ティンカーベル

手嶋淳

小説

9,501文字

黙々と子育てをする、ぼくのお姉ちゃん。がんばればがんばるほどに、娘への思いは重く強くなる。そしてだんなへの思いは離れていく。なんとかならんのか?

 

ある日、泣く子どもをあやして寝かしつけているときのこと、ますみはその子どもの足のつけ根あたりが膨らんでいるのを見つけた。すっとオムツをずり下げて手を止めて、その箇所をよくよく観察してみた。そんなますみの頭の中には、母親から聞かされた話が閃いていた。――あんたは脱腸やったんやで。手術もしたんやで。母親が何かの機会に説明をしてくれた内容が、ちゃんと思い出されてゆく。脱腸とは、腹腔の中へ睾丸が出入りできる穴があって、腸の一部が誤ってそこに入り込んで袋状のスペースにはまってしまう病状だ。睾丸用のガレージに腸の一部が縦列駐車でねじ入ってしまったような状態で、その部分がぽっこりと膨らむという外見で症状が判断できる。女の子も鼠径部の脱腸はありえる。きつくはまってしまうと危険だ。場合によっては血が止まって壊死してしまう。まさにこれだ。わたしと同じように、この子も遺伝か何かで先天的に脱腸が起こりやすい下半身なのかもしれない――。泣いている最中にナツがお腹辺りに力を込めたのであろうその瞬間、腸の一部が移動して穴にはまってしまい、そんな症状を目の当たりにしたと同時に、利発なますみは原因から対処から今後の可能性までを含めた状況を、ぴたりと見透かした。

よって、ますみはゆっくり押し返すという正しい施術を難なく試みることができた。腸は元のあるべき位置におさまったようで、人差し指を離してみても再び膨らむことはなかった。お腹はするりとした線を描く、至って正常な天使のお腹に戻った。安心してオムツを装着させてナツの顔をうかがう。小さな事故などどこ吹く風で、ナツはかやの外でふがふが泣いていた。

かぼちゃやとうもろこしの料理を目の前にしたとき、勢いよく立ち上がったとき、「あさま」が全速力で目の前を通過するとき、うんこをきばるとき、その他いきむケース全般において、腸は脱線するようになった。オムツ交換のときにナツの脱腸を発見するたびに、ますみは大切なボタンを押して我が意を通すように、膨らみを、そっと、確実に押した。

検索していると、「嵌頓(かんとん)」という言葉を見つけた。なんとなく怖い言葉だった。「嵌」とは「はまる」ということ。「頓」とは「とみに/ひたすらに」ということ。つまり、「嵌頓」とは、ひたすらにはまってしまう、ということ。脱腸の危険な症状を指す言葉だった。押しても作動しないボタンと化したとき、飛び出したその腸の一部分は、ひたすらにはまってしまって、そして壊死していくのだ。何も知らずに恐ろしい罠に陥って頓死してしまうひとつまみの腸のいのちを想像して、息苦しい気持ちになった。しかし、まあ、ひるがえってナツの腸はといえば、いつも押せばちゃんと引っ込む。だけども、あれから頻繁は頻繁、不安は不安。一度医者に診てもらおうか。あれこれ考えているうちに考えが決まって、ますみはインターネットを閉じた。

「よく分かったね」

日赤の先生は、膨らみの箇所をさすりながら言った。ナツもますみも、医者の顔とお腹を交互に見た。

「お母さんの言う通り、これは脱腸」

「ああ、やっぱり! そうですよね」

「腹圧がかかるタイミングでこうなっちゃうんです。今みたいに押してみて元に戻るようならば、まあ心配ないから」

「うんうん」

「元に戻らないときが危険だからね。そのときは必ず診療に来て。それにしても、よく分かったね」

「はい」

上手に褒める医者の言葉にますみは気分をよくして、帰りにサブウェイに寄った。

さて、一度診察にかかったからと言って脱腸がすぐにおさまるはずもない。腸がよじれたホースのようになってはみ出て、またもっこりと突起を作って飛び出す。成長過程で回数が減るかと思いきや、ときにその度合いが激しく、ボタンを押すというよりも、むにゅむにゅと穴のなかにうまく押し込む必要があったりする。ますみはただひたすらに、弱すぎくもなく、強すぎくもない絶妙な力加減で、一つ一つのケースを対処していく。難しくはないが、ちょっとしたテクニックと勇気が必要で、それぞれの出具合に応じて果敢に試行していくうちに、めきめき対応が上達していった。

