我々は床だけできた山の隠れ家を忘れたように暮らしていた。
危うく思い出しそうになると、別の夢想に逸らす。たとえば山の中に、二人で両側から幹を抱えて手が届くかどうかという大木(名前は不明。図鑑で調べかけてやめた。)があるのだったが、あの幹にアーチ型の扉をつける。そしたらあとは木が自力で、内部に家を作るから。時々見に行って、幹に窓がついていたら住み頃だ。煙突まで出ていたら急がねば、それ以上放置すると人まで住み出すものな。――云々。
アルコールがのさばり過ぎないよう監視することに、我々は労力のほとんどを割いていた。
私は白状すればこのたび住宅街に帰って来るまでの十余年緩慢な酒浸りだった。初期には鬱病の症状が絡んで小便に行けなくなり、ぱんぱんだった尿意もやがて消滅し、夕方に熱湯のような血尿がちょっとだけ出て、それをくり返すうちに慢性前立腺炎を得た。下半身の疼痛と激しい不快感が出ているあいだは飲酒は大敵だったけれど、しかし呼吸器を踏みつけにして来る気鬱が装填するものと、何をさせられるかわからない脊椎の深部のやかましさを回避するには起きてすぐ枕元の夕べの残りの焼酎を飲み干すしかなかった。
眠っているあいだに覚えのない行動をしていたとあとで姉や母から聞いた。
この十余年の八割がたが夕方まで二日酔いで、たまに残らない朝などは洗面所の鏡で白目の白さにぎょっとした。強くもない肝臓にアルコールは寄生虫になっていた。
何度かやめた。すると世界は澄み渡り、夜にはそわそわと膝などさすり、頭はうるさく、悪夢におののき、眠れず、目を閉じ続けて気絶するように寝て、飛び起きれば前後不覚で家の中を歩き、五日と続かずふたたび飲むと世界は優しく、何も気にならなくなり、やがてまた二日酔いが苦痛になり、どうにもならなくなってやめる決意をしても、二日酔いはすぐに抜けるわけではなく、その晩飲まずに寝た翌朝まで「やめる」のスタートは切られない、この決意の成立の遅さに耐えられずにけっきょく習慣で飲んでいた。
八歳のバーベキューパーティーで飲んだ缶ビールが始まりか。もっと幼い頃からお正月のおとそは好きだったが。時々こっそり飲んでいた。中学二年だったか体育祭の朝にも緊張をやわらげるために冷蔵庫にあった白ワインを一杯だけ引っかけて行った。酒臭さなどはバレなかったが、リレーのアンカーだったのに「何か遅かったな」と言われた。
この十余年、やめた期間の最長は二週間ほどだった。合計は一月に満たなんだ。今もけっきょく私だけ何も食べず初っ端から蒸留酒を飲んでいる。せめて薄めて温めて。これがのさばらぬための監視に満身力を込めていた。貴崎さんより濁っていた。彼女のはほとんどスタイルに過ぎなかったと判明していた。むろん誰も指摘はしなかったけれども。
無為徒食の二日酔いほど純粋な苦しみはなかった。おのが卑小さと向かい合うよりほかにすることのない、誰のためでもなく、それ自体で存在する、愚者の真剣な労働であった。
近頃の我々は、一つ山を隔てた隣町の喫茶店などで、頭を寄せ合って、練られもしない計画を練ろうとしていた。せめて計画を練ろうとする気分を、全力で生ぜしめ、慎重に長引かせていた。
そのようなことをしているあいだは、学生や、おばさん連など、人生に今たまたまトラブルのない人たちからの迫害を恐れた。迫害されているところを想像し、その無邪気な悪魔たちに罪の重さを教えてあげる。あのなァ、そんなことをして、もしも我々が、今にも死にゆく親の最期の手続きを相談しているきょうだいだったらどうするのか。ェえ? そんなつもりはなかったでは済まへんぞと、そういうことを考えて、現れもしない外敵をいっそう悪人にした。そうしている限り我々は、親の最期を相談するように真剣であり得た。
