「ねえ、トム」
シューズの紐を縛っている渡睦の前にあきねがスマホの画面を突き付けた。
「これマジ?」
「なんだよ。近くて見えねえよ」
渡睦は上半身をのけぞらせ、スマホを持つあきねの手首をつかんでぐいと引き離した。
「なになに?」
それは、隣町のクラブチームの女子からのLINEだった。
――トム辛勝w
昨晩の一戦がニュースになって広まっていく。なぜそんなにニュースになるのか。そんなに面白がるような出来事なのか。
「噂通り強かったんだね」
「1ポイントもとれねえぞ、お前なら」
「一年女子ね~。岐阜から転校してきた子なんだってね」
「あれはなあ……」
「なに?」
「マジで強い」
「ねえねえ」
「なに?」
「綾谷さんってどんな子?」
どんな子と言われても。頭が切れる。そして腕力もある。いや、あの凄みをどう表現したらいいものか。
「ねえ」
綾谷桃花の入学がこの春。唯一の女子の登場については高校においてそれなりのニュースであり、一時ざわついた。しかし渡睦には、何ら問題ではないと思えた。
しかし、さざなみと思いたかっただけ。認めたくなかったのだ。出来事の規模を小さく見て、笑みを浮かべていたかったのだ。それが昨夜のストロークをきっかけに、桃花をどうしようもなく意識するに至ったわけだ。思えば、毎日授業が終わって部活の時間になるのが、本当は待ち遠しかったのだ……。
「ねえったら!」
ねえねえねえねえねえねえとしか言わないあきねが、スケールの小さい、つまらない、キスもさせない平版な女に見えてくる。差を思うほどに際立つ。昨晩の桃花の躍動感……。試合が進行するほどに渡睦は追い詰められていった。走り抜いて渡睦を驚かせ、しなやかなだまし討ちのドロップショットを決めてくる。試合後は勝った気がしなかった。不思議な魔法にかけられたかのようだった。
「ねえったら!」
渡睦は完全にノックアウトされていたのだ。もっと桃花を知りたい。あの強さと鋭さをもっと味わいたい。そして桃花という存在を素手でまさぐってかきまぜてみたい。深い森の、深い沼のその深さへと誘う、あの瞳。
渡睦は身体をのけぞらしてあきねの腕を払った。
「だから見えねえんだよ。そんなにスマホを見せたいなら焦点が合う位置に腕を動かせ。何回言ったら分かるんだ?」
しかし、である。あきねのアスパラガスのような腕に悪態をついている場合ではなかった。隣町のクラブチームの女子からのLINEの続きには、信じられない内容が書かれてあったのだ。――桃花に彼氏がいる!?
あきねはすっとスマホを引き下げた。
「え?」
「見たいでしょ」
「ん?」
「LINEの続き」
「いや。べつに」
渡睦は今さらながら平静を装う。そしてシューズの紐を縛ろうとした。しかしうまく縛ることができず、オバQのような変な片結びができあがった。
誰なんだ? 信じられないことに、部内の同級生同士の付き合い、とそのLINEには書いてあったようだ。文面の続きはどのようなものか、確かめたいがもういい。慌てて後輩を思い浮かべる。一年生の顔を、姿を、ひとりずつ。
1ゲームも取れない小兵、小林聡。あいつはあり得ない。腕力だけのサービスエースバカ、早田健一。桃花にふさわしくない。長髪の田宮諒はレベルが低い。ヘビー級の永田宗助は体力がない。次から次へと思い浮かべてみる。そして桃花の隣に置いてみる。しかし、誰にしても相応しくない。そもそも、女と付き合う度胸のある男など一人もいないように思える。ましてや、あんな近寄りがたい女と。桃花はテニスプレーヤーになるために生まれてきたのだ。そんな桃花の隣に置いてふさわしい男などいない。二年生や渡睦の同学年の姿を思い浮かべたがどいつもこいつも似合わない。相手にならない。そもそも先ほどの情報によると、桃花の相手は一年だったっけ。まったく信じられない、としか言えない。全然分からない。理解できないのだ――なぜ自分じゃなかったのか!
でも、本当は理解している……。
昨夜の試合、彼女は形勢不利であると一度も意識をしなかったに違いない。優勢/劣勢を感じるセンサーが壊れていて、いや、そういう現状認識をはじめから無価値と切り捨てた世界を生きているのだろう。‘流れ’や‘文脈’とは無縁の世界で、勝ちも負けもなく、部長も部員も何もない。ただ、今を戦っていた。シンプルに戦っていた。勝利すら求めずに。
勝つために必死になって歯を食いしばる渡睦は、それに一番傷つき、動揺したのだ。岐阜から降臨したのは、モノホンの修羅雪姫だった。ひるがえって、桃花の目に映った自分とは……?