一方で、残念なことに上達が見られないのがますみのだんな、泰知だった。ますみに命じられていたので自分でもなんとかしようとするのだが、目の前にはやわな幼児の腹、自分でどうすることもできない無力な子どもに欠陥のしるしが浮き上がっていて、そして突き付けられている。どうにかしようと幾度かやってみてもどうにもならず困り果てて、もう投げ出そうか、いや、何か方法はないかな、などと、くどくど考えた。そんなとき、泰知は変な声を耳の裏で聞いたような感覚に陥る。

声はこのようなことを言っている感じだ。

「ヤス、最後までやり通せ! 男だろ!」

そんな声を聞いたような気がしたがために、あと一押し、やって下手こいて、ナツが大泣きし、ますみが真っ青になって、救急車が呼ばれて、先生に怒られて……と、悲劇の元凶になってしまうビジョンを、泰知はまざまざと観た。そしてやり通すことなく挫折するのだった。

「ますー」

返事はない。

「また出てるよー」

台所での作業を中断して居間へ駆けると、腹丸出しのナツを目の前に、早々に諦めてしゃがんでいるだけの夫がいる。夫は、ますみがやってくるのをぽかんと口を開けて待っている。

「出てるよー、じゃねえよ、自分でなんとかしてみろよ」

ますみはそのうなじあたりで響く声に気付きもせずに、泰知の隣にしゃがみこんで、腹を診断する。二、三度、角度を変えながら試してみて、最後に優しくむにゅっと押し込み、指の腹をツイストさせた。迷いのない手さばきを見せてお腹をしまうと、また台所に戻っていった。

この日から、腸の診断はますみ一身専属の仕事となった。

「しあげはみがき、任せるわ」

泰知が同じようにますみにそう白旗を掲げて、ビール缶を持って二階の寝室にとことこと上がっていったのが一か月前だ。何度かやってみたものの、ますみの言う『しあげはみがき』というものが一体どんなものなのか、泰知は理解できなかった。

泰知は早々に放り投げる男だった。理解できないから放り投げるというよりは、どうせ理解できないだろうと挫けて、放り投げる。自室にこもってやらなければいけない仕事が山ほど待っているような、そんな忙しい男ではない。ただ、世代を超えて継承された慣性が、泰知を二階に上がらしめるのだ。父親の再生産が泰知であり、嫁入りの再生産がますみだった。

階段をあがっていく夫の乾いた足音しか耳に入らず、うなじあたりで響く声にますみは気付かない。

「できない、じゃねえよ。やるんだよ。ただやるんだよ。それが親ってもんだろ。赤ん坊の歯なんて、本数少ないんだからさ!」

扉を閉めつつある泰知の耳に、どこからか、「歯の本数なんて関係ないよな」というふうな声が届いたような気がしたので、頭を掻いて何のことやらといぶかった。しかしすぐに、気のせいかなと思い直してひょいっとベッドに身体を投げ出す。それから泰知は手を伸ばして目覚まし時計を手に取り、五時半にセットした。早朝から消防団で栗拾いにいかなければならない。天井を眺めていると自然に頭によぎるのは、憂鬱な早起きについてだった。面倒だな。出かける準備をしておかないと朝にバタつくな。でもやる気が起きないな……。

面倒ごとはすべて忘れてとりあえず気持ちよく寝ようと決めて、心安らかに身体をベッドにあずけたとき、また声の主は語りかけた。

「ヤスよ、相手がますみじゃなけりゃ、お前だってもうちょっとはねばったよな。経験値が違うんだよな。やり遂げる経験値がさ。おまえは0から工夫して何かをやり遂げた経験は、0だよな。一方のますみは、いつもああやって工夫しながら、人にいろいろ話を聞いて失敗しながら果敢に三十年生きてきた。相手がますみじゃあ、引っ込むしか手がないわな。しょうがないわな」

