バルセロナ紀行

一希 零

小説

2,242文字

BFC5、1次予選通過作品。「バルセロナ紀行」紺一希

なにが食べたい? どこへ行きたい? に、なんでもいいよ、君の好きなほうに合わせるよ、としか言わない僕は、モテないし、男らしくないし、優しくもない。大抵の女性はそんな僕に早々に愛想を尽かしたが、彼女はそうでなかった。付き合って五年が経つ。ある日、バルセロナに行きたい、と彼女が言った。いいね、行こう、と僕は言った。旅行のすべてを彼女が手配した。彼女と初めての海外旅行。二○二三年、夏の話だ。

 

出発。二十時頃、成田国際空港に着き、カタール航空のチェックインカウンターへ向かうと、該当の便が欠航になっていた。本日中の便の振替は不可能、空港近くのホテルで一泊いただき、明日一番の別便を手配する旨を告げられた。手配されたホテルで夕食を取ると、用意された部屋で彼女は旅行のリスケに勤しんだ。僕は売店で買ったプレモルを隣で仰ぎ、ごめん、と謝る。彼女は無言で頷く。翌日早朝の便で、十五時間空を飛び、フランクフルト国際空港に着いた。旅行中、もう少し働くことを彼女に約束する。売店でビンディングという地ビールとホットドッグをひとつ頼んだつもりが、二つ注文されてしまう。わからない時、イエス、と言う癖が僕にはある。わらなかったら、まずノーと言うの、と彼女は言った。フランクフルトからバルセロナ・エル・プラット国際空港までは一時間半で着いた。サン・パウ病院の隣に位置するホテルまでタクシーで行き、チェックインを終えると夜中の一時を過ぎた。僕らは手早くシャワーを浴びた。好きだよ、と彼女に告げて眠りに就く。

一日目。早朝のガウディ通りを歩く。空気中の水分が少なく、太陽を近く感じる。碁盤の目状のバルセロナ新市街を斜めに突き刺すその通りは、サン・パウ病院とサグラダ・ファミリアを結ぶ。道の両脇には飲食店が連なり、道路の中央に設置された屋外席は夜になると賑わうが、朝は時々犬を散歩する人を見かけるくらい。計四匹の犬とすれ違い、すべてが大型犬で、飼い主は若い女性だった。サグラダ・ファミリアの中に入ると、僕らは虫になる。建物を支える柱は木の枝、植物の茎だ。色彩豊かなステンドグラスは不規則な形と色の並びで、中世的な教会のステンドグラスと異なる。草葉の先に滴る露に、光が差して虹色に輝くよう。自然が語る言葉に耳を傾ける、ガウディを想像する。地下鉄に乗り、グラシア通りへ。タパス・バーのランチでスパニッシュオムレツを食べたあと、カサ・バトリョ、カサ・ミラを見学した。カサ・バトリョは豊かな海中を、カサ・ミラは砂の王国を思わせた。最後にサン・パウ病院へ。建物を目的に見に来て、そこで展示される病院時代に使われた道具や資料を観ている自分を不思議に思う。偶然の出会いにより、少し形を変える。

二日目。最初にカタルーニャ広場へ行った。無数の鳩がいた。鳩は痩せており、よく飛んだ。苦手なの、鳩。と彼女は言い退いた。旧市街の路地のカフェで、チュロスとホットチョコレートを食べた。街路には建物を隠し、空を遮るように木々が立ち並ぶ。近く選挙があるようで、候補者のポスターが目立つ。独立、の文字が目につく。その日はカタルーニャ音楽堂とピカソ美術館へ行った。カタルーニャ音楽堂ではプロに写真を撮ってもらった。日本から来たことを告げると彼は、黒澤明が好きなんだ、と嬉しそうに言った。僕らは曖昧に頷いた。ピカソ美術館には鳩の絵がいくつもあって、彼女は興味深そうに眺めていた。

三日目。午前中はグエル公園を散策する。キュキャキャー、とインコが鳴いている。頭上は曇り空、破砕タイルで装飾された蛇行ベンチに座り、丘の上からバルセロナの街を眺める。スーベニアショップで小さなトカゲの置物を買う。僕はそれにグエルと名付ける。午後は二階建ての観光バスに乗り、時間をかけて街を一周する。行きたいところ、ないの? 君の行きたいところへ行きたい。意志や欲望はないの? あるよ。じゃあ、どうして? 意見を言う人ばかりで、誰も人の話を聞かない。そうはなりたくなかった。あなたの話も、誰も聞いてくれないと思う? わからない。他人の言葉を聞くことと、全部投げ出すことは違うよ。そうかもしれない。他人に関心を向けているようで、実は一番無関心じゃない? 太陽が眩しい、と僕は思う。夕食、ガウディ通りにあるブラッスリーに入る。生ハムやタコ、パエリアを堪能する。バルセロナのビール、エストレージャ・ダムを仰ぐと、爽快な風味に自然と頬が緩む。夜、昨日撮ってもらった写真がメールで送られてきた。綺麗に写っている、と僕は言う。彼女も写真を見つめる。彼女の瞼にキスをする。

帰国。ドーハでトランジット、成田へ向かう。断続的に襲う睡魔に身を委ねる。ドーハ・ハマド国際空港には免税店が数多く存在した。僕は彼女にバッグをプレゼントした。以前に欲しいと言っていたブランドのものだ。今回のお礼に、と僕は言った。疲労を顔に貼り付けながらも、彼女は小さく微笑んだ。成田空港で僕らは解散した。楽しかった。ありがとう、と僕は言った。私も楽しかった、またね、と彼女は言った。

 

二週間後、僕らは別れた。恋人としては悪くなかったけど、結婚相手として考えられなくなった、と彼女は言った。女性版の僕みたいな人間がいたら、案外うまくやれるのだろうか。その時、僕は決断の役割を担い、責任を負う代わりに、自由と権力を得るのだろうか。君はどう思う、グエル? 僕はトカゲの置物に訊ねる。グエルは口を少し開いたまま、何も言わない。

2023年11月2日公開

© 2023 一希 零

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