「なあ先生。あんた、俺を騙したな」
滴下速度を調整しようと伸ばした腕をぐいと掴まれた。
いつの間に目を覚ましていたのか、それともずっと起きていたのか。見上げてくる目は凪いでいた。波風のないその奥に、じっと静かな怒りが見えた。
「あんたはずっと前から知ってたんだろ、明石の立場が危ういことを。知っていて、見て見ぬふりをした」
掠れた小さな声。それでも真っ直ぐに飛んできて、深々と刺さった。
「知ったのは最近だ。最初からそうだと知ってたら俺は反対してた。……嘘じゃない」
「いつ知ったとか共謀してたかとか、どうでもいい。明石がこのままでは消されると知って、それが間違っていると思って、どうにかして助けようとした。だが間に合わなかった、そうだろ?」
この目からは逃れられない。たとえ力で捩じ伏せたとしても、何度でも立ち上がって同じ問いを投げかけてくるだろう。
「それを言いたくて来たのか」
「ああ。察しがよくて助かるよ」
知ってること全部言え。俺がどうにかしてやる。蒼月は不敵に笑った。
「組長はついに明石を切り捨てた」
お前には不要な忠告だろうが、くれぐれも他言無用で頼む。そう付け加えると、蒼月は黙って頷いた。
「俺は組長を基本的には信頼しているし、手腕を認めてもいる。金銭を得ている恩だってある。けど、そのやり方の全てに賛同するわけじゃない」
明石が消息不明になったと知ったとき、全てを察した。明石は神津組から切られ、消されようとしている。この状況に対して、組長が何も言ってこないのが確たる証拠だ。
蒼月がそれを放っておくはずがない。ただ本音を言うならば手を出してほしくはなかった。いくら蒼月が優秀でも、彼ひとりには荷が重すぎる。巨大な組織相手にたったひとりで歯向かえばどうなるかは目に見えていた。できることなら力を貸してやりたいが、自分はあまりに組織に近すぎた。
「神津はおかしくなりはじめている。神津だけじゃない……どこもかしこもだ。この国は諸外国の言いなりになって、じきにまた戦争の道具にされる。神津組はその資金源になるだろう。それが本望とさえ思ってる。戦争のための経済、戦争のための団結だ」
結局、人間は何度だって愚かな過去を繰り返すのだ。
「意味もなく殺して殺されて、勝ち負けをはっきりさせて。それで何がしたいんだろうな」
わからない、と蒼月は呟いた。
蒼月は先の大戦を知らない世代だ。時として非戦を望む感情よりも敗けた悔しさが上回ることを、理解はしても感覚として飲み込むことはないだろう。
「今トップにいる人間は、みんな次こそ勝ちたいと思ってる。この国を散々吹っ飛ばして滅茶苦茶にしやがった、クソ国どもを見返してやろうってな」
その障害になるものは、裏から手を回してなかったことにする。気に食わない思想が生まれて根付かないように、教育から歪めていく。国がやろうとしているのはそういうことだ。神津組も資金面でそれに手を貸している。
明石はきっとそこに罅を入れるようなことをしたのだろう。あるいは、これから行動に移そうとしているか。それを見抜かれ、不要と判断されてしまったのだ。
「蒼月。……頼む、明石を助けてやってくれ。あいつはきっと正しいことをしようとしてる」
「言われなくてもそうするさ。で、俺に何をしてほしい? 雁字搦めで自由に動けないあんたの代わりに暴れてやるよ」
こんな身体でも保たせてくれるんだろ? 蒼月は挑発的な目をした。
「医者の立場でそんな暴挙を許せると思うか?」
「医者じゃなくて、一人の人間として許せないと思ったから、俺にこんな話をしたんだろ。認めて諦めろ。あんたが医者を降りれば、俺も患者じゃなくなる。何か問題でも?」
こいつはまだまだ死なないんじゃないか。そう思わされてしまう自分がいた。見る度に自由落下していく散々な検査結果も、薬の用量が中毒域に片足を突っ込んでもなお歯止めのきかない発作の頻度も、全て無視してしぶとく生き続けるんじゃないか。こいつの背後には何か目に見えない守護天使のようなものが存在していて、その心臓が決して止まらないように手を差し伸べているんじゃないのか。
そんなわけはないとわかっている。医者としてよくわかっている。こいつの心臓はいつ止まってもおかしくない。どんなに手を尽くしても、残り時間をこれ以上引き延ばすことはできそうにない。医療には限界がある。
それでも、非科学極まりない奇跡とやらを信じてみたくなってしまったのだ。
「先も言ったが、明石は神津から切られて消されかけてる。恐らく直属のデリーターに命じて消させるつもりだろう。加えて確実に居場所を奪うために、七澤の側にも何らかのリークをするはずだ。神津と七澤で挟み撃ち、裏切り者を潰すという共通した名目で共闘する形になるだろうな」