 

夕飯時。

ナツのお尻がかぶれていることを相談すると、泰知は「ちゃんとみてやれよ」と言う。そして、ついでのように「腸の検診、行かなくていいのか?」と尋ねるのである。

「大丈夫よ」

「でも壊死してからじゃ、遅いぞ」

「うん、分かってるよ」

自分の箸をとめて猫に一口やりながら、泰知は続ける。

「一日放置しただけで大手術になっちゃうんだからな」

ますみは皿に手を伸ばしつつ、「そんなに言うなら、じゃあ病院にまた行ってみようかな」と言う。

「そうだな、行くべきだな」

ますみが何も言わないでいると、泰知は、尻の話でも腸の話でもなく、墓の話をし始めた。誰がどこの墓に入るべきか、という議題についてである。

それから、病院に行こう行こうと思いつつも、相変わらずせっせと自分の手で施術を続けていたのだが、ある晩、ますみはゲームマスターのようになって人だかりの群衆に囲まれて見事に腸をおさめて一位になった夢を見た。どうってこともない夢だとは思った。ただ、タイミングを探していたますみとしては、変な気分に任せて決断した。また病院で診てもらおう。

日赤に予約をとって行ってみると、前回とは違った先生が現れてやはり似たような解説をしてくれた。

「大抵は、0歳のときから症状が出始めるのがほとんどだね。ちょっとして収まったかと思うと、タッチした頃にまた出始める。踏ん張るから、ふさがりかけた穴が開いちゃうんだね。つかまり立ちするときによく出ちゃうんだ」

さらに説明を続けた。

「でね、一歳過ぎちゃってるし、自然におさまる感じもないしね。手術しようか。穴をふさいじゃう手術」

こんなにあっさり決まるものかと思うような展開だった。

「じゃあ、お願いします。陥頓の心配もなくなるし」

手術は一か月後に決まった。何やらほっとするとともに、手術に耐えうるためにナツには元気でいてもらわなければいけない、頑張らねばならない、と心が引き締まった。ベビーシートに乗せると、ナツは健康な笑顔を見せてくれた。

ますみは、その足でデパートに向かった。友人との待ち合わせまでに少し時間があったので、最上階で一休みしようと考えた。

そこはカラフルなブロックモジュールで仕切られているキッズコーナー。

「よし、ナツも中に入るか」

ベビーカーのベルトを外しながら中に目を遣ると、ティンカーベルと猿が仁王立ちで対峙していた。何か小競り合いでもあったのか。外野の母親たちは慌てる様子もなかったが、子どもたちは遊んでいる手を止めて争いの行方を目で追っていた。しかし、きっかけもなくティンカーベルが走り出す。ぐるぐる周回してちょっとした諍いなど忘れて楽しんでいる様子だ。その隅、豚がブロックを触って何かをしている横に、ナツをちょこんと入れてみた。扮装したそれぞれがほとんど自分の世界のなかでそれぞれにもぞもぞ動いている、これがハロウィーン・シーズンのキッズコーナーのありさまである。

ナツは静かに隅っこで遊び始めるかと思いきや、早々にうんこをしてむずがった。様子を察して連れ出すと、オムツ交換台の上でナツは泣く。

「痛そうね……」

かぶれた尻は桃色に染まっていて痛そうなのだが、両足は右に左に、上に下に、ゆっくりと弱い力でじたばたした。絶え間なく控えめなうめき声をあげながら、目からは大粒の涙をこぼしている。帽子がぽろりととれていて、ふわふわに逆立つ髪の毛が見えた。

「かわいそうなことをした。心が痛くなる」

そう言いつつポーチから軟膏剤を取り出して、尻にべっとり塗った。たたんだオムツを壁際に備えつけられている処理ポットに突っ込む。あとはひたすらナツが泣きやむのを待った。

