Ⅰ. 夕告ぐる廊下にて
蛍光灯がしづかにふるへ
介し護る者は
細い硝子瓶を
今日もかかげる
七十八年を生きた瞼を
指でそっと押し上げるとき
そこに在るのは
半世紀ぶんの
渇きである
ひと雫
ふた雫
彼女は呼ぶ
忘れられた誰かの名を
Ⅱ. 深夜、四角い部屋にて
画面のひかりに
眼を打たれた青年が
小さな容器を握る
彼の指は震へてゐない
震へないことが
すでに病である
これは涙ではない
工房で生れた水
夜勤の誰かが詰めた水
誰かの不眠が
彼の労働を継ぐ
カチリと蓋が鳴り
天井を仰ぐとき
彼の頸は
千年前の祈祷者と
おなじ角度を持つ
Ⅲ. 朝の卓にて、母なる者は
子の眼に
さくらんぼのやうな赤を見て
冷蔵庫の扉をひらく
ちひさな瓶
ちひさな瓶のなかの
ちひさな海
「上を見て、空を」
と母は言ふ
子は、信ずる
落ちる、といふ言葉は
しばしば 別れの母音だが
ここでは
継がれる、の意だ
Ⅳ. 工房
點を造る者がゐる
深夜の無菌室で
白い手袋をはめ
水と塩と
光に似た物質を
量つてゐる
彼女の名は誰も知らない
人は
自らの眼を
ひとりでは濡らせない
ゆゑに、瓶に
夜を詰める者がゐる
Ⅴ. 終曲
廊下の老人と
モニタの青年と
卓の子と
工房の女と
彼ら四人は
互ひに知らぬまま
おなじ瞬間に
眼を瞬く
雫とは
労働の もうひとつの名であり
労働とは
他者の瞳を
渇かせぬ為の
祈りの 別の名だ
(目を、ひらいて)
(目を、つむらないで)
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