一度そうと決めたら、残酷なまでに徹底的にやるのが神津のやり方だ。
「明石は恐らくそれを悟って、手遅れになる前に自ら姿を消したんだろう」
今思えば最後に会ったときにはもう様子がおかしかった、と蒼月は言った。
「明石に会ったのか?」
「つい二週間ほど前にな。……ったくあの野郎、あれで気づけってか? ふざけるなよ」
思い出して憤りが再燃したのか、蒼月は低い声で呟いた。昏い目にぞっとするような光が宿る。普段は努めて冷静な顔を作っているだけで、こいつは内側に全てを焼き尽くすような炎を隠し持っている。
こういう目をすると五百蔵によく似ているなと思う。面と向かって言ったら大層不機嫌になるだろうから黙っておくが、まるで血を分けた実の親子であるかのように錯覚するときがあった。
「一つならまだしも、二つの組織から追われたら終わりだ。こうなったらもうこの国から逃れる他はない」
「国外逃亡の幇助か……手札が少ないな」
そもそも逃したい本人の居場所がわからないんじゃ話にならない。お手上げだとばかりに蒼月は目を閉じた。
「前に話していた、海外のネタに強い情報提供者は? たしかどこぞの新聞記者だとか言ってなかったか」
「ああ、あれはもうだめだ。関係を切った」
今頃幸せになってるよ。蒼月は口元だけで微かに笑った。
「大体、明石はこれまではうまくやってたんだろ? 理由もなくいきなり切るのはさすがに無理がある。少なくとも組織内の人間をある程度納得させられる理由がないと、後々不信を買うことになりかねない」
「……七澤組の幹部候補、花嶋已織を独断で殺害したのを理由に、今後組織を裏切る可能性のある危険因子として切った。そう聞かされてる。組織内で疑問視する声があるのも確かだ。ギリギリの言い訳だな」
「それ、本当か」
聞くなり蒼月はがばりと顔をあげた。血色の悪い頬に驚愕が浮かんでいる。
「……つまり結果論とはいえ、俺が原因ってわけだ」
迂闊だった、と悔いるように呟く。
「どういうことだ?」
「花嶋が死んだ場に俺もいたんだよ。俺を殺そうとした花嶋を、明石が撃ち殺した。明石が撃たなければ、花嶋じゃなくて俺が死んでた」
最悪だ、と蒼月は呻いた。固く握り締めた拳が怒りに震えていた。
「お前はなんで花嶋と会ってたんだ?」
「明石とは全く関係のない別の依頼でだ。……と、そのときは思ったんだが、今思えば色々とおかしい。あの日、明石は俺と花嶋が会うことを事前に知っていたとも言っていた。そもそもの依頼の時点から何か仕組まれていたのかもしれない」
「その依頼の本当の目的は明石を消すことだったってことか?」
「可能性はある。が、さすがに回りくどすぎると思う。明石が花嶋を殺すことになったのは偶然の結果で、それを上手く利用されたと考える方が自然だ。まだ俺を消すのが目的だったという方が理に適ってる」
何がどうしてそうなったのか今の会話だけでは察しきれないが、複数の意思が絡み合っているのは確かだろう。
「そもそも、どうして明石がそうまでして早急に消すべき存在とされたのかがわからない。あいつは一体何をしようとしてたんだ? さっき言ってたよな、明石は正しいことをしようとしてる、って」
先生、あんたは知ってるんだろう。夜を湛えた瞳が真っ直ぐに問いかけてくる。
「言えよ。あんたに共有した時点でいつかは俺の耳にも入ることくらい、あいつは理解してたはずだ」
「……だめだ。俺は知らないって立場を貫かなきゃならない」
「神津のじいさんが怖いか?」
「そうじゃない、ただ……」
思わず言い淀む。今伝えるべきことなのかどうか、それを迷っていた。
煮えきらない態度に、蒼月は苛々と髪を掻き回した。
「なあ先生、あんたの望みはなんだ」
こんな街で特に理由もなく、ロクに稼げもしないのに危険なだけの医者稼業を続けてるわけじゃないだろ。蒼月は急に話題を変えてきた。
「俺の望み?」
「例えばそう、死にかけてはいるが便利に使える情報屋をもう少しだけでも働かせたいとか。手の施しようのないくらいに穴の空いたズタ袋を、そうと知りながらも二本の手だけで繕おうとしてるのは、医者として全能感に浸りたいからとか」
「莫迦言うな。治療はお前のために決まってるだろう」
「俺のため、ね」
蒼月は嘲笑混じりの声で繰り返した。
「そうだよな、ヤブでも医者は医者だ。自分の望みのために人を生かしてるだなんて言えないよな。詮索したりして悪かったよ」
こちらの本音を引き出すためのつまらない挑発だというのはわかっていた。それでも言っていいことと悪いことというのはある。
「俺が、自己満足でお前を生かしてるって、患者を診てるって、本気でそう思ってんのか」
