僕は駱駝に乗って砂漠を彷徨っている。昼には灼熱の太陽に晒されて滝のような汗を流しながらただただ唇を噛みしめて不快に耐え、夜には冷んやりとした砂の手触りにほんの少しの救いを感じる。そうして僕は砂漠を彷徨っている。あたりに人間は一人もいない。しかしまったく見えないほどの遠くに、同じ砂漠を彷徨う人間たちのいるのが僕には確かに感じられている。見えない彼らの存在が僕を励まし、心地よい癒しを与えてくれる。
《苦しんでいるのはお前だけではない。》
苦しみは分け与えることができない、大切な人の苦しみを半分だけもらうことはできないと言う。しかし僕はそうは思わない。まったく同じ苦しみを持つ人間が横に一人いれば、苦しみは半分になる。苦しみが溢れかえれば、世界は平和の様相を呈し始めるだろう。それは傍目には、幸福が溢れかえった世界と区別がつかないだろう。
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もはや総体を得る必要はない。体系を求める必要はない。誰だって内部に小さなそれを持っている。資産家には資産家の、医者には医者の、会社員には会社員の、娼婦には娼婦の、無職者には無職者の、殺人者には殺人者の体系があり、それらはそれぞれに最大の意味をもつ重要な獲得物である。彼には彼だけの果実があり、その味は彼以外には劇薬である。医者は無職者に耐えられず、資産家は会社員に耐えられない、それは逆もまた成り立つようである。
体系は分節化され、細分化されている。そうして小さく、小さく、限りなく小さくなった体系はすべてを含み込む元の大きな体系よりも意味を弱めるわけではない。依然細分化されるより前と同じ、あるいはそれ以上の強度を持って彼という存在を規定し続けるのである。しかし現代においてもはや幻想にすぎなくなった大きな体系をいまだ求める弱者たちは、自らの存在をすでに規定している強く小さな体系に気付くことなく迷い、迷い、限りなく迷い続ける。それは現実的に決着のつくものでなく灰になった彼らが夢のうちにやっと徒労であったと聞かされる、そんな類の問題である。
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《現代人は遊戯者であらねばならない。》
遊戯者であるためには自らの意見を標榜しいたずらに戦ったり他者を罵倒したり否定したりしてはならない、だろうか? 遊戯者は四畳半の部屋に引きこもり、状況に応じて「勝利を約束された大人の意見」を選び取って即座に論理を構築し、赤くなって唾を飛ばしている議論者をせせら笑わなくてはならない、だろうか?
否である。
真の遊戯者は自らを安全地帯に置かない。それは単なる臆病者であって人生という無限のフィールドを軽やかに踊り、跳ね回る遊戯者とはもっとも遠い存在である。デタッチメントが効力を持つのはアタッチメントとの相対的な関係においてであり、徹底したデタッチメントが何の意味も持たないことは自明であろう。それは現実なき虚構が意味を持たぬのと同じことである。存在として確立されてしまうのを恐れる「識者たち」は己が小さな体系として円環を閉じてしまうことを嫌い常に流動的な状態に身を任せどちらにでも転べるよう膝を柔らかく使いまるで何度も王座の防衛に成功したアウトボクサーのように対象に軽い一撃を与えては逆の方へ逃げ出す。「識者たち」は笑う。「馬鹿が、やってやったよ、馬鹿ばっかり言ってるからさ、一発やってやったよ」……しかしその一撃は実際のところ蚊の一噛みにも及ばぬだろう。わずかに服に付着した不快な埃ほどの衝撃も与えないその些細な一撃は、「識者たち」にとっては最大の攻撃なのである。彼らは、本気を出しさえすれば熊をも倒せる右フックを打てると思い込んでいる、しかし威力に乏しいスピードだけが売りの左ジャブを打ち続けた結果、彼らの攻撃の最大のものがもはや左ジャブでしかなくなってしまっているのだ。それに気付いているものは少ない。そして、気付いている者も気付いていないふりをする。そうする以外に彼らの腐り落ちかけた脆弱な精神を生き長らえさせる術がないからだ。そうして彼らは何事をも選択することなく、滑稽な根無し草としてデタッチメントに塗りつぶされた灰色の生涯を終える。
あなたは「識者たち」のようになりたいか?