「よし、今度こそ遊ぶか」

ナツはそのシマで一番幼いようだ。それなりに遊んでいるのは、みんなナツより先輩の子たちだろう。走り回ったり、何かしらのおもちゃを使ったりしている。ティンカーベルが駆け寄ってきて、自慢げにナツの前でポーズをとる。写真に撮られ慣れているならではの、ポージングである。ナツはブロックモジュールに手をかけて立ち上がりティンカーベルを見上げたのだが、すぐにへたりこみ、少し豚の動きを眺めて、また一人、もぞもそしている。何をやって楽しんでいるのかは全く分からないけれど、すっかり涙は渇いた模様だ。笑顔をこちらに向けてくれると、ますみも自然に笑顔になる。

友人からの電話で、ますみはナツを連れてデパート内の喫茶店へ移動した。比較的ゆったりしていて、子連れでも支障はない。

友人は何のことはない、再会のあいさつもそこそこに、のろけ話を始めた。ナツが寝入っていたので、ますみはのんびりと話を聞いた。オムツ交換の心配もない。ゆっくり過ごすことができる。いつまでも同じ話をうっとりとした目でくどくど続けてくるので、そのたびに、「よかったねえ」とますみは同じような言葉を繰り返して微笑んだ。運ばれてきたおかわりのコーヒーにミルクを入れてかき混ぜてほっと一息をついた。

そんなとき。

髪を耳にひっかけてから何気なく横を向いたときである。

ますみは見てしまった。

小さくて、きれいな、羽根が生えていて飛んでいるやつ。ますみは、はっと息を飲んだ。これは一体、なんなんだろうか。幻でも見ているのかな、と思っていたら、耳元に言葉が届いているのに気がつく。そいつが何かを、さかんに喋っているのである。

「自分でなんとかしてみろよ」

ほんの数秒、声を聞いているうちに、ますみははっと会得するものがあった。

「親なんだから。できない、じゃなくて、やれよ」

これは、いつかしら、どこかしらでの、自分の声である。心の奥底にしまってあるかのような、でも白日のもとに表れ出てみてもなんの意外性のかけらもない、むしろいつも鳴り響いているかのような声。身に覚えがないと最初は感じるにもかかわらず、掘り起こされてみて慌てても埒は明かない、正真正銘わたしの心。ということは、この耳の精みたいなやつは、自分の本心を代弁でもしてくれているのだろうか。ますみは、瞬間的にそんなファンタジーを抱いた。

しかし、観察しているうちに、自分のそのファンタジーをくつがえさなければならない、奇妙としかいいようがない光景を目の当たりにする。耳の精の耳元に、蚊ほどの小さなやつ。つまり、耳の精の耳元に、さらに小さな耳の精がいるではないか。

耳の精の耳の精のまた、耳の精……。

ちょっとした混乱から我に返ってみて、ますみは耳を澄ました。もうどこにも耳の精の姿は見えないし、声は聞こえない。聞こえるのは雑然とした店内の音、いらっしゃいませ、というウェイターの声、離れた席からの嬌声、かちゃかちゃと鳴る茶器の音。それらに上塗りされるのが、「わたしはすごく愛されちゃってる……」という友人のうっとりした声である。

ファンタジーから抜けきらないますみには、友人の言葉は不思議なものに聞こえた。先ほどから何度も聞かされている、飽き飽きするようなフレーズのはずだった。内容も同じような話の繰り返しだ。しかし、改めて感じるのは、セリフの内に含まれている不思議な響きである。

「わたしはすごく愛されちゃってる……、か」

そう呟いたますみは、今度は友人の耳元に、ばっちり見つけていたのだった。羽根の生えた存在。その耳元にさらに小さな耳の精。見えないけれどおそらくは、またさらに小さい耳の精。ますみに、かすかに届いてきた。間違いなく、聞こえるそのセリフ。耳の精たちの言葉は、本人のセリフとは全く異なるものなのだった……。

