傘泥棒

浅間のん子

小説

1,045文字

私小説で…は…(うーん、どっちって言った方がいいんだろう)…ない

私はいつも通り自転車置き場に自転車を置いて研究棟に入る。廊下を通って実験室がある三階まで階段を上る。大抵人とはすれ違わない。すれ違ってもそれが知り合いであることは多くはない。大学なんてそんなものだ。実験室に入ると部屋の反対側に誰かいる。薬品棚に隠れて見えない。特別それが誰であるか確かめようとは思わない。窓の外の暗くなり始めた空とは無関係に部屋の蛍光灯はいつでも煌々と光っている。私はいつものように黒い実験机の上に顕微鏡を置いて、試料をパスツールピペットで移して観察する。ああ、あの液を調合するのを忘れていた。

さっき作った液をマイクロピペットで取って試料に加える。チップにガンガンやってしまったからなかなかチップはピペットから外れない。装置に試料をセットしてスタートボタンを押す。窓の外を見ると空は来た時より大分暗くなっていた。

回転椅子を軋ませながら記録ノートを書き終えた。もう始めてから二時間くらい経っただろうか。ノートを閉じるとザアザアという音に気付いた。窓の向こうの図書館の明かりがぼやけている。雨だ。どうしよう。今朝は天気予報も見ずに折りたたみ傘も持たずにアパートを出てしまった。しかし今日の仕事はもう終えたから帰りたい。

とりあえず荷物をまとめて実験室を出る。実験室の向こうにいた奴らはどこかへ行ってしまった。でもこの建物のどこかには必ずいる。廊下を歩いて階段を降りながら私は悪いことを思いついた。みんな私みたいに馬鹿じゃないから、ちゃんと傘を持ってきた人がいるに違いない。むしろ忘れたのは私だけかもしれない。暗い廊下を抜けて玄関のところに来た。私は傘立てに目を遣る。傘は十五本くらいあるように見える。柄物が一本と、あとは大体白か黒だ。私は少し躊躇った。良心が私を引き止めるというより、自分がされた時はあんなに不愉快になって怒る癖に他人事になるとこんなにもあっさりやってしまうのかと私の中の誰かが嫌味を言っているのを聞いてそんなことはないと言いたい自分がいるという方がきっと正しい。白が黒より若干多いように見える。せめてもと思い私は一番ボロっちい白の傘を抜く。これはダメだ、壊れている。骨が折れていて使い物にならない。私は二番目にボロい白傘を抜いた。そしてその白い傘の下で雨音を聞きながら研究棟を去る。自転車は明日取りに来るとしよう。私は感謝の気持ちでいっぱいだった。この傘の持ち主の誰かさん、ありがとう。そして今夜誰も困りませんように。パシャンと音がした。私は水溜りを踏んでいた。

2023年6月2日公開

© 2023 浅間のん子

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"傘泥棒"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2023-07-06 09:27

    フォローありがとうございます!
    傘泥棒。さいきん、薔薇泥棒という私小説を読んだのを思い出しました。
    気に入っている作品あったら教えてください。

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