《参加せよ!》
*
僕は砂漠を歩いている。何もなく、何もなく、何もない場所で、美しい光が目に飛び込んでくるのを感じ反射的に光の射す方へ駱駝を走らせる。オアシスだ、僕は喉がからからだし食糧も残りわずかになっている、助かった、オアシスにたどり着ければ大丈夫だ……
そうして近付いていくと、オアシスは跡形もなく消滅する。蜃気楼だ。オアシスは大きな体系という名の幻想のように、近付けば遠ざかって、その姿をちらりと見せたかと思うと隠れてしまう。「ありそうであること」、それが幻想の最低条件なのだ。僕はすべての幻想を捨てようと思いここに来た。幻想を抱きながら、虚構に支えられて一生を生きていくことは屈辱だから。それなのに、少し苦しくなって、ないとわかっているオアシスをあるかもしれないと思い込み、同じように苦しみながら長い間旅をしてきた駱駝を乱暴に扱ってしまった。失格だ、僕は砂漠の放浪者として失格した。他のやつらはどうだろう、まだがんばっているやつもいれば、死んだやつもいるみたいだ。すべて幻想をはぎとれば、誰の人生もこのような砂漠になる。愛、友情、希望、歓喜、快楽、それらはすべて砂である。幻想を信じ込んで、裏の味気ない舞台装置には目を瞑って欺瞞の生を生きるのか、幻想の不在を真摯に受け止めて暗い生を生きるのか、僕たちにできるのはそのどちらかだ。どちらも嫌だというなら、酒でも飲んで酔っ払うか、狂気に走るか、あるいは死か、どの道ろくな選択肢は残っていないだろう。
*
砂漠の青年は遊戯者だろうか? 少なくとも「識者たち」よりはそれに近いが、真の遊戯者とは言えない。遊戯者は人生を悲観しない。遊んで遊んで遊び倒す、所与の条件を存分に利用してその場その場で新しい遊びを作り、その都度真剣になる。そして首尾一貫した思想を持ち、玉虫色の逃げを打たない。選び取った立場で、自らの存在を確かなものとした上で踊って踊って跳ね回る。彼らは常に動いている、この世界で静止することは後退と不安定を意味する。自転車が走っている間だけ平衡を保てるように、ここにおいて人間は「動的安定」以外の安定を保証されない。遊戯者の目には世界は石のように確かだが、その他大衆にとって世界はそれこそ蜃気楼のような危ういものである。見えている間はそこに立っていられるが、見えなくなればたちまち命を落とす。残酷なようだが、彼らは同情に値しない。淘汰されるべき旧時代の人間であったというだけだ。
《来たれ、新しい人よ!》
*
「ねえ、どう思う?」
「はい?」
「今のを聞いて何か感じることない?」
私ははっきり言って「今の」をさっぱり聞いていなかった。もう話なんて一つも聞きたくなかった。大阪駅で『GO』の頃の柴咲コウの死を目撃した私はひどい気分になり、トイレで何度か吐いてから、それでも家に戻る気分になれず大阪環状線に乗り込んだ。やはりまだ、大学受験不合格という事実を受け入れられていないのである。なんだかこうして電車に乗っている限りは私の不合格という事実があやふやなままで、家に帰って両親に面と向かって「落ちました」と言った瞬間にばっちり確定してしまうような気がしていて、私はそれを馬鹿な妄想と知りつつも、できるだけ長く電車に乗っていようと考えたのだった。
私はただただ電車に揺られ、窓を見ていた。景色ではなく、窓を見ているのだと思った。窓というディスプレイに映し出されるものをひたすら見せられているだけで、ほんとうは一ミリも移動なんてしていないのではないか……なんてつまらないことを思いながら。
「どうなのよ、何か感じたでしょう」
