空港の出発ロビーは馬鹿でかいチューブだった。
むきだしの鉄骨が形作るそれは全面がガラス張りで、ガラス窓からは昼下がりの容赦ない日差しが差しこむ。テヘランの大地に沈む日の光は空港の床や柱、申し訳程度に置かれた売店やバー――国民には酒を提供できないので、当然外国人向けだった――を照らし、それと同時に、柱に厳かに掲げられたエマーム・ホメイニー師の肖像画をも照らす。この国の建国者であり、この空港の名前は師にちなんで名づけられた。
搭乗ゲート前の硬いベンチに寝転がって、ラマダンの空腹をやり過ごしていた。
飛行機が昼過ぎの便しか予約できなかったから仕方なく来ているのであって、ラマダン中の昼過ぎから夕方に出歩くなんてふつうは考えられない。普段なら部屋のペルシャ絨毯に横たわって、窓越しの、西の空に浮かぶ丸く大きな太陽へ、アッラーの聖名において早く沈めと必死に念じている頃合いだ。
とにかく腹が減ると世界の様相が滲んであいまいになる。滲んでぼやけた世界は、ありとあらゆる豆と野菜とハーブを入れたお粥のように、どろどろに溶け合って見えていた。この空港も、安っぽいSFドラマに出てくる宇宙空港に見えた。ガキのころ、親父が商売に失敗して、家族でテヘラン市の南――標高が低くて底辺ばかり住むから「下」なんて呼ばれている――に住んでいた。海賊版DVDと薬物と酒の売人が家の前をうろついていて、夜は外出なんてできないから何も楽しみがなく、俺は親父に駄々をこね、七歳の誕生日の日、親父はどこからかパラボラアンテナを盗んできて家の屋上に据えつけてくれた。それからしばらく、夜になるとアメリカのSFドラマをずっと観るようになった。宇宙船が飛び、レーザー銃が光り、宇宙人が侵略してくる番組ばかりで、親父は「人間を堕落させる悪魔の番組」と罵ったが、俺は夢中になってテレビにかじりついていた。もっとも今回の行き先は木星でもアルファ・ケンタウリでもない。日本だ。アメリカのSFドラマと同じぐらい熱狂した、あのアニメたちを作ってくれた国で、俺の人生を狂わせた国でもある。
売店の陰からひとりの男が姿を現した。
手にはペットボトルの水を持っていた。おそらく医者に偽の診断書を書いてもらって体調不良で断食をしなくていい許可をもらっているか、単純に異教徒だろう。
「ラマダン中に飲み物を持ち歩かないでくれよ」と男に言った。
「そんな辛気臭い顔をするなよ。ほら、顔でも洗ってこい」
男はペットボトルのキャップを開けながら顔をトイレの方向へ向けた。
顔を洗うふりをして水を飲む――一般的イラン人ならだれもが知っている裏技。
「辛気臭い顔なのはな、仕事をクビになったからだよ」
「へえ、どこで働いていたんだい」
男は申し訳なさそうに目を伏せて水を飲んだ。申し訳ないと思うならぜひとも水を飲むのをやめてほしかったと思いながら答える。
「国営放送だ」
男はペットボトルから口を離す。
「カメラでも回していたの?」
「……ああ」
男はあごひげに手を当て「ふーん」とつまらなさそうに言うと、なにも話しかけずに再び歩きだした。出発前に変な奴に絡まれて嫌な気分になった。
いつのまにかチューブを覆うガラス窓の向こうで、ドバイ行きの機体がゆっくりとゲートへ近づいてきた。イランから日本まで直行便はないから、いったんあの飛行機に乗ってドバイへ飛ばなければならない。
巨大な白い鯨が砂漠の海に浮かんでいるようだと思いながら、ふたたび男へ目をやる。男はバーへ行って店員に注文すると、店員はビールの瓶をとりだして男へ渡した。
あんな奴に本当のことを言わなくてよかった。カメラを回していたなんて嘘だ。
本当は、編集局でモザイクをかける仕事だった。一週間前にクビになった直前は、アンパンマンの顔にモザイクをかけていた。
テレビ局地下の編集スタジオは革命前から使用されている。換気などされておらず、コンクリートが打ちっぱなしの空間は、コネ入社組は入局してから退職するまで一度も訪れることはない。王族や貴族、石油王の一族でなければこの国では負け組だ。
そのくせ、俺のブースはやたら金がかかっていた。といっても、ペラペラの吸音材に、日本のオーディオメーカーのヘッドセット、それに作業に集中できるようにと木の板の仕切りもある。
三年前からやっているこの仕事は電力不足との戦いで、スタジオは作業者のいるところのみ、いつ切れるかわからない蛍光灯の冷たく白い光が差す。
昨日の夜もいつも通り、ブースの席に座って、じっと機材の画面を見ていた。画面に映っていたのは日本のアニメだった。大きな丸い顔。優しい正義の味方であるこの男は顔がなんとパンでできている。アンパンというパンの男だからアンパンマンで、物知りの編集局長が去年のラマダン明けの宴で「アンは日本にある、黒い豆のペーストだ」と自慢げに知識を披露していた。ちなみに知識と好奇心が有りあまる編集局長は自宅でワインをつくってしまい、刑務所から帰ってくるのは五年後だ。
