歓楽街の前に立った佐藤は服の胸ポケットを確認した。そこには一枚のクレジットカードが入っていた。服越しにそれの感触を確かめる。頑張ろう。と思った。なんとしても。頑張らなくては。佐藤は歓楽街に入っていった。
ある日、佐藤の元に見知らぬ宛先から一通のメールが来た。
《スイス・フェア 今がチャンス》
開いて中を見ると、
《安楽死に興味はありませんか。興味があるならこちらをチェック》
そう書いてある下に青い文字でアドレスが表示されている。何故自分にこのようなメールが来たのか。佐藤はわからなかった。迷惑メールかウイルスだろうか。でも、
安楽死。
興味はある。
佐藤はアドレスをクリックした。するとその瞬間スマホが振動した。見ると知らない番号からの着信。出ると、Zytgloggeのなんとかと言いますが、今お時間少々よろしいでしょうか。と声がした。Zytglogge。安楽死のメールにもそう書いてあった。そのまま詳しい説明を受けた。要件は、
「安楽死しませんか」
という事であった。します。佐藤はそう返答した。ありがとうございます。電話口の声はそう言った。
その後、日を改めて池袋にある件の会社に出向く事になった。池袋と言えば近くに。その社屋は立派なビルだった。中に入るとすぐに担当者が来た。同年代位の紺のスーツを着た女性。その胸元にZytgloggeと書かれた名札が付いている。斎藤とあった。その人に案内されて立派な部屋に入った。彼女は佐藤の向かいに座るとノートパソコンを開いてそれから、この度はどうもありがとうございます。と言って頭を下げた。それから何気ない感じで安楽死に関しての説明をした。スイスには安楽死という選択があるんですと。佐藤が、どうして自分の所にそういう連絡が来たのか尋ねると、
「以前、安楽死の権利の取得をスローガンにした政党に投票されましたよね」
と言われた。はい。しました。
「それで連絡をさせていただいたんです」
「そういうのって、わかるもんなんですか」
「今はマイナンバーカードがありますから」
そうなんだ。へえ。
「そういう訳で、佐藤さんに安楽死の希望があれば」
「スイスに行くんですか」
「検査をしてからですが、行きます」
「やります」
「そうですか」
斎藤女史は嬉しそうに笑った。
説明が終わると部屋を出てエレベーターに乗った。その後、ここで着替えてくださいとロッカールームに案内された。そこで検査着に着替えてから両開きのドアを一枚抜けると、そこは健康診断会場の様になっていた。あちらでお待ちくださいと言われて、佐藤は熱帯魚の水槽の前の椅子に座った。会場には何かの曲が流れていた。クラシック。わからないけど。佐藤は徐々に面白くなってきていた。
そこで様々な検査を行った。血液検査とか、血圧とか、身長体重とか、内臓の検査とか。検査中ずっと、安楽死したいって言ったら健康診断されて体の隅々まで調べられてる。という事を考えていた。
以上で終了です。お疲れさまでした。
座って水槽の熱帯魚を眺めていると、佐藤の血液検査をした看護師が、彼女は針の刺し方がうまかった。が来て、そう言った。刺し方も抜き方もうまかった。胸元のネームプレートには鈴木とあった。それを覚えるくらい彼女は注射がうまかった。
着換えてロッカールームを出ると斎藤女史が待っていた。彼女はお疲れさまでした。では本日は以上で終了になります。と言った。
Zytgloggeを出ると佐藤は南池袋一丁目の交差点にある東通りという通りに向かった。その先には雑司ヶ谷霊園がある。前々から一度行きたいと思っていた。竹久夢二の御墓があるからだ。別に竹久夢二を知っている訳じゃないんだけど。でも水曜日のカンパネラに竹久夢二って曲があるから。
雑司ヶ谷霊園には草木が豊富に生えており、至る所に花が咲いていて、その周りを蝶が飛び交っていた。あまたの墓が並んでいる。それらが木々の合間から差し込む日の光を浴びている。静かで荘厳で美しかった。竹久夢二の墓を見つけると、その前で水カンの竹久夢二を聴いた。シューベルトも聴いてみようかな。そんな事を思った。その時、スマホが鳴った。見覚えのある番号からの着信。
「Zytgloggeの斎藤ですが」
出ると、電話口から声が聞こえてきた。
「今、大丈夫ですか」
その声は少し上擦っていた。
Zytgloggeの会社に戻ると、斎藤女史が走って来た。最初に説明を受けた部屋に再び案内された。
「すいません。こちらも今しがたわかったんですけども」
先ほどまでのような余裕が感じられない。佐藤は不安になった。
「あの、」
「はい」
「佐藤さんはDTなんですね」
「DTって」
「あ、すいません。今年の末からそういう名称の病歴になるんです。童貞なんですね」
斎藤女史は言った。
「はい」
それが何か。
「あのですね。現在、欧州では喫煙者に次いで、DTとか処女、SYっていうのが」
恥ずべきという風潮になっておりまして。WHOでもこれらを社会生活運営困難症という新型の症状として考えておりまして。