メダカはあれからまた二尾死んでいた。放置されるほうがよいらしかった。我々は気づかれないようにカーテンの隙間から見下ろして眺め、申しわけないように餌をやった。
庭の按排は半田が意外にやった。植物の世話にも詳しいから聞けば、半田の実家のベランダには鉢植えが多数あり、虫も湧く。ある時彼がリビングに腹這ってぼんやりと眺めていたら、鉢植えに生じて育った一匹の蠅が手すりの向こうの空へ決然と旅立った。彼は大いに感激した。かの虫は絶命の危険を惜しげなく自由に賭した。ウン十億年生きて来ていまだに死を避けられぬ生物の不思議は、この世がどこかの星の罪びとの送られて来る刑務所ないし天上世界の罪びとが落ちて来る地獄の証明なりと思い至らしめられるものであったが、かの虫の勇気と喜びはその事実を一笑にふす軽さであったと。
以上の説明が植物の世話の詳しさとどうつながるのか私には遂に不明であった。
その半田がそちこちに太陽電池パネルのついたランタンみたようなものを挿し込むやら吊り下げるやらして置いている。通販で買うたとか。けっこう安いねんで。なるほど夜になれば青や七色に光ったが、三時間もすればずいぶんか弱い。それで半田は太陽電池パネルに虫眼鏡を固定して太陽光を強化すると言ったけれど実行はされなかった。せいぜいこまめに拭いていた。夜中のトイレに行き会えば、あんがい貴崎さんや庄原も、リビングにしゃがんで、かろうじて点いている灯りを見ていたりした。
洗面所には女性たちの化粧水や乳液が置かれ、開閉式の鏡の裏にはT字カミソリ等が置かれていた。トイレには蓋つきの小さなゴミ箱が置かれ、風呂場の石ケンには常時半田の髪がめり込み、庄原の歯ブラシはいつも乾いていた。
こんな無為の我々も時には世間並に、世間一般の模倣をしなければならぬ、それで健常世界の流行から添加物ノイローゼを摂取して、無農薬の玄米を炊いていた。するとある日米びつに穀象虫が湧いていた。床に置くと、いじいじ歩いていた。みんなで眺めた。こめくい虫や。こいつか。うちらはあんたか。こんなんか、俺たちは。しゃあないやっちゃな。
体によいもの体によいものと、囚人たちの健康をおもんぱかった安からぬ食費、あるいは通販で、あるいは庄原の車で以て彼方此方から買い求め、小便などしょっちゅう大根やアスパラガスの匂いがしていた。前の人の残り香すらなかなか弱からぬものだった。
漬物に究極の栄養食を押し付けてきゅうりの浅漬けが常備せられた。一度炊飯器の予約の押し忘れで米が炊かれていなかった時、ライ麦コッペパンに挟んでみてから浅漬けホットドッグなるものがちょっとだけ流行した。
川野さんがあんがいゲラで、強いて笑わせ続ければかなり長く笑った。両手で顔をおおい、遂には机に突っ伏して、音量上は極めて静かに、まっ赤になって笑うのだった。
この空砲的な陽気さは、もっと別の場合の世界では、あるいはどれほどの人に彼女を笑わさしたろうと思わせた。
我々に足りないものは自他両面に対する愛情や余裕などではなく、もっと物質的な、水分や酸素であったかもしれぬ。トラウマだのストレスだのではなく、単純に、人より呼吸が浅いとか、水の摂取量が少なかったとか、そういうものであったかもしれぬ。南無三。
女性たちはいつの間にやら台所に深々と入り込んでいた。彼女らの楽しげに作る料理のほうが味も見栄えもよく、パターンも豊富だった。私は人が作ったものや人が洗ったものの清潔さに対するおのが内心の生理的なリアクションをただただ沈黙せしめていた。ある時、これまでの料理を総括して、これは店が出せるでと半田が言った。そのいつもの罪のない絵空事がしばらく生きた。
