上司Mの死

消雲堂

小説

1,274文字

僕の上司とのお話です。

以前勤めていた会社の元上司Mから送られた手紙を水道橋の神田川に捨てたことを思い出した。妻が乳がんの摘出手術をする前のことだった。手紙の主であるMは、僕が所属する業界新聞の副編集長だったが、大阪生まれなのに要領の悪い人で、定年過ぎまで長く会社に勤めた後に肺がんを患い、埼玉県にあるがん病院に長く入院した後、あっけなく死んでしまった。

そのMが肺がんで入院したと聞いたが僕は見舞いに行かなかった。当時、僕は他部門に異動しており、いまさら元部門の上司との関わりを持ちたくないと思ったからだった。その代わり、小額の見舞金をMの見舞いに行くと言うパートの女性に託して元上司のことを忘れようと勤めた。僕は酷い男だった。

ある日、闘病中の上司から手紙が届いた。多分、病床で書かれたものだと思う。手紙は「渡部くん、お見舞いをいただき本当にありがとう。本当に嬉しかった。君は他部門でもじゅうぶんに活躍できるはずだから頑張ってください」という短い文章だったが、それを見て僕は泣いた。

その数週間後に上司は死んだ。僕は見舞いに行かなかった自分を人として最低だと思った。元気な頃の元上司の姿が幽霊のように脳裏に浮かび、いつまで経ってもそれは消えることがなかった。

その2年後、妻は乳房に針で刺されたようにチクチクとした痛みを感じて飯田橋にあるK病院で診察した。マンモグラフィでしこりが見つかり、太い針を乳房に突き刺されて細胞診を行った。結果は乳がんであり、大きさは2センチであると診断された。

無知な僕は「がんは死の病い」と思い込んでいたので、その結果を聞いて言い知れぬ不安に囚われた。何度も言うが僕は酷い男だった・・・結婚してから妻を考えられないほどに粗末に扱ってきた僕は、多分死ぬはずであろう妻に対する後悔の念に恐怖したのだった。

僕は生まれて初めて経験する恐怖感から、がんに関する本を片っ端から読み漁った。ところがその知識は負の方向に・・・しかも何故か非科学的な方向に働いてしまった。

「妻が乳がんになったのは、肺がんで死んだ元上司が僕を呪っているからだ」という馬鹿な思いが首を擡げた。それからできるだけ死の要因になるものを処分するのだと僕は決めた。Mの手紙を川に流すというのもそのひとつだった。呪いは水に流しとどまる所がなく海に漂えば、僕たちに対する呪いも消えるはずだと思い込んだ。

妻の入院日が決まる前、飯田橋のK病院で診察後に「お前が手術する前に、この手紙を川に流そう」と言って、妻と一緒に水道橋まで一駅歩いて汚れた神田川にMの手紙を捨てた。妻が入院するはずだった病院は飯田橋にあって、その下流に位置する水道橋から神田川に流して最終的には東京湾に流れていくだろうと思ったからだった。僕は妻の死の要因をひとつだけでも処置できたことに満足した。僕の手を離れた元上司の手紙はヒラヒラと風に吹かれて塗れた護岸壁にぴったりとくっついたあと、数秒後にはハラリと剥がれて神田川の川面に吸い込まれていった。

それから妻の手術は成功し10年経った今でも、僕の上司に対する後悔の思いは消えないのだ。

2015年5月20日公開

© 2015 消雲堂

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