ますみは友人の表情を見た。いつまでも同じ話を続ける友人。その表情。その言葉。

「なに? あれ? もうお腹いっぱい?」

友人はきょとんとした顔をしている。ますみは何度か繰り返してきた微笑みをもう一度作り直して、それから言った。

「お腹いっぱい……だね」

ますみの真面目な声を聞いて、友人は一呼吸置いて苦笑いを漏らす。

「いつごろから?」

「だいぶ前から」

「ああ、悪いことしたね。聞いてくれてありがとう」

喫茶店を出ることになった。

「またね。お幸せにね」

「ますーもね。バイバイ、ナツ!」

ますみは夕暮れのなか、マンションに向かって運転した。夕べの薄い光に満たされた部屋に戻ってから、ナツを寝かしつけつつ、ますみはテレビをつけた。コーヒーを啜りながらも、ますみは「やり残した宿題のようなものが人生にはある」とじわりじわりと感じ始めた――。わたしがわたしの声も知らないままに生きているのかもしれないのならば……。

 

それから一週間もしないうちに、ナツのお尻のかぶれはすっかり完治した。手術に向けて体調管理や自分の気持ちの整理もだいぶついた。そして脱腸の症状自体、だいぶ頻度が少ないようで、ひょっとすると穴が自然とふさがっているのかな、快方に向かっているのかな、と思っていた。ひょっとしてもう手術をする必要がないのかな、とさえ思い始めていた、その矢先である。

固いのだ。

普段はむにゅむにゅと押し付けると戻っていたのに、もう触っただけで、ぷにぷに感がなく、腸が固まってしまっているのがはっきりと分かる。相当押し込まないといけないなと思って圧をかけてみると、まるで別のボタンを押してしまったかのように、ナツがぎゃーっと泣き始めた。初めての致命的なミスタッチ。手を離して改めて見てみると、それは大きな腫れだった。重たげで頑なな弾力を持っている。

わたしの手ではもう戻らない。

ますみは直感した。出っ放し八時間で壊死が始まるかもしれないという情報がよぎった。夜の九時を回っていたが、車に乗せてすぐに日赤へ走った。車内でナツはほとんどずっと泣き続けた。

居合わせた内科の先生が対応してくれたのだが、押しても押してもうまくいかない。ナツはぎゃんぎゃん泣く。次に手が空いた小児科の先生が交代で二人がかりで引っ込めようと悪戦苦闘したのだが、悲惨だった。やっと、別の診察を終えた小児外科の専門の先生が駆け付けた。患部をつまんでぐにぐにと左右に引き伸ばして、穴に目がけて一気に押し込み、熟練の技を見せた。

そしてすかさず言った。

「入院しましょう」

そのまま、ナツは病院で手術の準備に入った。一気に日程が早まった。これから一週間の入院を予定している。ますみは一泊してから、翌日の昼に帰宅した。いざ手術を間近に控えるとなると、何から手を付けるべきか頭の整理がつかなかったが、結局はまず落ち着くしかなかった。キッチンには洗われていない皿が、居間には脱ぎ散らかした服が、放置されている。

ますみは片付けから着手することにした。どこから手を付けるべきかと見回した。洗濯機をかけねばならない。掃除機もなんだかんだでしばらくかけていない。まずは水回りから。いや、その前に缶詰や牛乳パックを分別することから。

とっちらかった部屋を掃除しているうちにあっという間に時間が過ぎ、泰知が仕事から帰ってきた。外はすっかり暗くなっていた。簡単に準備は済ませていたので、ますみは泰知に命じた。自分で食べて自分で片付けておいて。

「ああ」

ばたばたと動き回るますみを「なあ」と呼び止め、泰知はからし和えを箸でつまみながら言った。

「だから早く手術したほうがいいって言ったんだよ」

「そうは言うけど、」

ますみが立ち止まり振り返ると、一人でもぐもぐと飯を食っている泰知がまるで鍵っ子のように映った。言いたいことがあったけど、とっくの昔に置き捨てて、ふてくされることすら置き捨てて、ただ静かに飯を喰らう、おとなこども。