洋食屋の案は日をまたいで断続し、ある時とうとう具体的にどのような手続きがいるのか調べそうだった。何をそろえねばならぬのか、免許や資格はどのようにすれば得られるのか。検索すれば数分でわかる。危険だった。漠然としていることだけがゆいいつ安全な生活法で、不可能と断定されずに居続けることだけが肝要で、それだけを長引かせねばならないのに、数分でわかるものが近くにあり続けると、どんな拍子で手をつけてしまうかわからぬ。気をつけていても、ちょっとアルコールでも入れば人格は極めてたやすく奪われる。いや、厄介なことになりそうだった。
そこへ老人ホームのお手伝いというまったく別の、しかもこちらは外部と既に交渉のついた強力で実際的な案を、川野さんが妹経由で持って来たというお話を、二人の女流作家が合作で書き上げて来た。
朗読してくれるのかと思いきや、コピー用紙の印刷を人数分配られ、それぞれ独りで読んだ。みんなで聞くのに比べて、独りで読むということの、逃げ場のなさ。
その筋はだいたいこうであった。川野さんの妹が持って来た、老人ホームのお手伝いの話に、私たちは洋食屋の件を保留にして飛びつき、詳細を尋ねた。何やら高級な施設で、五人で行ってよいとのこと。そんなんあるもんやな。金持ちのジジババか、おるとこにはおるんやな。川野さんの妹、やっぱりシッカリした人は人脈が違うな、助けてくれよるな。ほんまやで。もうええ早よ、どんなんどんなん。
詳細はぼんやりしている。どうでも、させてもらえるなら詳細は謎でいい。けれどもする以上はまたどこかに「つもり」の空気穴が必要であった。ゆめゆめ遊びだなんぞとは言わないが、「そうでなくもない」でなければならなかった。
現実の仕事として、何か持続的なものを期待すればいつ地面が抜けるともしれぬ氷上だ。社会人の練習と見るには、いつ訪れるとも知れない本番の体力を、つまり親が倒れるなどしてほうり出された時に自然と噴き出すものを、かえって奪う消耗のように思われた。いつ訪れるとも知れない本番には、無為への嫌気の飽和こそ無上の待機であると信ぜられた。
それで今度のことは、軽やかな小遣い稼ぎ、小さな迷惑かけ、どうせ思いもかけぬ結果のみが待ち受けるのだから未然に構えても仕様のない何か、そういうものに収まった。不確かに、誰がはっきり言ったでもなく。
明らかに何者か、心痛の人から善意の手が差し伸べられていた。我々はそれを、仕方なしに握った。双方にとって、それでよかった。
施設の老人たちは何もして欲しくなさそうだった。女性のほうがやや多かった。
しかしどやどやと現れた若者の香気を好むようには見えた。手伝いよりも無邪気な迷惑をむしろ求めるようであった。やがて慣れて来ると色々わからないので教えて欲しいと頼まれた。スマホのゲームのことや、LINEのこと等々で、そういうことはこちらのほうが無知なくらいだったが、川野さんと貴崎さんが根気よく一緒に困りに行っていた。
長い黒髪をひっ詰めた、輪郭のシッカリした意志の強そうな女性職員が、設備の模様や仕事の内容など色々と説明してくれた。ボンヤリした頭に覚えられず、聞いたそばから忘れた。(未来に何度も思い出すのだろう。朝起きた瞬間とか、便座に座った時とか、もう関係ない時に。)向こうもその様子をわかって、説明をやめた。すまなそうだった。それから子どもの社会見学にするように、何かまたわからぬことを言い置いて行ってしまった。
我々は緩慢に、洋館の窓や手すりを拭き、カーペットに掃除機をかけ、野菜の皮をむき、皿を洗った。固まっていては醜悪この上ないという羞恥心だけあって、なるたけ一人々々散っていた。介護が必要な入所者が住んでいる区画へは近寄らなかった。