「どうしてそれが」
社会生活運営困難症という事になるんですか。
「他人に興味が無いとされてます。未来を考えていない。自分が死んだ後の世界に関心が無い。それに」
長年に渡ってそれを抱えているとハードルが高くなるというか。妄想癖。思想があるのではないか。健全ではない。大人になりきれていない。いつかどうにかなると思っている。それは精神にも影響を及ぼしているのではないかと。
「そんな」
佐藤は呆然とその話を聞いた。別に大事に守っていたわけではない。ただ……、
「はい。保険証がマイナンバーに統合されますけども、その時にこれもデータに反映されます」
社会生活運営困難症。ADHDとかPTSDみたいだ。DTSY。
「それで」
斎藤女史は少しの間じっと佐藤の事を見つめてから。
「佐藤さんは大事にされてたんですか」
「そんなことは無いです」
ただ。子供の頃から死にたかったんです。ただ単に。死にたいと思って生きてきたんです。だからそれ以外の事に興味が無くて。誰にも言ったことないんですけども。みんなそういうの嫌いみたいだってわかったから。どうせ最後はみんな死ぬのに。
「じゃあ安楽死の為にDTを捨てれますか」
「はい」
「それからもう一つお願いがあるんですが」
「なんですか」
「DTだとわかられないように童貞を捨ててほしいんです。あと奔放ってくらいヤッてほしいんです」
佐藤さんのデータからDTの登録が抹消されるまで。
「童貞だとわかられない感じで童貞を捨てる理由はあるんですか」
失敗というか、そういうのって記憶や意識に残ってですね。で、それがデータになるんです。個人データ。マイナンバーカード。DTを捨ててもDT感が残るような感じだと駄目なんです。
それから斎藤女史は、ちょっと待っててください。と言って部屋を出て行った。佐藤は窓の外を眺めながら、死にたい死にたいと思い続けた。言葉に出した。口に。死にたい気持ち。ずっと隠していた。それが。噴き出す。安楽死の為に童貞を捨てる。構わない。いらない。死にたいでも、童貞だとばれないように童貞を捨てるというのは。安楽死したい難しいんじゃないだろうか。空気感が出るだろう。死にたい死にたいDTの空気感が安楽死したい。
「お待たせしました」
戻って来た斎藤女史は佐藤の前に一枚の黒いカードを渡した。
「これ何ですか」
「こちらで用意したクレジットカードです」
それで風俗でもデリヘルでも立ちんぼでもパパ活相手でも何でもいいで。やりまくってください。一か月ほどそういう生活をしてたら、まあ目算ですけども、おそらく佐藤さんのデータからDTが抹消されると思います。
「でも童貞は」
童貞うんぬんについては。
「それはこれから弊社で何とかします」
どうやってですか。
「特訓です。頑張れますか」
「勿論。安楽死できるなら」
またエレベーターに乗って移動した。降りると健康診断と同じ。ロッカールームがあって、その先に両開きのドア。着替えてドアを抜けると、そこには鈴木さんが。採血の技術の高さに感嘆した。死ぬまで血を抜いてくれたらいいのにと思った。抜いた血は全部、献血にあげても排水溝に捨ててもいいですと思った。鈴木さんが立っていた。
「こちらにどうぞ」
鈴木さんは佐藤の事を熱帯魚の水槽の前の椅子に座らせた。それから、大丈夫ですか。と言った。佐藤が、はい。と答えると、彼女は、鈴木さんは突然キスしてきた。舌も入れてきた。いつの間にか検査着の下も脱がされていた。佐藤は逃げようとした。驚いて。それを見越したように鈴木さんは、
「大丈夫。ターミナルケアの現場で慣れてますから」
それから舌を出して、舌。涎が垂れて。ピンク色。鈴木さんの舌。綺麗な舌苔。鈴木さんの舌苔。掌に涎を集めて。その手が佐藤のチンポに触れる。勃起していた。鈴木さんの手がチンポをしごいた。熱帯魚の水槽の前。魚が泳いでいる。佐藤は吐精した。精液が飛んだ。でも勃起は収まらなかった。鈴木さんはしごき続けた。
「いっぱい出ましたね。でも、」
がんばってもっと出しましょうね。
「特訓、頑張りましょうね」
耳元で声がする。耳を舐められる。鈴木さんの舌で。また精子が出る。出た。精液が水槽まで飛んだ。付着したそれをエサだと勘違いして魚が集まって来た。
鈴木さんはしごき続けた。佐藤は今死にたいと思った。ここで死にたいと思った。採血が上手な鈴木さん。針の刺し方も抜き方もうまい鈴木さん。精子を抜くのも上手。すごいなあ。死にたい。今死にたい。
「これが終わったら今度はおっぱいですよ」
今死にたい。ここで死にたい。死にたい。死ね。今死ね。最高だろうな。気がつくと何かの曲が流れている。クラシック。さっきと同じ曲。佐藤にはその曲が美しいと思えた。さっきは何とも思わなかった。でも今は思う。美しいと思った。天国みたいだと思った。まるで天国みたいな音楽だ。
「これはなんて曲ですか」
「シューベルトのアヴェ・マリアです」
アヴェ・マリアをピアノで演奏しているんです。
アヴェ・マリア。クラシックを知らない。でも、ピアノの飛び上がる様な高い音が聞こえた瞬間、また射精した。
