ぼくは平日の朝九時から、イオンのフードコートで水をのんでいた。おなじ空間には、数人の老人がいた。マクドナルドのコーヒー片手に、新聞をひらき、あるいは文庫本をひらき、あるいはスマホをいじってる。ぼくは、スマホをいじっている。そして、翻訳せねばならない小説のことを、すこしだけかんがえている。十三章あるうちまだ二章しか訳していない小説である。今月中にどうにかせねばならないが、今月はあと五日しかなかった。
老人の顔は、みんなおなじに見える。青年期にどんなにとがっていても、あのくらいの年齢になると、みんなおなじ顔になるのだ。そしてみんなおなじところにあつまり、おのおの、マクドナルドのコーヒーをのむのだ。
つい、
「ぼくはねえ、つまんないアメリカの小説を翻訳してるんですよ!」
とさけびたくなる瞬間がある。
「いいじゃないか、読ませてくれ」
などと、おなじ顔の老人のひとりが言ってくるかもしれない。そして、ぼくがカバンからとりだしたコピー用紙の束――二章までしか訳されていない小説――に目をとおして、「まあ、いいじゃないか。つづきができたらまた読ませてくれ」などと言いかねないけはいがある。
しかし、なにが良いというのだろうか。老人どもに、この小説のなにがわかるのか。ぼくでさえどこが良いのかちっともわからないというのに。
嫌になってぼくはたちあがった。老人たちはだれひとりとしてぼくのことを見ない。ぼくは老人たちを目で追ってばかりいるのに、やっこさん、こちらにはなんの関心もないらしい。それがまた、腹だたたしい。こういうやきもきは美少女に感じたいものだ。
モール内をぶらぶらして本屋のまえについた。小説が読みたかった。ぼくの翻訳はよく「ぎこちない」といわれる。小説の文体になっていないとも。その「小説の文体」というのが、わからないのだ。
入口には新刊がひらづみになっていた。燃え殻『夢に迷って、タクシーを読んだ』という本が目にとまる。七五調かとおもったが、ちがった。それから、七五調じゃないからエモいのだろうと勝手に納得した。その本を買った。
フードコートにもどると、老人が半分ほどに減っていた。だれが消えたのか、説明できるはずもないが、すくなくとも新聞紙をひろげていた老人は、いない。ひろげていた新聞を読みおえたのか。読みおえたら、もういいのか。これは発見だった。することがなくなったら場をはなれるというあたりまえのことが、老人にも当てはまるとは。
そうすると、おなじ場にとどまりつづけるひとというのは、やるべきことをいつまでもあとまわしにしているひとなのかもしれない。たとえばぼくのような。
そんなことをおもいつつ、ぼくは『夢に迷って、タクシーを読んだ』をひらいた。
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