ローズガーデンに水をやり、鯉のように大きく育った金魚に餌をまいた。本当に仕事なのであろうか、川野さんの妹が持って来てくれたごっこ遊びなのではないか、じつは我々が入所しているのではあるまいか、しかし太った女性職員が当然のようにあれこれ用事を言いつけてくれる、この忙しさと、刺々しさは確実に、客観的の事実であった。
この非現実的の空間に我々はそう異質でもない。破れ鍋に綴じ蓋か。少し違うか。このままあいまいに居つけそうだと思っても、危険を感じなかった。それは非常に久しぶりの。いいや生まれて初めての。
老人たちは余命の時計を止めているように見えた。彼ら彼女らが生きている限りこちらも不死身のようだった。ここに何らか今は秘められている濁った事情の見える日まではせめてこのまま続けばそれだけでよいと思った。
ところが一人の老婆が我々に呪いを見た。
死に神のほうがまだ慈しみ深い、腐ることもない成長もしない若者、魂の抜けた生者に、希望の根絶を見るのであろう。最終的な救いのなさを見るのであろう。終わりのない地獄の鬼を見るのであろう。おのが死後に残してゆく子孫たちの世界の崩壊を見るのであろう。
老婆の恐怖がこちらと接続していた。この連結に対する激烈な嫌悪も雪崩れ込んで来た。
ほかの入居者がなだめても、出て行け出て行けは止まらなかった。
まず半田が走り去った。我々はみんなで半田を追いかけて、そのまま逃げ帰った。
それから我々は取り憑かれたように山の隠れ家の壁を作り始めた。
玲衣子さんは呼び出されて非常に嬉しそうだったが、庄原がもう雲隠れしなくなったことがわかると、しばらく憮然としていた。けれどもやっぱりそれだけの生物ではない玲衣子さんは、やがて楽しそうに汗を流して手伝っていた。
その後、妹とどのような話があったか、川野さんは言わなかったし、我々も聞かなかった。そんな出来事はそもそも起こっていなかった。
しかしどこかの老人ホームでは、我々を知っている御老体がいるのに違いなかった。
みんな読んだとも、読んでないとも言わず、女流作家たちもまた聞かず、我々はそれを完全に忘れたかのように過ごしていた。庄原の運転する車から住宅街を見ていた。
ある交番の前を通った時、また一席思い出された。十八、九の頃、友人と二人、この近くを原付でぶらぶらしていて、軽く事故に遭った。こちらが優先道路で、前方の十字路を車が右から飛び出して来て遮るように急停止した。私は危うくブレーキを握りしめて、手前で止まったけれど友人に追突され、原付だけ前に吹っ飛んで私はだるま落としのように尻もちをついた。原付は車に激突して倒れた。運転席から若い女性が降りて来て、平謝りに、すみませんでした、ケガしてませんか、近くに交番がありましたよね、車をどこかに停めてから行きますので先に行っていてくださいとのことであった。
それで私と友人が交番に入ると、白髪で小太りな老警官が一人、イヤホンで競馬を聞いていた。我々を見るとイヤホンを外して、
「何や」
「ちょっとそこで、車とぶつかりまして」
と私が言うと、老警官は私たちを上から下まで見て、
「ニケツしとったんか」
「いや、違います。向こうが飛び出して来て、かわし切れずに――」
と説明している途中で、老警官はあからさまにイヤホンをつけ直し、タバコを吸い出したのであった。それきり顔を上げなかった。やがて若い警官が出て来て一から説明し直したが、老警官はずっと競馬実況を聞いていた。
我々が被害者側だったので興味を失したわけであった。我々の風体が見るからに社会のクズだったから仕方がないけれど、この老警官のすがたは、子どもが将来の夢の欄に書くオマワリサンではなかった。
美しい思い出と共に交番を通り過ぎ、次いで、小山の上のマンションが見えた。じっさいにはマンションは小山の向こうにあるのだが、ここからだと山上に建っているように見えた。
