tobujikandesu

浅野文月

小説

3,320文字

「とぶ」とはいったいなんなのであろう。飛ぶ・跳ぶ・翔ぶ・トブ……
一つの「単語」から導き出された掌編。
さあ、あなたもとんでみますか?

私は何度この本を読んだだろう。たぶん三十回。いや、それ以上かもしれない。

塔と塔の間に張られた綱を道化師に飛び越えられた綱渡り人は、真っ逆さまにツァラトゥストラの傍らに落ちる。その後の二人の会話を読んだ後、私はそっと本を閉じる。そこから先は読まない。読んだことがない。読む必要はないと思っている。なぜ読まなくても良いと思っているかって? 既にここで凡人の人生すべてが語られているからだ。凡人たる私には、それ以上時間をかけてこの本を読んでも意味がない。なんならシュトラウスの交響詩をレコードで聴いた方が手っ取り早い。でもフォン・カラヤンじゃだめだ。彼はカソリックだから感傷的すぎる。ジューイッシュであるフリッツ・ライナーの方が冷酷で真実に近いところを突いている。と言いつつ、結局は音楽によって思想のなんたるかを現すことはできない。神は死んだのだから……。

もし音楽によって思想を万人に伝え、世界を変えられると信じている能天気な者がいたら私はこう言いたい。

「コンビニのクソみたいな色をしたビニール袋に弁当と缶ビールをうまく入れるよう口笛を吹いて伝授してみろ!」と。それができるのであれば、私はその先を読み、超人に憧れ、飛翔し、そして堕落するであろう。

 

かくいう私はスーパーマーケットという前世紀に生まれた最も偉大で合理的、かつ国民からも敬愛されている組織の一員として奉職させて頂いている(昨今はコンビニエンスストアやネットショップにその座を奪われんとしているが)。その中でも幸運なことに鮮魚部という部署で魚をさばくという、まるで枢機卿が王族の子を洗礼するのと同じような聖職に就いている。

毎朝、開店する三時間前に出勤をし、ビニールという素材でできている白いキャソックに着替えて、冷凍庫の中にある発泡スチロールという聖櫃せいひつに詰められているカチカチに凍った魚を解凍室に移す。その後は前日に解凍室に移された魚を今日の売り予想に従い取り出す。私は聖剣を所定の位置から引き抜き、砥石で研ぎ、切れ味を調整するという儀式を行う。決して切れすぎてもいけない。かといって切れ味がなまっていると商品として、魚の鮮度を落とすことになる。あくまでも慎重に行わないといけない大切な儀式である。儀式が終わる頃、パートさんと呼ばれている、私の母くらいの年齢の女性たちが出勤してくる。彼女たちがいないと私はこれから閉店まで行う一連の務めが立ちゆかなくなる。教会で言うなら修道女のような役目を果たす大切な役職だ。

そう、あるとき私は確かに見たのだ。私がミサを執り行うようにトラウト・サーモンを捌いた後、プラスチックトレーに移した刺身用の切り身が蠢き、再び一体化を図ろうとしているところを。それは元の魚の姿に戻り、海に帰ろうとしていたとしか思えない。

私は逃げ出したくなった。想定外の出来事だったからだ。鮮魚部長のところへ行き、カゼ気味だから早退すると言い私は家に帰る。二の腕と太ももが痺れてきた。この職場も辞めなければならない。二年ちょっとしか持たなかった。前の職場より務めた期間が一年短いというのが頭を悩ませる。ああ、結局こうなるのだ。こうやって自分のポンコツ脳みそに脅えて生きていかないといけないのか。ええい! なぜ、あのときに私はアウフヘーベンしなかったのだろう。あの時の選択によっては今頃、私は主の御許に行けていたかも知れないのに・・・・・・

私は生きるだけではなく、死ぬ自由さえも奪われた! その事実を知った後、私は風呂桶の残り湯を手桶にとり、それを足に掛けて、自分自身を洗礼した! しかし、そう簡単に心の平安は訪れない。マルクスは「宗教は民衆のアヘン」と書いたが、私には平安こそが宗教であり、アヘンである。

さあ、私は起きたことを皆に伝える義務がある。外に飛び出よう!

