久々に出前でもとろうか。そう思い立ち今朝の新聞を開くと、割引券のついた広告が挟まっていた。何かひとつ注文すると餃子がサービスでついてくるらしい。これはもう決まりだ、今日の昼は中華にしよう。椎原はひとり満足げに頷いた。
意気揚々と受話器をとり、最初の番号を押そうとしたちょうどそのとき、階上の外のドアが開かれる音がして、反射的に手に持った受話器を元に戻した。決まってこういうタイミングで患者は発生するのだ。怪我も病気も昼休憩など御構いなしにやってくる。
せめて電話をかける前でよかった。中華を逃した落胆は部屋の隅に追いやって、来訪者を待った。数人の乱闘騒ぎなら喧しい声が聞こえるはずだから、今回はそうではなさそうだ。
階段の上と下にドアを設けているのは衛生面を考えての結果でもあったが、こうして時間稼ぎができるからというのが大きい。この医院を直接の標的にされることはまずないが、撃たれた被害者と一撃で仕留め損ねた加害者があわや鉢合わせ……なんてことが稀にあるので、それなりの危機回避対策は必要だった。
外のドアが開く音がしてから三十秒ほど経ったが、来訪者が現れる気配はない。いたずらで開けられただけなら苛立ちが募るだけで済むからいいが、どうにも不気味だった。
そろりと内扉に近づく。外からの物音は聞こえない。足音も、声もない。
常に白衣の内側に忍ばせている、護身用の拳銃にそっと触れる。これを使ったことはない。今後使う気もないし、万が一にも人に向けたときには医者を辞めようと決めているが、持つのをやめようとも思わなかった。指先ひとつで人を殺せる道具を傍に置きながら、それでも命を救う選択をするのだという覚悟を己に示すためでもあった。
「誰かいるのか」
返事はない。これで誰もいなかったら、憂さ晴らしに中華丼と小ラーメン、それに餃子ふたつセットで出前をとってやろう――そう決めてこちらからドアを開けた。
「……おや、出迎えてくれるとは」
「なんだ、お前か……どうした? 大丈夫か」
「ん……大したことはない。軽く立ち眩みがしただけだ」
階段の一番下の段に座り込んでいたのは蒼月だった。立ち眩みがしたという言葉通り、やけに血の気の失せた顔色で、額を手で覆って俯いている。
「あんた、今本気で怯えてただろ」ドア開ける前の声が震えてた、と蒼月は笑った。
「面倒なのが来たかと思ったんだよ。立てそうか?」
「少し……待ってくれ。ここ下りるので限界だった」
まったく、どうしようもねえな。そう弱く呟いて、蒼月は顔にかかった髪をくしゃりと掻き回した。
「酸素吸入するか?」
「い……や、そこまで、じゃない……」
顔色も悪いが、手指の先がやけに白いのが気になった。軽くチアノーゼを起こしている。これまでは胸痛と動悸、食欲不振が主訴だったはずなのだが、何か嫌な予感がした。
「おい、無理に動くな、」
「平気……だ、落ち着いてきた」
ふらふらと立ち上がったのを支えてやると、あっさり体重を預けてきた。拒絶する余裕もないらしく、肩を貸そうと腕をとっても抵抗すらしない。
しばらく見ないうちにまた痩せたのか、かかる負担はそう大きくなかった。こちらは還暦もとうに過ぎた老いぼれ、かたや相手はまだ三十にもならない若造だというのに、これでは立場が逆だ。
なんとか処置台まで引っ張っていって座らせると、蒼月はそのままぐったりと横になってしまった。
「ここは万年薄暗いな……恐怖映画に出てくる陰気な人体実験室みたいだ」
ぼんやりと天井を見上げながら蒼月は言う。
「お望みなら被検体にしてやろうか?」
「ああ、間違えた。あんたの得意技は実験じゃなくて、拷問だったか」
人聞きが悪いことを言うなと嗜めると、蒼月は声も出さずに笑った。
「最後に採血したのはいつだ?」
「俺に訊くなよ。医者なんだから、それぐらい記録しておいたらどうなんだ」
「お前の記憶力の方がよっぽど信頼できるから、わざわざ書き残しておく気にもならんな。そもそも証拠になるものは極力残すなと言ったのは他でもないお前だろう」
情報屋としての仕事に差し障るから、病状については一切口外するなと脅し半分に言われていた。薬の処方記録だけは管理のためにつけているが、他は彼がいい顔をしないので処分している。
「あのな……なんでもかんでもそう都合よく覚えられるわけじゃないんだ。視覚情報を頼りにしてるから、音や瞬間の行動の記憶は得意じゃない。何か日付の入ったものを目にした記憶があれば辿れるかもしれないが……ああ、たしかそこのカレンダーを見たな。あー……五月なら、四カ月前か」
「ほらな、俺が覚えておく必要はなかっただろ。四カ月前ならそろそろ再検査しておきたいんだが」
どうせなんだかんだ理由をつけて躱されるのだろうなと思いながら尋ねる。が、蒼月は予想に反して素直に頷いた。