マンションの隣には、水道局の何か建物があって、中学を終えた春休みから、友人たちとしばしば登ってよく星を見た。金網の上の有刺鉄線をあんじょうして入ると、周囲で一、二を争う標高に、青々した芝生が広がっているのだった。夜景もさることながら、ここに寝転んで見た星は凄かった。何々座流星群などの時はどえらかった。
ここでファーストキスをしたのが友人の中に三人いた。私もそのうちの一人であった。最初は乗り越えていた金網に、刻苦精励して穴をあけたのも、女の子が通れるようにするためだった。ある種の鳥や魚のオスがやるような、涙ぐましき努力であった。
ある日私の恋人だった少女が、寝転んでいた時に芝生へ生徒手帳を落とした。真っ暗で、二人とも気づかなかった。後日連絡を受けて、彼女は親と電車に乗り、どこだかの辺鄙な役所まで取りに行ったと聞いた。不法侵入を叱られたのかどうか、聞いたかどうかも覚えていない。私はその子の家族にけっきょく一度も会わなかった。
別れる時、取り乱したことを長々とメールに書いてしまったのを、彼女は友だちに転送し、その友だちと付き合っていた私の友人も読んだ……。
美しい思い出とともに通り過ぎた。
みんな気まぐれに住んだり帰ったりしていて、夜ふと独りになると、近頃は心臓が痛むことに閉じ込められていた。このfriendは十年以上の付き合いだった。いや思えば幼少期からちょくちょく会っていた。時には激痛でないわけでもなかった。
心臓神経症なら予後は良好だと聞いた。ちゃんとした心臓病なら、常時今にも起きそうに感ぜられて仕様がない発作へ遂に届けば、私の自我や罪業と無関係に我が人生を切断する。スパッと切断してくれるならいいも悪いもないけれど、トドメを刺さず長引かれるならまことにつらい。けれどもしょせん何かの拍子に引っかかった一過的な神経痛などかもしれぬ。病気の博識へ陥りたくはないけれど、いたずらな自己診断はそれ自体一つの症状として向こうからやって来るもので、予防のできるものではなかった。
痛くない範囲の呼吸の浅さ、痛くない体勢の狭さ、しかしそれは、心臓自体が悪いのではない証拠だと喜んだら、喜んだために、呼吸や体勢と胸痛との関係が離れて、それ自体痛む。時間が経ち、ある最も悲しい覚悟をひたひたと、また突如として決め得ると、治られる。それが積み重なって、覚悟は重量を失してゆく。
こう胸が痛くてロクに動かれない人間なんぞ社会にもおのが存在にも有害無益極まりない。十代の中頃、それなりの情熱を以て取り組んだ空手やボクシングなんぞも、もうお話にもならぬ。道に心臓が痛くて脈がしばしば抜けているプロレスラーがいても何の恐怖も覚えずそばを通られる。いくら筋力があろうが技術があろうが闘争心があろうが血液のポンプがわやになって根本的の力が抜けている人間なんぞ屁でもない。電池切れのスタンガンだ。虎の毛皮だ。裏向きの名画だ。生き返った幽霊だ。もうパンチをくり出す力もない。せいぜいミサイル発射ボタンを押せるくらいの力しか残っていない。
運動神経も基礎体力も恵まれておったのに伸ばそうとしなかった。周囲に教えてくれる人や相談する人が一人もいなかった不運も前世の努力不足の結果に相違なかった。
中学の体育だったろうか、故意ではなかったと信ずるがバレーボールが変に直撃した瞬間から右目だけ悪い。物がブレて見えづらい。昨年すなわち十五年空けてようやく眼科へ行ったら網膜に外傷の形跡はないものの視力は左より悪く乱視であった。右目だけ悪くなった十五年間のために私は左脳がブレて論理性が濁ったか、右脳がブレて直観性が分裂したか。