勝敗の尺度の内側で笑ったり泣いたりしてきただけの自分が、ひどく幼く感じる。そんな自分を桃花のモノサシを当てた時、渡睦の価値とはいかほどのものだろう。考えただけで足元が崩れそうになる。
桃花に一番ふさわしくない男こそ自分なのだ、という思い。それが支配する。それが、渇感を産む。誇大妄想を産む。そして落ち込む。もんどりうつように渡睦は焦れる。桃花をもっと知りたい、と。
靴紐がほどけたままに、いつの間にか立ち尽くしていた。あきれ顔のあきねはいつの間にかその場を去っていた。まるで自分が盤上のポーンのようだと思ったときに、渡睦はその腑抜けた情けないイメージを断固拒絶しようとした。
高校において、数学は不動の一位でテニス部部長、他校に彼女を作る自分は、まさにキング、のはずだった。しかし残念ながら今となってはそのイメージを一番拒絶してしまうのが、自分自身。初めから裸の王様だったのか。クイーンの登場とともに詳らかになってゆく事実とは、謎の一年Xこそがキングであるということだ。陣内には渡睦の存在感はゼロに等しい。拭おうにも拭い去れない。自分は立ち尽くすポーンだった。
「テニスもせずにそこで物思いに耽るおまえはバカか」
コーチにガットで頭をポコリと叩かれて我に返った渡睦はラケットケースを担いで、コートに向かった。だらしなく歩けば、クレーを踏みしだくたびシューズが頼りない音を立てている。ナイターの照明の向こうで電車がガタゴト去っていくと秋風が逆巻いた。素振りをするあきねのポニーテールが乱れている。
クソみたいに顔が整ったこの女と、これからも付き合っていこう。
渡睦のなかで何かがささやいた。
藤城孝輔 投稿者 | 2016-10-23 06:28
テニスの話であることや人物の関係といった基本的な内容を把握するのに手こずりました。これは私がスポーツ用語について無知だからでもあるのですが、「テニス」という言葉や主人公が3年生でテニス部部長であるという情報はもっと最初のほうで出てきてほしかった。テニスの話だと十分に理解する前に「ノックアウト」や「ヘビー級」といったボクシングの用語が出てきて大変混乱しました(すみません、私の読解力にもだいぶ問題があります)。
あきねが他校の生徒であり、主人公の恋人であるという設定もなぜ終盤まで伏せてあるのかよく分からない。提示を遅らせる情報を厳選することで、浮気心の話なのか「学園内ヒエラルキー」の話なのか物語の焦点をはっきりさせることができると思います。
あと好みの問題かもしれませんが、全体的に比喩を通して喚起されるイメージやトーンが一貫性を欠いていて散漫な印象を受けます。これは意図的なものでしょうか。終盤、チェスの比喩でヒエラルキーについて語りだした時には、そもそもテニス部の物語である必要があるのかと考えてしまいました。
退会したユーザー ゲスト | 2016-10-23 08:36
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Juan.B 編集者 | 2016-10-24 00:52
テニスに絡めて新しい世代の脅威を表現するのが、学校と言う舞台を生かせている。ただやはり分り辛い部分もある。最後まで校内なのか校外なのか良く分からなかったので、既に校内にあきねと言う女子が存在していると思ってしまった(校外と言う事が分かった)。
工藤 はじめ 投稿者 | 2016-10-26 13:52
この作者には独自の文体がある。そしてその文体からはおじさんの雰囲気が伝わってくる。この作品の登場人物は高校生だが、高校での出来事も様子も描写されない。高校での淡い感じがまるで存在しない。作者はきっと、設定だけ高校生で中身や雰囲気がおじさんの学園モノを書いたらどうなるのか、という実験小説が書きたかったのだろう。なるほど。(-ω☆)キラリ(けど、私としては若い心の登場人物の話が読みたかったなあ;;;;(;・・)ゞ)
深読みをした私にはこの作品の良さがわかった(o^-^o)
星4つ!
高橋文樹 編集長 | 2016-10-27 17:07
独白調の地の文によって語られるので、桃花VSトムという対立構造はわかるのだが、「学校にただ一人の女子」という設定があまり生きていないように思う。あきねを描いてしまったことにより、その印象はさらに弱まった。
ストーリー的には少年の打算的な部分がよくかけていたと思う。
アサミ・ラムジフスキー 投稿者 | 2016-10-27 18:00
設定を読み取りづらく、物語の構造を把握するのに手間取ったが、心理描写を引き立たせるため意図的に舞台装置をミニマルにしたのだろうか。心の動きを読むための作品と捉えれば、描写の不安定さがほどよいスパイスとなっている。ラスト2行がすべてだろう。
恋人の存在によってテーマがぼやけているため、今回の合評会用作品としての評価には悩む。