仕事帰り

前田健作

小説

2,329文字

北関東の寂れた侘しい街に生きる労働者の夢か現かの話です。

 夏は少しずつではあるが確実に近づいているようで、一日中働いてくたびれた身体には強すぎる夕陽の熱が容赦なく俺を襲う。たまらず俺は、コンビニで買った発泡酒を路上で喉に運んだ。空きっ腹に熱いものが灯る。

 ……いつも通りのくだらねえ仕事だった。工場のライン上で動く機械は何もかも取り替える必要があるのは明らかだ。とりわけパンを包装する箇所は一時間に二回はふんづまってサイレンが鳴る。そのたびに下っ端バイトの俺は社員の馬鹿野郎に怒鳴られるという不愉快な公式が完成されていた。

 減価償却の概念を無視している経営陣が一番悪いのは分かる。だが、俺を怒鳴り散らす馬鹿野郎に対してのいらだちが先に立つ。あいつは俺をいつも監視して、わずかなミスも許さない。それが最大の仕事なんじゃないかとさえ思えてきた。

 更衣室で着替えてから工場を出るときに、とっくに終了している「春のパン祭り」のポスターを見やったが、松たか子の笑顔は俺に対してわずかも訴えてくるものを感じなかった。

 そんなことより、二十年以上前から「パン祭り」の広告を続ける松たか子って何なんだ。さらには、同じ期間ここで俺が相も変わらず底辺でこき使われていることに今さら驚く。工場への出入りのたび、松たか子に見つめられ続けた人生。……何を言っているんだ俺は……。

 くだらねえ仕事をさせてくれるくだらねえ工場周辺の街は、くだらなさを通り越した堕落を体現している。何なんだこれは。すっかりお馴染みになった監視カメラの存在も何のその、といった風情の連中しかいない。

 上半身裸の婆さん、下半身を露出している爺さん。それを気にも留めない、酒に溺れた人生の敗残者のような奴ら。似非トンガリキッズ。ついでにドブの臭い。まともな人間はここにはいないと思う。

 上半身裸の婆さんが寄ってきた。ゲロを吐きたくなるが、なんとかこらえる。

「百円をください……」

 もはや生きる気力など失ったかのようなその婆さんは、物乞いをしてきた。

 百円か。

 ほぼ最低時給でくだらねえ仕事をしてボロボロになっている俺も俺だ。が、百円のために己の尊厳をドブに捨てている婆さんも婆さんじゃないか。

 しかし百円か。安いようで実は高いな。

「取っときな」と、俺は婆さんの背後に一円玉を放り投げた。身体も売れない、何の芸もない婆さんに百円をくれてやるのはもったいない。

 婆さんは、路傍を転がっていく一円玉を百円玉と勘違いして、不自由な足をもたつかせながら追いかけて行った。

「兄ちゃん、タバコ一本くれねぇか?」

 不意に後ろから声がした。下半身を露出している爺さんだ。さっきより強烈にゲロを吐きたくなる。ようやくこらえる。

 アル中なのか、元から阿呆なのかは分からない。なんとも締まりの悪い顔をした、坊主頭の爺さんだ。

 あいにく俺は、コンビニでタバコを買い忘れてしまい、ポケットへしまったメビウス十ミリグラムの箱には一本もタバコは入っていなかった。

 ちょうどいい。ゴミを捨てる場所を探す手間が省けた。俺はメビウス十ミリグラムの箱を爺さんの足元に投げる。爺さんは空き箱とは知らずに拾い、大量のタバコをゲットしたと勘違いして、猿のような卑しい笑みを浮かべながら走り去っていった。

 夕陽はほとんど沈んだ。湿気を帯びた夜風が生ぬるくて気持ち悪い。

 俺は二本目の発泡酒を飲み終えた。俺にとって仕事が終わったあとの慰安は、酒以外に無かった。とはいえ、明日の仕事が始まる時刻を考えれば、ウイスキーなどに手を出すのは御法度だ。頭も身体も使い物にならなくなる。ただでさえ職場で「テメエは使えねえな」と罵倒される人生なのに。あんな青二才にこき使われる人生など想像もしていなかったものだ。

 社会の歯車。かなり小さいが、かろうじて歯車となって機能している以上はギリギリの体勢は整える必要がある。

 もしかしたら工場の歯車になっているかも怪しいけど。工場の機械の歯車はイカレてしまっているけど。

 ぼろアパートの暗い部屋に帰るか……と、この汚れきった街をあとにしようとした瞬間。さっきまでとは違った嫌な気分に襲われた。理由は分からない。だが、しばらく様子をうかがうと。

 俺は見つけた。上半身裸の婆さんが、電信柱の陰から恨めしそうに俺をにらんでいる。あの婆さんがこんな目つきをするのか。

 少し驚きながら目を移すと、下半身を露出している爺さんが猿の笑みで俺の斜め四十五度後ろ二メートル辺りで付いてきている。

 どんな相手であれ、恨みを買うことをしてはならない。そう思い直したが、遅いような気がしてきた。

 視界の右半分に歯車が回っている様子が現出した。

 なぜか、職場の馬鹿野郎が血走った眼球をギョロリと俺に向ける姿。

 信号機に付属している監視カメラのランプが点滅しつつレンズを俺のほうに向けている。

 下半身を露出した猿が「キーッ」と小さく鳴いたような気がした。物乞いは電信柱の陰から飛び出した瞬間に前へつんのめって転ぶが、起き上がりながら不敵な笑みを。

 視界の左三分の一にも歯車が回っている様子が現出した。俺という存在はやはり壊れた歯車に過ぎないのか。

 アルコールと生ぬるい風、そしてドブの臭いが混ざり合って、俺は今にも吐きそうだ。

 と、前につんのめって道ばたに倒れ込んだ。

 何がどうなってるんだ。

 月明かりのくだらねえパン工場の上で、巨大な松たか子の生首が浮かんで薄笑いを浮かべている。

 ……くだらねえ……何なんだこれは……俺はどうすればいいんだ……。

 視界が暗くなっていく。「キーッ」と猿の鳴く声。パン工場のサイレンが鳴る。俺は盛大にゲロを吐く。

 暗くなりつつある視界を支配するのは、歯車、歯車、イカレた歯車……。

 実にくだらねえ。

 目の前では歯車が回る向こうで、薄っぺらい一円玉だけが光っている。

2022年1月3日公開

© 2022 前田健作

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