幼児期に多動児のケがあると診断された名残であるか私にちょうどいいスポーツがなかった。誰にもないからこそ一流選手たちはああまで達し得るのかもしれぬけれども。八百メートルで市の六位に入った。それが今ではクヨクヨした心臓不安を得、咳ばかりし、どこかのお爺さんがランニングしているのを横目で見送る。
小五からいわゆる筋トレをしていた。十年に達する外出困難であった。薄暗い室内で独り黙々と行っていた筋トレは完全に固定された生活リズムであった。習慣に幽閉され、習慣に生かしめられていた。ノロウイルスに感染しようが、インフルエンザにかかろうが、不整脈が治まらなかろうが、諸関節が痛かろうが、決められたメニューは必ずやった。ことに膝と肩は普通に暮らしていて指摘されるくらいには変形した。
今でも片足のスクワット、片腕の懸垂、レスラーブリッジ、両足を浮かせた腕立て伏せができた。それらいわゆる自重トレーニングを、今もけっきょくやっていた。脈拍は跳び跳びするけれど、心臓病ならこんなことはできぬはずだと思う、しかし現役の真っ只中に心臓でとつぜん亡くなったスポーツ選手やボディビルダーは厳然といた。
痛んでいるのも乱れているのも心臓ではないのではないかと思うとfriendがやって来る。しかし気のせいだと思うには医学にちゃんと認められてしまった不整脈がある。房室ブロックは睡眠中にしか起こらなかったので悪性かどうかいまだわからぬ。私は睡眠中に死ぬだろう、それは最も幸せな将来の約束でありながら、毎晩さて寝ようかと臨むたびに明日は目覚めるかしら……。
頻脈は186徐脈は43。毎秒五、六回で明らかに300を超える乱れ打ちが五、六時間続いた発作と言うべき夜中の死に神は、ホルター検査からは断乎隠れる。救急車は電話口の問診におけるパニック障害の段で来てくれなんだ。後日、心臓を動かしている電気が、うまく抜けずに駆けめぐったまでのことだと言われた時には、その電気は誰が出しているのかと思えば急に生き物の嘘くささ。
ペースメーカーを入れればラクになろうか。入れてくれ得る段を無脈絡に飛び越しそうなのが私たちの心臓だ。今でも頼めばあるいは。しかし病院なんぞ元気になれば毎日でも行く場所だ。今は具合が悪いので行けない場所だ。高齢化社会の有名な落とし噺だ。待合室で老人たちが語らっている。「○○さんはどうした」「さあ。病気でもしたんやないか」
悪因があるから悪果があり、私は悪果にまみれているわけだけれども、罪業は積極的に善根を積むなり修行に励むなりせずんば無くならないのであろうか。一つ悪果に見舞われるたびに一つずつ消えてはゆかないのか、癌細胞のごとく、シッカリ切除しなければ永遠に放射能を垂れ続けるのであろうか!
――これらはしかし遠くにかすんだ現実の話だった。そこにはもっと手強い敵がいた。弁膜症から心不全になって人工弁を入れた友人は、一日五グラム以上の塩を摂ってはいけなくなりながらサーフィンをしている。そこにはランニングしている老人よりも長命なものがあった。
もうずっと会っていない。私の今していることを知ったら縁切りかしら。それからは道で会っても「おう」で「ほんならな」かしら。もう私になぞ構ってはいられないのである。私が思っているよりは心配してもくれているだろうが、仕事と子育てに忙しいのである。
やがて頭も痛くなった。すなわち心臓も脳も悪くないという道理であった。一ヶ所が痛いならそこだが、いっぱい痛いならどこでもないのであった。やがて腹まで痛くなった。波をもって痛む。虫けらのように丸まっている自分がいる。
いや、まったくこれで、どこも悪くはなくなった。
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