待ち合わせ

浅間のん子

小説

1,564文字

霧のせいで全てがぼんやりと私の目に映った

トランクに傘を二本。私は車のエンジンをかける。北門に十時半には着けるだろう。ハンドルは少し冷たい。

彼女は待っていた。いつも以上にめかしこんでいるように見える。今日は何故だかいつもの小走りはせずに、彼女はゆっくりと助手席のドアの前まで歩いてくる。
「お待たせ。それとも少し早かったかな。」
「うんう、丁度いい。」

何か入っている白い手提げ袋を胸の前に抱えて彼女は助手席にぽすんと座る。

川を渡り温泉街を抜けると道の傾斜は突然急になる。車の馬力が心配になる。細い道を抜けると道は両脇を高い樹ばかりに囲まれて暗くなる。いよいよ山道だ。蛇行を繰り返す度に彼女は左右に押し付けられる。対向車が来る気配はない。
「あ、雨。今日傘持って来てない。」

フロントガラスが濡れている。小雨が降ってきた。それでもワイパーは要らない。低い山だから頂上までそう時間はかからない。頂上に近づくに連れて霧が立ち込めて来た。最後の蛇行を過ぎると道は少し先の湖まで続いている。
「ちょっと待ってて。」

湖畔の駐車場に車を停めて、私は彼女を待たせて車を降りる。トランクから傘を一本取り出す。助手席からカフェまで彼女と愛々傘。

カフェは駐車場から湖と反対側にある。引きだと思ったがどうやら入り口のドアは押しのようだ。ドアについた鈴が店主を呼ぶ。珈琲の香りが部屋いっぱいに広がっている。向こうに雑貨が売っているから後で見たいと彼女は云う。

窓辺のテーブルの席に着く。決まったら呼んで下さいと言って店主は奥へ戻る。辺りは一層霧に包まれて来た。こんなにも近いというのに、道の反対側は湖だというのに、霧がそれを隠している。折角窓辺に座ったのに。しかしそれはそれで幻想的な気がした。彼女が文句を言う気配もないし、それにどうせこれから湖へは行くのだからいいのだ。

ブレンドとアメリカンを彼に頼む。それからパウンドケーキ二つ。また店主は奥へ戻っていく。ふと見上げてみる。天井に貼られた紙にはルノワールの絵が印刷されていて、そよ風でペラペラと揺れている。ルノワール。ノワール。確かにこの店の珈琲はそうだが、ルノワールの描く絵は寧ろブロンシュだ。ルノワールはこの霧の風景を描きたいだろうか。彼女はどこを見ているのだろう。彼女は俯いて本を読んでいる。彼女が本の虫だったことを思い出した。大川洋子の文庫。あの手提げの中身はこれだったか。この前江國薫が好きだと言っていたが。彼女がページをめくる度に本からはみ出た栞の紐の先が両手首の間で揺れる。お喋りしてくれてもいいのにと思ったけれど、そもそも自分が喋ることが下手なのだから彼女にそんなことを求めてどうするんだと思い直す。壁には何故か大きなオードリー・ヘップバーンの写真。あの店主が好きなのだろうか、それとも奥さんが。何故私は彼女とその女優とを交互に見るのだろうか。彼女は私の視線に気付いたのか、読みかけの本を閉じる。

雑貨コーナーで買った木製の小物を早速手提げに結わえてカフェを出る。何の動物を象っているのだろうか。彼女は嬉しそうだ。さっき買った珈琲豆の分手提げは量が増している。手提げを後部座席に置いてから湖へ向かう。

岸辺で立ち止まる。対岸を凝視してみてもやはり見えない。きっと今湖の真ん中あたりまで見えているということなのだろう。動いていないと彼女の甘い香りは傘の下から行き場を失って私の方へ流れてくる。あっちに行ってみようと彼女は云う。

中央の島と岸とは陸続きになっている。島へ続く道を歩く。道沿いの樹は島の神社に近づくに連れて鬱蒼としてくる。鳥居を潜って境内へ。短い参道の端の石板と石板の隙間には苔が生えている。拝殿の前に来て私が財布を出すのにもたついていると彼女が十円二枚を賽銭箱に放った。
「…苔の生すまで。」
「え、何か言ったかしら。」
「なんでもない。」

2023年5月19日公開

© 2023 浅間のん子

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