やや苛立って話しかけてくる女はどうやらバニーガールのコスプレをした蒼井そらのようだったが、彼女のことを私は2002年6月発売の『Bejean』誌でグラビアデビューした時から知っていたし、同年7月に発売されたAVデビュー作『Happy Go Lucky!』は握手券もついていないのに10枚買った。だがこれは蒼井そら単独の力ではなく、蒼井そらがたまたま私の通っていた中学校のアイドル的存在・内山理名ちゃんに似ていたからである。私は蒼井そらのセックスを見ながら内山理名ちゃんを思い描いて自慰行為を楽しんでいた。内山理名ちゃんは中学校に入った瞬間に人気が大爆発、三年間にわたり自主制作の画質の荒いモノクロ写真集(一万円)を作り続け、性の芽生えを迎えた男子生徒に上目づかいで売りつけ続けた。もちろん中学校にいた男性教師陣も一人残らず内山里名ちゃんを女神だと思っていて、恋人や妻に内緒で、制作費五百円程度のモノクロ写真集を定価で買っていた。生徒たちは一か月の小遣いが三千円だったり五千円だったりして、一冊出る度に二、三か月の貧乏生活に耐えねばならなかった。
しかし私の場合は事情が少し違った。私の父親は永井浩二という芸名で有名なギャンブラーであり、パチンコで毎週平均十万円ほど勝っていて、いつも家から徒歩五分のところにあるパチンコ店の入り口に近い台に座り、「爆裂!」の札を誇らしげに、大量の銀の玉の中に突き刺していた。私は父のドル箱に「爆裂!」の札が刺さっているかどうかを、いつも何気なくパチンコ店前を通って確認し、刺さっていた場合には帰ってきた父親の財布から一万円札を一枚だけ抜き取ることにしていた。そうして私は大した苦もなく、高価な内山理名写真集を手に入れられたというわけである。父はパチンコゲーム動画配信なども熱心に行っていたようで、今でも多くの動画を見ることができる(参考:永井先生のパチパラ14)。
バニーガールのコスプレをした蒼井そらは「ねえ、黙ってないで何とか言いなさいよ、思ったこと、何でもいいから言ってみなさい」と私にぐいぐい迫ってきた。彼女のバニーガール姿は車両内の多くの男性の視線を釘付けにしていた。
「いや、あの、何だか凄い、いい話だなって思いました」
私は聞いてもいない話の感想を曖昧に答えたのだが、蒼井そらはひどく感激して私の手をとった。
「あなたならわかってくれると思っていたわ! 私は尻教会の宣教師、蒼井そら。さっきのは私たちのバイブル、尻教典の序文なのよ」
「尻教会?」
「ええ、女性のお尻を神とあがめる、斬新な教義を持った現代的な宗教団体よ。女性のお尻の丸みをおびた美しいフォルムは生命そのものをあらわしている。その中心から排泄されるものは美の対極にあるものだけれど、すべてが美のみで成り立つようなものは、形而上的な世界にしか存在しえないわ。お尻は理想を語るだけでなく、現実にしっかりと目を向けろというメッセージも内包している。何よりも、仏教の釈迦やキリスト教のイエスみたいに、今すでに存在しない、嘘で塗り固められたインチキの信仰対象とは決定的に違うわ。仏像やロザリオみたいな形骸化したものに頼らなくたって、女性のお尻は普遍的に、どこにでも存在している。これからも半永久的に存在し続ける。女性のお尻こそが、人類が探し続け、捏造し続け、信じ込もうとし続けた神様たちすべてを打ちのめして無に還す、最後にして真実の神なのよ」
「いや、ほんとに意味わからないんで、もうやめてもらっていいですか」
「何いってるのよ、あなたには資質があるわ」
「どうしてですか」
「あの序文をいい話だって言ったでしょう。でもね、驚いたことに大抵の人は話を聞こうともしないのよ。真実に目を向けることができない、私たちはそういう人間たちのことをブラインドと呼んでいるわ」
私も聞いていなかった、とは今さら言い出せなかった。
「私は日本だけでなく、中国でも布教活動をしているの。最近では中国人の信者も爆発的に増えているのよ。あなたならきっと、尻教会の未来を担う幹部になれるわ」
「いや、あの」
「がんばっていきましょうね!」
蒼井そらは私の手を強く握り、やや強引にキスをしてきた。数々のAV男優の唾液を塗りたくられてきた唇であることが一瞬頭に浮かんだが、柔らかな舌を入れられたときにはもうそんなことはどうでもよくなっていた。
第七章・完
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