ただでさえ顔が食べ物だというのに、この男は飢えて腹を空かせたひとたちに、自分の顔をちぎって分け与える。イスラームの五行のうちのひとつ、『喜捨』を、この男は己の頭を削りながら実施している。おそろしくも信心深い男だ。しかし、褒めたたえられるべきその男の顔に、俺はマウスを動かし、何回かクリックしてモザイクをかけた。作業としては単純な部類だが、とても責任のある仕事をしている。――絶対に視聴者の食欲をそそらせないようにしなければいけない。
革命後、ありとあらゆる悪い概念はイスラームの教えと国家によって統制した。暴力、セックス、酒、アメリカのイカしているロックはもちろん、SFも社会から消された。といっても繁華街の裏路地にいけば、黒服を着た男たちがうろついていて、金を払えばいくらでも手には入った。
それらの悪に、ラマダンの最中は食べ物が入る。断食中に食欲をそそらせるものは悪なのだ。料理番組もラマダン中の昼間は当然、放送できない。その結果どうなるかというと司会のシェフは料理を作らずにただスタジオで踊る。しかも生放送だからもちろんシェフ本人も断食中で空腹で顔色が悪いシェフは、まるでメッカでもみくちゃにされる巡礼者のように、ふらつきながら踊る。料理番組なのに、料理が一切出てこないことに誰も疑問を持たない。
世界には危険なものがいくらでもある。たとえば核兵器や、戦争や、アメリカ。しかし、ラマダン中だとアンパンマンは、それらよりはるかに危険な存在になる。
正義の味方の顔だけを、モザイクで潰して、潰して、徹底的に潰す。悪役のバイキンマンはそのままでもいい。
完成した映像を見返す。
顔面をモザイクで覆われたアンパンマンが、拳を振り上げてバイキンマンに殴りかかる。モザイクが顔にかかった男が別の男に拳で殴る。アンパンマンは正義の味方でなく、悪人ではないのか?
ふと、仕切り板を誰かがノックした。
ヘッドセットを外して振り返ると、新しい編集局長が立っていた。
「……仕事は楽しいかね?」と編集局長はもったいぶって聞いてきた。せっかくだし、疑問をぶつけてみることにした。
「ええ、ですがなんでこんなことしなければいけないんですかね。アンパンマンは夜やればいいのに」
「うるさい、下手に放映時間を変えてみろ。国民が怒り狂うんだ」
編集局長は一喝してきた。
むかし、俺の生まれたころ、この国はイラクと戦っていた。その時に『おしん』が放映され、視聴率は九〇パーセントを取り、王族も軍人も商人もみんな放映時にはテレビの前で泣いて、戦場で敵対する兵士たちも、銃を捨てて番組を見ていたらしい。
つまりアメリカがテヘランを空爆してきてこのテレビ局を破壊したとしても、日本の番組は国家の威信をかけて放送しなければならない。ただし、ラマダン中に食べ物は映してはいけない。だから俺はアンパンマンの顔を消す。
局長は咳払いをして、俺に「新しいソフトウェアが届いた。自動モザイクシステムだ」と伝えた。アメリカのどこかのアホンダラが開発した人工知能で、事前にモザイクを入れさせたい対象を学習させれば、映像に自動でモザイクを入れてくれる。当然、人間が操作する必要はない。
上司は手元のタブレット端末をスクロールした。説明書のPDFが映っていた。
「便利な時代になったな」と局長は嬉しそうに笑う。事情を察した俺はあいまいな笑みを浮かべ、ペンを手に取った。タブレット端末はバインダーが裏に重なっていて、局長はそのバインダーを開いて見せた。俺の契約終了通知で、サインするところをご丁寧にポストイットで示していた。
三十分後には、俺は三年勤めていたテレビ局から荷物を持って追い出されていた。あまりにもあっけないAI失業だった。こんなことをするのはアメリカ人の仕業だ。
空はアメリカ軍の空爆で、赤い花火のような炎が連なって光っている。
あいつらはいつもそうだ。世界をめちゃくちゃにしておいて、自分たちは被害者みたいな顔をする。俺の仕事を奪った機械も、ヤンキーどもの作った悪魔の兵器だ。
世界が狂ってしまったなら、俺も狂おう。だから俺は東京へ行くと決めた。そしてアンパンマンの放送禁止を求める。信心深い聖人だというのは噓偽りの顔で、頭を食べ物だという思想を世界に植えつける悪魔怪人を世界中に広めている。頭がパンでできていて、しかもそれを他人に食わせる。そんな思想が広まればどうなるか。いまに全人類が自分の頭をちぎって、他人に分け与えて、世界は争いごとがなくなり、そして人類は全員頭をちぎってしまったので死ぬだろう。アメリカよりもタチが悪いヤツだ。
羽田空港から電車に乗り、新橋駅へ到着したのは日没一時間前。ラマダン中のムスリムにとって、死を乞うほどの飢えと苦しみに襲われる時間帯だ。