「抜くなら右腕にしてくれ」
「わかってるよ。採れなかったら左にするからな」
「それは先生、あんたの腕の見せどころだろ」
「都合のいいときだけ先生とか呼ぶんじゃねえよ」
シャツの袖口の釦を外して、腕を露出させる。温めても擦ってもロクに血管の浮かばない難儀な腕だが、幸い今日はお望み通り右から採ってやれそうだった。
それにしても細い腕だ。明らかに病人のそれだった。食事すらまともにできない体調が続いているのだろう。
「お前、ちゃんと食ってるか?」
「それなりには」
蒼月は目を逸らした。態度は言葉よりも雄弁だ。
「少しずつでもいい、食事だけはちゃんと摂れ」
「……食うと気分悪くなるんだよな。正直、何かを口にしたいとあまり思えない」
悪循環とはこのことだ。階段を下りるだけで貧血を起こすのはそのせいかと合点がいった。
「この間渡した栄養剤は試したのか? まだ販売前の試作品だから、効果の程は知れないが」
「あんなクソ甘いだけのもの飲めるか」
どうにかしてやりたかったが、できることはほとんど残されていないようだった。
「この辺りに最近中華屋増えたと思わないか?」
黙って採血だけするのもなんとなく落ち着かない。とりあえず世間話でもと口を開いたら、取り損ねた出前の未練がうっかりこぼれてしまった。
「さあ。あまり外で食わないから、知らない」
興味すらないのか、蒼月は天井を見上げたまま投げ遣りに答える。
「増えてるよ、絶対。メニューは漢字を辿ればなんとなく読めるが、大体どこもまるきり言葉が通じねえ。でもそういう店ほど美味いんだ」
今度食ってみろよ。勧めれば、蒼月は曖昧に頷いた。この反応は絶対に行かないやつだ。
採血は恙無く終わった。もう動いてもいい、と声をかける。蒼月はゆっくりと身を起こそうとしたが、胸に引っかかるような嫌な咳が立て続けに溢れて、そのまま為す術もなく身を折った。
「ゼっ…けほ、げほッごほ……ぜぅッ、ぜ……こほ、――ぅ…、」
少し咳き込んだだけでも酸素が足りなくなるのか、はぁはぁと肩を喘がせている。見かねて背を擦ると、骨の感触が直に伝わってきた。
痩せすぎている。あちこちに負担がかかっていてエネルギーの消費量が多すぎるのか、身体が栄養を受けつけないほどに弱っているか。あるいはその両方か。
「横に、なると……ゼぉ、ぜぉッげほ……すぐ、これだ」
明らかに悪化の一途を辿っている。処方量を増やすとか、休養をとらせるとかでは追いつかない何かがその身体の中で起きている。
「その様子じゃ夜もまともに眠れていないんじゃないのか」
「完全に、っ、は……横に、ならなければ……眠れては、いる」
本人が一番自覚しているだろう。どうにもならない不調にひどく恐怖しているだろう。しかし彼はそれを決して認めようとはしないのだった。
処置台では背を預けられるところがない。手を貸してソファに移動を促すと、蒼月は素直に従った。
「痛むか」
「い、や……呼吸が、きつ、い」
蒼月はぐったりと全身を弛緩させ、胸元に片手を添えている。こればかりは安静にする他に手立てがない。目の前で苦しんでいるのをどうにもしてやれないのはもどかしかった。
「採血と聴診だけじゃあな。本当はエコーとカテーテル検査もやりたいんだが」
「意味、ないだろ……検査したところで、対症療法しかできないのは、知ってる」
それにカテーテルは吐くから嫌だ。子供のように呟く蒼月に、はいはい、と返した。
「言い方は悪いが……検査すれば、残り時間をより正確に見据えることはできる。見据えて、行動を選べる」
「ははっ、確かに、最悪な物言いだな。……もういい、大体わかってる」
間に合わないかもしれないな。諦めを滲ませて蒼月は呟いた。ほとんど弱音を吐くことのない彼の、嘘偽りのない本音だった。
「お前、全然食えてないだろう。採血ついでにもう少し治療されておけ」
輸液バッグを用意するのを、蒼月は何も言わずに見ていた。これまでは何かと文句を口にしていたが、最近は黙って受け入れることが増えた。
「命綱、ってか」
いよいよもってなんのために生きてるんだろうな。チューブを通して体内に注がれる液体をぼんやりと見つめながら、蒼月はぽつりと言った。
「お前らしくもない。もう少しだけなら保たせてやるから、安心して暴れろ。……いや暴れるのはよくないな、前言撤回だ」
「あんたのおかげでどうにかなってる。感謝して、る」
力尽きたように蒼月は目を閉じた。疲れの色濃い目元に、深く睫毛の影が落ちる。
こいつは人の気配がするところではまともに眠りもしない。注意深く様子を見ておきたい気持ちはあったが、少し休ませてやろうと側を離れた。時計は十四時を回ったところだった。
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