 

(出囃子)トントン ピーヒャラピーヒャラ トントン チントンシャン♪

(拍手)

(下手より前屈みで登場 座布団の上に座り出囃子が終わったタイミングを図り扇で膝をたたき、深々とお辞儀をする)

いやー、私がまだ二つ目の頃ですがね。とあるテレビ局で今は亡きジョン師匠とご一緒させていただいたんです。収録が終わり楽屋に戻る途中。そうそう、わたしは師匠の後ろを歩いていたんですがね、師匠の手からフワりと畳まれたちり紙が床に落ちたんですよ。

「師匠、師匠。なにか落としましたよ」

「いやー、ありがとう。これは私の宝物が包んであってね」

ちり紙の中に宝物ですよ。いやー、さすがジョン師匠ですな。

(笑い)

「大きな声じゃいえないんだけどさ。いやー、君のことは私も買っているからね。来年あたりに真打になる話が出ているじゃないか。がんばってよ。ああ、このちり紙かい。ナイショで教えてあげるョ」

「師匠。もしや鼻水とかいうオチだったら怒りますよ」

(笑い)

いやね、大変なことを聞いたんですよ。ジョン師匠から。ちり紙の中身、何だと思います?

「君ね、この中に入っているのはね、元日本代表でセリエAで活躍した司令塔! そう。ねっ! 中山ヒロ!」

「師匠・・・・・・。中山でなく中田じゃないですか?」

「あっ、そうそう中田だ。ナカダ。その中田の陰毛がはいっているんだよ。これね、ちょっと大きな声では言えないルートから回ってきたんだけどね」

「師匠、それどこのヤーさんからいくらで買わされたんですか? 師匠のことだから闇営業でもしたんでしょ」

(笑い)

ジョン師匠。どこの婆さんかわからない下の毛を、どうやら十万くらいで買わされたと。私見たんですよ。だってその毛の中に白いの混じっているんですから!

(笑い)

しかも、安い買い物だったと、今から特攻にでも行くのかという意気込みで語ってたんですよ! ジョン師匠ったら。

(笑い)

意味わからないでしょ? 私にゃわかんないね。昔はね、戦争に行くときゃ、カミさんや好いてる女の下の毛をね、半紙かなんかに包んで懐にしまっていくと、無事に帰ってこれるというジンクスがあったみたいでね。

そこのお母さんは知っているでしょう? あら、ゴメンなさいね。旦那さん帰ってこなかった。それじゃ、私のことを旦那さんだと思って毎日寄席に来て頂戴よ。えっ? 年が孫とたいして変わらない? 孫と毎日会っていたら目が痛くなる?

(笑い)

そりゃ、そうですな。たまに会うから孫は眼に入れても痛くないってさぁ。ちなみに、来週の下席からはここ上野ではなく新宿になりやすんで、と言ったら上野の旦那に怒られちゃうや。上野いいとこ、下席も来てね、チョイや、チョイや。私はいませんけどね。

(笑い)

まあ、師匠の話に戻しますがね、その後にジョン師匠も橋の上から飛んでいったから、いま思うとお守りだったのかなぁって。十万ヤーさんに払って帰ってこれると思って飛んで行ったのかなって思ったり、思わなかったり。でも結局そのまま帰ってこなかったからね。懐かしい話ですよ。だから私はジョン師匠が飛んで以来、空を飛んでいません。

(笑い)

もう飛行機なんて怖くてこわくて――だからいつも移動は新幹線か船。おかげでこないだ札幌の独演会に行くとき、海が時化ちゃいましてね。会場に着いたの三時間遅れ。飛行機で前入りしていた前座の平太がしっかりと勤めちゃっていましてね。まいったのなんのって。いい師匠についてよかったねぇ。さすが私の弟子! CDで憶えた十代目の馬生ばしょう師匠のサンマと三代目三木助師匠の芝浜やっちまったらしくてね。まるで昔の私と同じ。

(笑い)

中入り後にね、真冬なのに圓生えんしょう師匠の累ヶ淵かさねがぶちをやったら、季節が違うんだよって客から空き缶投げられたらしいですよ。

(笑い)

カミさんの下の毛、懐に入れていたら海も時化ずに間に合ったかなぁ。いやぁ、本当に失敗しましたよ。これで平太の二つ目決定。師匠である私は、御贔屓さんに頭下げ回わらなきゃならねぇや。

(笑い)

師匠、ジョン師匠! いまでも師匠の生きざまはバカウケですよ! 話に尾ひれどころか胸びれも付けてますけどね!

芸人の鏡ったらありゃしねえや、こんちきしょう!

(笑い)

こんちは。こんちは!

おお、こっちへお入り、まず上がんなさい。

それじゃ、師匠、邪魔させてもらいますわ。

〈了〉

 

2020年2月6日公開

© 2020 浅野文月

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