地下鉄の階段を上りきる。真上にある東京の空はどんより澱んでいて、食べたら不味そうだと思った。その不味そうな雲からは、細かい雨が降りしきっていて、これもまた飲んだら吐き出してしまいそうだと思った。
驚いたのは東京中を漂う腐臭だった。食べ物を放置しておいて腐った臭いが鼻についてこびりつく。駅前には数えきれない飲食店があり、窓越しに見ると必ず客がいるのだが、店にいるスーツ姿の男も、制服姿の女子学生も、誰もかれもが無表情で、スマートフォンを操作しながらひとり食事をもそもそと、嫌そうに口に運んでいた。
ここまで不味そうに食事をとる人を見るのは初めてだった。
高層ビル群を縫う歩道橋を進んでしばらくすると汐留にたどりつく。目的のテレビ局の本社ビルは、食べたら腹を冷やしてしまいそうなぐらい、冷たい外観をしていた。
ビルの正面玄関の脇には、あの男の像が立っていた。身の丈は一メートル程度の、幾何学的に美しい球体と錐体が組み合わさってできた男。イラン人民に愛と勇気を教えてくれた男。そして、あらゆる顔は食べ物だという有害思想を植え付けようとする極悪人。――アンパンマン。その男の顔は、こんがり焼きあがったパンの色だった。
食べなければならない。ラマダンがなんだ? 悪魔にそそのかされただけだ。俺は悪くない。体が動く。両手で男の顔を抱え、歯を立てる。硬い。当然だ。こんなものを他人に食べさせようとするなんて、絶対許してはいけない。もう一度噛む。顎が痺れる。歯茎が裂ける。血が口の中に広がる。その温度と塩味がかえって味覚を刺激する。
もっと噛まなければならない。周囲がざわめく。どこからか怒号がする。だが遠い。すべてが遠い。いま、この世界には俺とパンしかない。俺は噛み続けた。何度も。何度も。腕を掴まれ、引き剥がされた。制服の男たちが集まってきて、その胸には「POLICE」と書かれていた。そうか、お前らもアンパンマンのグルか。
男たちに羽交い絞めにされて歩かされる。道行く人が俺にカメラを向ける。ここ最近の日本じゃ、外国人をこうやって晒しあげるのが流行っていると聞くが、俺は決して悪いことをしていないのだから、何も恥じることはない。
やがて小さな箱みたいな建物に連れていかれ、椅子に座らされる。白い蛍光灯。冷たい机。国営放送の編集ブースより少し豪華だなと思っていると、警官がゆっくりとした英語で話しかけてくる。
「あれは食べ物ではありません」
こいつらに本当のことを言ってはいけない。
「知っています」
「じゃあなんで食べようとした」
「腹が減ったからです」
最初は嘘の理由を言おうとした。だけど言葉にした瞬間、そっちのほうが正しいと確信した。そうだ、俺は腹が減っているんだ。だから食べなければいけない――。
警官は黙った。隣の警官と目を合わせ、小さくうなずく。それ以上は追及されなかった。
警官は俺を箱から追い出した。
新橋駅前の広場で、SLが置かれていた。駅の構内からは吐瀉物のように客たちが流れ出て、やがて食事が口を通るように別の客たちが入っていった。
そうだ。ありとあらゆることは食事なんだ。通行人の頭がすべて丸い。だから当然パンである。焼き色がついている。スーツの男の頭は乾いた丸パン。少女の頭は表面に細かい網目の入ったメロンパン。警官の頭は平たく伸びたナン。どれも完全に食べ物だった。それはアンパンマンがそう教えている。だからこれは正しい。
しかし他人の頭を食べるには少し歩かなければいけない。それすらもおっくうになるほど、腹が減っていた。
俺はいいアイデアを思いついた。手を自分の頭に当てる。温かい。柔らかい。指がわずかに沈む。パンを裂くように、頭を引き裂いた。べりべりと音がした。俺は硬いタイプのパンだったんだ。引きちぎったパンを、目の前に持ってくる。手の中にあるそれは確かにパンだった。湯気すら立っている気がした。迷いはなかった。口に運ぶ。噛む。やわらかい。甘い。涙が出る。
うまい。周囲で悲鳴が上がる。誰かが叫んでいる。だがそれも遠い。すぐ隣の男が自分の頭に手をかけているのが見えた。引く。裂ける。笑っている。別の女も、少女も、同じことをしている。みな、うまそうに、自分のパンを食べはじめた。広場の真ん中をネズミが走った。あるサラリーマンが、広場にしゃがみこんで、ひきちぎった自分のパンをネズミに与えていた。
はは、いいじゃないか。疑ってすまなかった。やはりアンパンマンは聖人だった。
俺は最後の一口を飲み込んだ。空腹は消えていた。
そして、ふと思う。――では、俺は今、何で考えているのだろう。そもそもないはずの口でどうやって俺は頭を食べた?
遠くでアンパンマンのテーマソングが聞こえた気がした。あるはずもない耳で。
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