とても、
綺麗ですね。美しいですね。
まるで、陽光の中の雑司ヶ谷霊園みたいですね。
また口が塞がれる。鈴木さんの舌、舌苔が入ってくる。いい匂いがする、何かそういうサプリとか飲んでるのかな。それともそう思うだけなのかな。まあ、そんなの今どうでもいいか。
とても、綺麗ですね。
そう思うと、また出た。精液が飛んだ。水槽まで飛んだ。
死にたい。今死にたい。安楽死したい。安楽死しなくてもいい。今死にたい。
水槽の色々な所に魚が、精液の付着部に集まっている。エサだと思っているのか何度もガラスをつついている。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-07-25 20:13
この話を読んで「精液って血液からできてるんじゃなかったっけ」っていうのを思い出したんですけど、調べても出てこないので私の妄想かもしれないです。
主人公の価値観でいくと腹上死は最高ですね。なおかつ、果てると同時に昇天だと芸術点が高い気がしてきた。
水カンがクライマックスではないところで出てきたのが意外でした。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-29 04:49
感想いただきましてありがとうございます。
毎回水カンをクライマックスに持ってくると、ちょっとあれかなと。
「水カンクライマックス人間」
と思われるかなとwww
あと、健康診断会場で水カン流れねえだろって思いましてwww
これからも合評会においては水カンを出していきたい所存です。よろしくお願いいたします。
眞山大知 投稿者 | 2024-07-26 18:12
安楽死をめぐる話なのに悲壮感が少なく、すんなりと読むことができました。
もしかしたらWHOに童貞処女が疾患のひとつに指定される日が本当に来るんじゃないかと思わされました。そういう時代になったら、新聞の一面を「童貞処女 全国に〇〇◯◯万人」なんて見出しが飾るかもしれません。なんという息苦しい国……
それとすごく自然に水カンが挿入されていて探せたときは喜びました
小林TKG 投稿者 | 2024-07-29 04:54
感想いただきましてありがとうございます。
ちょっと前に、Xにスイス(確か、うる覚え)で安楽死をする人の動画があってですね。それで、じゃあスイスってなりました。調べて見るとスイスってWHOもあったりして、便利でしたwww
悪の組織みたいに書いてしまったのはよくなかったと思うんですが、まあ、スイスは寛大だから許してくれるかなと思います。永世中立国だしね。
浅谷童夏 投稿者 | 2024-07-26 20:23
安楽死するために、童貞卒業をお膳立てされる主人公。ネガティブな目標とポジティブな条件。普通逆が多いこの設定に惹きつけられました。そこから主人公が誘導されながら童貞喪失の流れに乗せられていくシュールでエロい展開。不穏でゾクゾクします。この後主人公はどうなってゆくか、色々と考えさせられました。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-29 04:57
感想いただきましてありがとうございます。
普通逆?
ああ、死なないために童貞を喪失する。
なるほどなー。
全然考えてなかったです。その設定www
思い付きもしませんでしたwww
安楽死したい。どうしたら安楽死させてくれる。童貞喪失したら安楽死できます。じゃあ、します。しか考えてませんでしたwww
ああ、なるほどなーwww
大猫 投稿者 | 2024-07-28 13:00
静かな書き出しから淡々と恐るべき話が進んでいるな、と思っていたら、最後は怒涛の熱帯魚水槽前シゴき連発。鈴木さんはスゴ腕ですね。でも一体何のために? 初体験の前に適度に抜いておいてあげるためか、それともただの趣味なのか。
とすると、冒頭でクレジットカードを胸に歓楽街に入って行くのは、鈴木さんのシゴきの後のことなのかな。だとしたら精力凄すぎです。
DTSYの用語センスにシビれました。
今回もそこはかとなく水カンが散りばめられていていい感じです。
同一線上に煌めく死とエロス、さすがですね。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-29 05:09
感想いただきましてありがとうございます。
別所の話になるんですが、この話を書くちょっと前に、古賀コン5がありまして、そこで書いた話に対しての、講評で、徐々に不穏に持ち込む人って言われておりまして。
私。
すごく。
すごく有難いんですけども。
とても有難いんですけども、でも、
「あ、そうなんだ私って」
って思ってですね。有難いんですけども。
だから、今回この話は、先に安楽死って出そうって思って。不穏から変転する話にしたくてですね。はい。それこそシューベルトの即興曲みたいに。