泰知は、馬鹿みたいに言う。

「俺は忙しいんだから、頼むからちゃんと子どもの面倒くらい見てくれよ」

そのとき、蛍光灯のシーリングライトに向かって飛び立つ羽音がした。

「なによ、その言い方」

またますみの耳に届いたのは、誰の声なのか。

「おまえに文句があるのは俺のほうだ」

ますみが天井の方を見ると、スピーチバルーン。

「早めに気付いたねって褒めてくれるつもりはないの?」

次から次へと追加され、言葉に言葉が折り重なっていく。ますみの耳には全てがいっぺんに押し寄せたので、その量に圧倒されてただ泰知の顔を見据えた。

「ぼくが君に認めてもらえるような何かができる人間だったならね。喜んで素直に褒めることもできたかもしれない。そもそも君にその気がないなら、顔すらみたくないな」

「褒めてくれるような心の余裕なんてないんだね。わたしはナツがきちんと育つことが生き甲斐。もうあなたは必要ない。そんなふうに思うことで折り合いをつけている節があるけど」

「君は、必要なことをていねいにボタンをひとつひとつ押すようにこなしていく習性があるね、それがぼくは腹立たしいんだ」

「――つまり、うらやましいんだ。だからついつい破たんしてしまえって願ってしまう」

「――陥頓を願うなんて、雑にしか生きられない者のやっかみだね」

「そんなふうに自分のことでいっぱいいっぱいの人は嫌いだな。余裕がない人を嫌悪しているんだ」

「――なぜ嫌いって、それは自分の嫌いな側面だから。すぐに余裕を失う自分が嫌いだから、だから、できる範囲のことを決めて、一つ一つやっているに過ぎない」

「――それはずるいこと?」

「ナツのことだって」

「そうだね。わたしの生き甲斐はナツ」

「――というけど、ナツがかわいいのは自分をナツに映しているからかもね。ナツが自分ではないと知ったとき、ナツがわたしの世界の一部じゃなくなったとき、わたしはそれでもナツを見てあげられるかな。待ってあげられるかな。待ってあげたいけど」

「――不都合を排除して生きているわたしに、自身はない」

「ますみは、ぼくを待ってあげることができないということは、ナツを待ってあげられるのかな」

「――ナツのことになると俄然夢中になって、ぼくを置いてけぼりにするなんて、ひどい。と言いたいけどそれは言えない……」

羽音とともに飛び交う言葉は、相手を突き刺すものではない。願いとはそれほどどぎついものではないのである。にもかかわらず、言葉をひとつひとつ拾うことは難しい。むしろ、どれひとつとして、まともに拾われることはなかった。

泰知にも、ますみにも。

ますみはとっさに右手周辺にあった棒状のものを握りしめていた。次の瞬間に振り下ろされたネギの一太刀を、泰知はボクサーのように首を傾けて頭部を避け、かろうじて肘で受け止めたのだが、その弾みで椅子に座ったままにひっくり返った。猫はぴょこんと老いた身体を華麗にひらいて、その場から消えた。一体だれのどの事柄から手をつけたらいいものか。願いはこんがらがって、誰も整理をすることができない。泰知の放った酔拳はむなしく空を切り、マウンティングのポジションをとったますみが上から投げつけたナツの赤ちゃんフォークを、泰知はまな板で受け損ねた。テーブルのうえの醤油がひっくり返って水たまりを作り始めたが、二人はお構いなしだ。そこには、とうとうと連鎖し流れる関係性のもつれがあるだけだった。声を荒げても拳を振り上げても何ともなるまい。喧嘩しても喧嘩しなくても、何ともならないのだ。予想された関係性のもつれの延長でしかないのだから。

刻みネギはぶちまかれ、薬味のない納豆だけが卓上に残された。

 

ますみは、何とかなることと、何ともならないことの狭間に立たされてなお、踏ん張ってナツと生きるしかなかった。ますますナツへの気持ちが重くなってゆく。手術を終えてすっかり腸を押すこともなくなった頃に、その間違いのない指さばきで「愚痴を聞いてくれ」と打ったのは、友人へのメール。

すぐさまかえってきたのは「OK!」メール。

2014年6月5日公開

© 2014 手嶋淳

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