昔を思い出す。あれはもう昔と言って良いだろう。珈琲に砂糖を少々の量だけ混ぜ入れて私に差し出す心遣い。それがホテルでともに一夜を過ご明かした女の、唯一の甲斐甲斐しさだった気がする。本当にそれだけだったが、私はその女を愛していた。その時は。その時だけは。
他所の国へ行ったことは一度しかない。――ヘルシンキという街――結局は彼の地が何なのかが分からずじまいという印象ではあった。もはや記憶は彼方へ飛んでいる。
夏は近い。実のところ、紅色に染まった空には苦しめられている。非道いときは一時間のうち二度も発作を起こす始末だ。非道いことが起きなければいいのだが。
恋愛の難しさはあくどい。自分も多少は失策が多かったかもしれないが。結局こんなことにも向き不向きはあるのだ。至極残念な由。
とある夜に。一人のいかがわしい男と酒を飲むハメになった。雨がそぼ降る繁華街の裏通りの酒場へ。いかがわしい彼曰く、自分は六億円の保険金をかけられた木枯らし紋次郎です、だと。俺は心沈み深くため息。ほどなくして一人で酒場を出たのだっけ。
そして夏が来れば派手派手しい水着を身にまとった女が多く海岸に現れる。それなりの地味な水着で十分なのにという手前勝手な社会への失望を抱く。
天空高く昇った太陽の眩しさを感じて目眩。そして我にかえって眼前の光景を見やれば、やはり眩しい人々の群れ。言葉にするとクールビューティーやもしれぬ。だがそれはあくまでも自分の感覚に過ぎぬ。そもそもクールビューティーなる言葉の本質を理解していない自分に怖気のけぞる。
一瞬とはいえ夏の到来を喜ぶ自分に驚き、呆れたものだ。そろそろ潮時が来るはず。何はなくても自裁を果たす覚悟は持てない。まだ早い、早いんだ。
自律神経は常に常軌を逸している自分。眠ってはならぬときに眠り、眠らねばままならぬときは眠れない。食事に関しても同様。
それでも生きねばならぬ浮世の理に吸い込まれて、私の自意識は霧がかっていくのであった。霧氷の季節まで。
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