気がついたら手が伸びていた。
胸座を掴まれても蒼月は笑っていた。暴力を暴力とも思わない目。それはあまりに哀しかった。無抵抗な静けさを目の当たりにした瞬間、自分が正しいと思ってきたあらゆる物事に対して心底自信がなくなった。
「っ、けほ…ッ」
ふいに蒼月は顔を背けて弱く咳き込んだ。急に身を起こしたせいで血の気が引いている。それを見た途端にすっと怒りが凪いで、掴んだ手を離した。
「悪い、つい感情的になった」
いつの間にか輸液は空になり、ルート内に少量逆血していた。病人相手に暴力を働いたことを後悔した。
全てを見透かしたような目で笑いながら、蒼月はその場にぐったりと崩れ落ちた。
背を起こしていることさえ苦しいのか、重力に引きずられるように横になる。浅い呼吸でぜぃぜぃと喘ぐのを見かねて背を擦ろうとしたが、視線だけで拒絶された。
「俺はお前に生きてほしい。明石にも生きてほしい。それが望みだ。お前らみたいな若い奴らにしかこの国は変えられない」
「負債を背負わせるために、健やかに長生きさせたいってか」
「そうかもな」
俺はあんたの望み通りにはなれないみたいだ。蒼月は穏やかな目をして言った。
「みんな自分のことばっかりだ。あんたも、俺も。でも明石は違う。あいつはもっと大きなもののために、例えば夢まぼろしみたいな世界平和のためなんかでも、咄嗟に全力で動ける奴だ。自己犠牲でも優越感のためでもなく、ただそれが正しいと信じる気持ちだけで動ける。そんな奴が割を食ってばかりの世の中は、間違ってるよな」
俺はそれを馬鹿げてると笑い飛ばせはしない、絶対に。蒼月は掠れた声で呟いた。
「神津組と警察の長年の癒着を暴いて正すこと。それが明石の目的だ」
伝えてしまったらもう戻れない。それでも蒼月を信じてみようと決めた。
「……なんだ、それは」
蒼月は毒気を抜かれたような声で呟いた。
「詳しいことは俺も知らない。俺は神津寄り、それも組長に近い人間だ。明石もそれを警戒して、全てを打ち明けることはしてくれなかった」
告発はしないが、協力もしない。そんな無関心な態度をだらだらと続けた結果がこの様だった。結局我が身かわいさで見殺しにしたようなものだ。
警察は恐らく、日陰者と繋がっている事実を死に物狂いで秘匿したがっていることだろう。プライドの高い彼等のことだ、金と利権を与える代わりに薄暗い出自の人間共に都合の悪いあれこれを揉み消してもらっていただなんて、絶対に認めたがらないし認めるわけにはいかない。一度手に入れた甘い蜜を手放すようなことはしない。
対して神津はたとえ事実が明るみに出たところで、警察と比べればそこまで痛手にはならないだろう。法に触れることを平気でやる組織だという認識は内外ともに認めることであるし、発覚を恐れる警戒心もやや薄かった。
しかし日の目を浴びたが最後、内部分裂は避けがたい。役に立たない国の代わりに治安を守る自警団として発足した組織という成り立ちからして、組内には国の権力を毛嫌いする者が多い。どうして自分達が無能な警察ごときのご機嫌伺いをしなければならないのかという反発は避けられないだろう。足下から揺らぐような事実は秘匿するに越したことはない。よって、神津にとっても癒着の事実隠蔽は大いに必要性があった。
自分は神津側の人間だ。癒着関係そのものに直接関わっているわけではないが、回り回って利益を得ている側の人間だ。この診療所を運営するための金や設備も、恐らく出自を辿ればそういうところに流れ着く。
明石はそうとわかっていたから、俺に告発の協力者になってくれとはついに言い出さなかった。
「あいつ、本物の馬鹿だったんだな」
どうしようもない奴だよ、まったく。蒼月は呆れたように呟いた。
「勝手に覚悟決めて勝手に動いて勝手に窮地に陥るような大馬鹿者は、次会ったらとりあえずぶん殴ってやる」
「やり返されるのが精々だろ。あいつに喧嘩で勝てる奴はそうそういねえよ」
知ってる、と蒼月は悔しげに返した。
「やれるだけやってみるよ。あんたのためでもあいつのためでも、まして俺のためでもない。あいつの覚悟に報いるためだ」
蒼月はそう言うと目を閉じた。
――それじゃあこいつも結局明石と同じ、報われない善良な人間じゃないか。
「策はあるのか?」
「まあ、な。ないわけじゃない」
思案するような態度から察するに、少なくとも無謀な宣言ではないらしい。
「無茶だけはするな」
「生きてるだけで十分無茶なんだから、もう何をやっても同じだろ」
いいから黙って見てろよ、傍観者。蒼月は静かに笑った。
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