花とバケツ

浅野文月

小説

2,107文字

被害者の家族。加害者の家族。どちらが不幸か比べることはできるのでしょうか?
読んだ後、少しでも考えて貰えると幸いです。

去年の春頃ですかね、隣の部屋にこんなアパートには不似合いな小綺麗な格好の中年の男性が引っ越してきたのは。私の部屋にも菓子折りを持って挨拶に来ましたよ。こんな所へ越してくる人で菓子折りなんか持って来る人なんてそういないものよ。ここに住んでいるのは貧乏学生か、私のような訳ありの人間くらいだからね。その時は、会社を倒産して女房子供に逃げられて、しがない身とかなんとか言っていましたかね。でも着ているものやキチンとセットされている髪型から会社を倒産させたような人には見えなかったわよ。

えっ、私ですか。私はもうこのアパートに二十年以上暮らしている、身寄りのない婆さんですよ。

旦那とは遠の昔に別れましてね。もう生きているのか死んでいるのかわからないですよ。ええ、息子は一人いますがここに越す前から会っていないです。私もねぇ、あの頃はすさんだ暮らしをしてましてね、酒に浸り、男狂いで、気づいてみたら息子はどこかへいなくなっていました。いやいや人が来るのも珍しいから、つい身の上を話をしちゃって。

そうそうお隣の方ですよね。あの人は花を育てるのが好きだったみたいでねぇ。廊下の手すりやらベランダ。ベランダと言ってもねえ、錆びた鉄の鳥籠みたいな柵があるだけですけどね。まあ、洗濯物が下まで落ちて土がつかないだけマシなんでしょうかね。そう。その柵にも小さな植木鉢をズラッと並べてパンジーやらベコニアやら季節ごとに咲く花を植えていましたよ。私もたまにはチラッとその花を見てね、心が和むというか。落ち着くというか。スーパーに買物に行く時とかに、花に水を上げているあの人とたまに目が会ってね。こっちが会釈するとあちらも笑顔で返してくれましたよ。悪い感じの人にはとても見えませんでしたよ。

悪い感じと今言っちゃったけれど、あの人、結局は悪いことはしなかったのよねぇ。ただあんなことをするなんて、てんで思いませんでしたよ。あの時分はねぇ。警察やら新聞社やら仰山来てね。大変だったわよ。家賃が下がるかと思ったけれど、さっぱり下がりゃしないわよ。大家に言ったら現場の部屋なら半額と言われたさ。でもやっぱり気持ち悪くてね。

けれどもあの人も気の毒な方よね。奥さんもお子さんも交通事故で亡くされたのでしょう。それも居眠り運転の車と正面衝突。たいした怪我しか追わなかった加害者って斜向かいに住んでいる人なんでしょ。人生なんて残酷なものよね。なんも罪がないあの方の奥さんとお子さんが亡くなって、加害者がのうのうと生きているなんて。そりゃ交通刑務所? 二年くらい入っていたらしいわね。でも今では再就職して、奥さんも子供さんもそのまま。まあ、苦労はしたと思いますよ。でもね、そりゃあの隣の方だってああいうふうに思ってもしょうがないわよ。私だって息子には出て行かれたけれど、そんな目に会ったら私だって復讐したいと思うわよ。あの人も復讐しようと思って、ここに越してきて加害者の人が戻ってくるのをずっと見張っていたのでしょう。わかるわ。その気持ち。どこからか猟銃まで手に入れていたなんてその時は思いもよりませんでしたわ。

なぜ花を育てていたのかって? そんなの聞かれても私にゃわからないわよ。でもね、家族全員に死なれて、加害者は二年そこらで出てきてさ。無常を感じたんじゃない? 私はね、なんかわかるのよ。こんな寂しい生活をしていると花でも育てて気を紛らわせてみたくなるものよ。私なんか近所のノラが心の支え。でも世知辛い世の中よね。野良猫に餌はあげないでくださいなんて町内会長から直々に言われちゃってさ……でもかわいそうじゃないの。今でも餌はこっそりとあげているわよ。それが私の生きがいなのよね。

なんで自殺したのかって? あんた馬鹿じゃないの? わからないの? そんなのわからないのなら記者なんて辞めたほうがいいわよ。加害者の人。家族がいるじゃない。いつも聞こえていたのよ。加害者の人がやっと仕事に就いて、遅く帰ってくるちょっと前に、隣の部屋から、ほら間取りは同じだからここと同じだと思うわよ。この立て付けが悪くてちょっと何かぶつけたらすぐに割れそうな薄い硝子窓。ガラガラと引く音が聞こえるのよ。きっと猟銃の覗き穴。スコープというの? それで加害者を狙っていたんでしょ。でも、加害者の娘さんが寝ないで待っていて「お父さん。おかえりなさい」っていつも出迎えるのよ。そんなの見たら家族を持っていた人間ならば撃てないわよ。

何日間も同じ時間にガラガラと音がして、数分したらまたガラガラと窓を閉める音がしたわよ。悩んでいたのでしょうね。

誰も不幸せにならずに、あの人のやるせない心を解決できる方法。ああするしかなかったのよ。人の親しかわからないものよ。あの人、口に猟銃を咥えて足の指で引き金を引いたのでしょ? そりゃ凄い音がしたわよ。

そうそう誰も不幸せにならない方法と私さっき言ったけどさ、ここの大家、屋根に開いた穴をまだ直していないのよ。おかげで大雨が降ると雨が屋根裏を伝って私のこの部屋にも漏るのさ。大家と会ったら言っておいてくれない。雨の度にバケツを置いてさ、私が一番不幸せだよ。まったく。

〈了〉

2020年2月8日公開

© 2020 浅野文月

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