたくしは心理学にそんなに詳しくないですが、あいにくこんな職業やっていくうちに、仕方なく勉強し始めたのでね。最初は交渉術、次にコールド・リーディング、最近は占い師は実はみんな心理学者だと知り、たまに態々お金払って銀座の母とただ喋るだけですがね。それで、ミルトンエリクソンという人物ご存じ?」
「はは、心理学を専攻する人間からして殆ど非科学的ですよ。非科学的。もうちょっと本読んだほうがいい、ユングもフロイトも教科書に載るがどちらも非科学的ですから。ミルトンエリクソン?よく知りません」
「まあ、確かにわたくしは素人ですから、お手柔らかにしてください。素人だからどう話すのも自由だし、責任背負わなくて済みますから。わたくしは責任というのが大嫌いでね、例えばモラルリスクという言葉は最も聞きたくないので、必ずしっかりクライアントをあの手この手で調査してから立ち会いますので」
「じゃ言いなさいよ。君の無責任な臆測を」
と話したら、彼が自信満々と笑った。
「それでは、自分の考えを述べます。素人感想なので、あまり真に受けないでください」
彼が続けた。
「第一、貴女みたいな頭のいい女性だったら、なぜお酒を止めないのでしょうか?また、家庭内暴力を訴えつつ、弁護士を探そうともせず、実家に帰ろうともしないんです。これはまず引っかかります。まして、娘さんのために貯金するのに、お酒に関しては浪費していいというのは合理的ではありません。第二、今年は水道局から点検が入ったでしょ。わたくし、実は水道局の人に確認したが、この家の外に大きなイチイがあるのと、家は清掃が行き届いてるというのが印象的だとそう聞きました。その時夫の方はもう休職して、仕事もせずずっと家にいたでしょ。お互いともに大卒で、また、経済面においては女性上位だった場合は夫婦のパワーバランスが崩れるという話よく聞きます。当時は申し訳なさで自ら清掃を担当しようとしませんでしたか?夫も酒代がないので、結局は貴女のFXから稼いだお金で賄ったのではないでしょうか。そこで家庭内暴力の可能性はないとは言い切らないが、そうだった場合彼は相当な恥知らずな情けない人間なので、急に死のうとかなんてしませんし、例えば彼が本当にお金稼ぎも清掃もなんでも貴女に押し付ける場合、貴女は先に清掃を放棄して、現に家全体の環境が着実に劣悪になっていた筈なんです。わたくしはこれまで数多くの家を見てきましたが、この家の清潔感は不気味なほどに、管理されていた。計画的な人間でしかなしえない技ですよ。観葉植物もしっかり栄養剤を投与するくらいですから。そんな潔癖症の奥さんはだらしない男と結婚するなんて到底思えません。ましてや彼の昔の知り合いに確認したら、彼はアルコールが嫌いでしたね。あなたはどう仕込んで彼をアルコール中毒者に仕上げたので?」
「それは全部あなたの主観的な推測でしかないですね。いい加減にしてください、警察を呼びます」
と話したら、
「ああ、どうぞ呼んでください。 しかし本当に周到な計画ですな。彼が仕事を辞めた後に、毎日観葉植物に栄養剤を投与するようにお酒を何本か与えたでしょ。あなたがネット通販で大量の酒を注文し、捨てた段ボール箱。その表面から剥がし損ねていた配送伝票や納品書を、マンションのゴミ置き場からこっそり回収させてもらいましたよ……。今も実はこんなのを持っています」
と彼が輪ゴムで綺麗にまとめた伝票の束をポンっとあいだのテーブルに投げた。
「ところで、ミルトンエリクソンは貴女の卒論のテーマだったはずですが、よく忘れましたね。知られては何か不都合でも?」
と、彼が興奮気味に推理を続けて、妹と賢太、莉緒全員が奥の寝室から出てきた。
「姉さん、どうしたの?」
そして、栗山が手を上げて、
「皆さん、まず推理はまだ終わっていません。落ち着いて最後まで聞きましょう」
とやがて彼がそのケースに近づいた。
「寛太郎さんが死んだのは木の芽時でした。昔から精神に異常を来しやすい季節だと言われています。それももしかして計算内だったら実に恐ろしい。ミルトンエリクソンの催眠術と行動心理学を使えば、人間はまるで小動物みたいに操られて、勝手に自害するのだ。——ただ、残念ながら、毎回は必ずしも計算しているわけではなく、楽しんでいるのだ……。一番近いコンビニの駐車場に停まった車は、妹さんの夫が運転した車でしょ。共犯者がいるってわけだ」
と栗山が話しながら、そのケースを開けた————
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