「赤い箱を持っていくの」と、かなちゃんはお母さんに言いました。
箱って何に使うの、とお母さんはかなちゃんに尋ねました。
「鬼のお面を作るの。節分の豆まきのお面を作るから、お菓子の箱を持ってきてくださいって」
お菓子の箱なんてないわねえ。言いながら、お母さんは立ち上がってタンスやお台所を調べに行きました。そしてダンボールじゃだめなの?と聞きました。
「先生はお菓子とかの紙の箱って言ったの」かなちゃんは答えました。
じゃあこれになさい、とお母さんが出してくれたのは、お洋服か何かが入っていた大きな紺色の箱でした。
ちがうの、こんなんじゃないの、赤くて小さい箱がいいの、お顔にかぶるんだからこんな大きいのはいらないの。
けれどもお母さんはまた忙しそうにお台所へ戻って行ってしまいました。蝶結びにした白いエプロンの後ろ姿を見ながら、かなちゃんは何も言えずに大きい箱を抱えて立っていました。
こんなんじゃないの。赤い小さい箱でなきゃ。
次の日、幼稚園へ通う道々、かなちゃんはずうっと考えていました。先生がみんなの前で作って見せてくれたのは、小さな赤い鬼のお面です。そして、これくらいの箱がおうちにあったら持ってきてくださいって言ったのです。この紺色の箱は大きすぎるし、分厚くて工作用のハサミでは切れそうもないし、とても上手にお面を作れそうもありません。こんなの持って行ったら笑われる。こんな箱、いらない。
大川の橋を渡る時、かなちゃんはふと、この大きい紺色の箱が川を流れて行くありさまを想像しました。すると、それがとてもいい考えのように思えました。そう。箱を忘れてゆけばいいのです。そうしたら先生が別のもっといい箱をくれるでしょう。
そこでかなちゃんは箱を欄干ごしに川へかざして、そのまま手を放しました。箱はペッタンと川へおっこちて、すうっと流れて行きました。かなちゃんは急に恐くなって、走って幼稚園へ行きました。
鬼のお面を作る時間になると、かなちゃん、箱はどうしたの、と先生が尋ねました。忘れました、と答えると、先生は幼稚園にあった赤い小さい箱をくれました。おかげで他のどのお友達よりもきれいなお面ができました。お友達が持ってきた箱はだいたい大きすぎるものばかりでした。
つくりたてのお面を持っておうちへ帰る徒中、大川の橋を渡ったかなちゃんは、欄干から川を覗いてみました。もうあるわけないもんと思いながら。
ところが、捨てた箱はまだすぐそこにあったのです。あの箱はすこし先で丸太みたいなものにひっかかって止まっていました。川の流れにゆらゆらと揺れながら。岸辺まではもうすぐそこです。まるで誰かが助けに来てくれるのを待っているかのように、いつまで経っても同じ場所で止まっています。
だって、こんな大きい川なんだもん。あそこまで下りて行けないんだもん。危ないんだもん。下りたら叱られるんだもん。
持って帰ってきたお面を見ると、お母さんは、あら、上手にできたわね、と言っただけで全然気が付きませんでした。かなちゃんはそれを聞いてもちっともうれしくありません。川に捨てた紺色の箱ばかりが思い出されてなりません。
幼稚園へ通う道はどうしても大川の橋を渡らなくてはなりません。かなちゃんは毎日、橋を通りかかるたびに、絶対川の方を見ないようにして走って渡りました。あの箱はまだあるのかしら、と思うものの、とても覗いて見る勇気がありません。
でも、ある日、勇気を振り絞って覗いてみたら、箱はもうなくなっていて、岸辺に早咲きの小さなたんぽぽの花が咲いていました。かなちゃんはホッとしたような、悲しいような変な気分でおうちに帰りました。
その次の春、黄色いたんぽぽがまた同じ場所に咲きましたが、かなちゃんが見に来ることはありませんでした。かなちゃんはお引越しをしてしまったからです。
諏訪真 投稿者 | 2020-12-26 14:09
非常に恐縮であり光栄に思います。
書いてみて思ったのが、人から物をもらうことは想像以上に受け取る側も何かしらの資格とか力量とか覚悟とか諸々のコストがかかると言うことなのかなと。
そしてその力が足りないと、物に負けてしまうんですね。
だからその時の物を見ると、敗北感とかあるいは諸々の負の感情ががもの凄くて、手放せたらまだある種の逃げにもなるんですけど、それが川に引っかかって逃げられないという残酷な絵が。
一番最後の一文は救済と言うより、ある種の象徴詩的な印象に変えたものと感じました。