温度

七曲カドニウム

小説

19,853文字

第三回文学フリマ京都
カクヨム作家アンソロジー vol.02『温度』収録作品を改稿しています。

 弛緩して無防備に横たわるこの肢体は何かに似ている、ええと、何だったっけ――。
 無香料のローションを手に取り自分の秘部にも塗りたくりながら、きんきんに空気が張り詰めた銀色のマットの上で男の裸体がぬめぬめと光っているのを見下ろした。
 ああ、解った――。
 これは田舎の、清水が浅く溜まった沢で見た山椒魚サンショウウオの肌の質感だ。日に焼けて皮膚に蓄積されたメラニン色素が年月をかけ、浮き出して作る染みが山椒魚の斑紋のようだ。
 ぽた り ぽた り と苔むした岩間から澄んだ水が滲みでては集い流れをつくっている。
 隠れた石の隙間に、山椒魚の雄と雌が睦みあってできたにかわ質の卵嚢らんのうに包まれた卵たちを、幼いあたしは時間が経つのも忘れて、じっとみつめていた。

 

「まっつん、指名ありがとー♡」
「にこら、んー……」
 四回目来店の松本さんの腰に手を回し、上唇をすくいあげるようにしてついばんだ軽いキスをする。
 親しみをこめた挨拶と一日のお疲れさまの意味の労いをかけながら、お客様の服を丁寧に脱がせ、畳み、備え付けのハンガーにかけていく。その間にお客様には歯磨きをしてもらい、イソジンが入ったコップを手渡してうがいをお願いする。
 お客様の身に纏っていたアイテムで、これまでの経験から導き出される傾向と対策について瞬時にあたしの頭が分析を始める。
 女である私の得意とする能力はこの初動で遺憾無く発揮されると言っていい。
 悪い言い方をすると、値踏み。
 この男は永く喰らえるだろう、その予感が外れることはほぼ無い。
 スーツをかっちりと着こなしたサラリーマンも、外した結婚指輪を内ポケットに仕舞う既婚者も、虚栄心をかなぐり捨てて肩書きやしがらみから解き放たれて身も心も丸裸になる、ここはそんな泡ノ国。
 欲望渦巻く泡風呂の泡姫にこら。

 

「にこらちゃんの張りのいいおっぱいだ」
「…や……ぁん」
 乳房を揉まれ、薄く声をあげる。
 細やかな泡で綺麗に洗い上げた身体を、今度はぬるぬると密着させ、あたしの柔いところの肉を使ってあらゆる角度から抑揚を付けた摩擦を与えていく。熱をもった陰茎は脈打ち猛々しく天に向かってえていくのだった。
 何を望まれ、利用されるのかを考え、肉体を駆使した頭脳戦を悟られないよう、あたしは一層艶っぽくして喘ぐ。
 好きでも嫌いでもない男の身体は、あたしにとっては只の物質である。
 コンドームを含んで、蠢く陰茎を口内で包み込む。しっかりと根元まで被さっているのを確認してから、あたしの繁って窪んだ裂け目に誘導する。
 腰を振ると、次第にこらえた顔が歪み、恍惚とした絶頂期を迎え、山椒魚は覆われていた薄膜から解放された孵化したての幼生に戻った。

 

 湯気でくぐもったバスルームを出て、ベッドの上で火照った身体を投げ出した。
 松本さんはいつも九十分のコースを選択してから時間をかけて一回射精をし、余った時間で乾いたあたしの肌を弄びながらたわいのない会話をするのを好んだ。

「担当の患者さんが死んじゃったら、やっぱり悲しい?」
「にこらちゃんは僕が死んだら、どう思う?」
「にこら、悲しいよ、きっと泣いちゃうと思う」
「はは、嬉しいこと言ってくれる! 今度もにこらちゃん予約指名するよ!」
「わぁ、ほんと、うれしい!」
 一呼吸置いてから、松本さんは真顔に戻ってこう言った。
「心電図モニターの波形が一直線になったとき、ああログオフしたんだなって。それはもう記号みたいなもんさ。するともう肉塊が物質モノに見え始める。温かかった身体も少しずつ外界の温度と近づいて……」
「……」
「いつから、そうなったんだろうなぁ」
「うん……そう思わなきゃやってられないよね」
 あたしは松本さんの頭皮が透けて乱れた白髪混じりの頭を、そっと撫でた。

 育ちもしない、あたしのおなかの意味の無い卵たち。
 目の前のお客様が山椒魚に視えるように、あたしの持ち腐れた卵子も記号に視えればよかった。
 ただ確かめたかった。安心したかった。
 だから、だから、あたし。
 目の前の山椒魚に優しくできるの。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 から ん ころ ん、珈琲の中の氷が踊り滴が跳ねる。
 数時間前まで水に浸かっていたというのに、あたしはもう恋しくってたまらない。人魚は陸に上がれば、干からびて枯れていくのだろう、現実ではあぶくとなる前に。
 日に何度も湯を浴びて酷使した分、皮脂は流れふやけては乾ききってしまう。まるで猫も食わない、漁港に捨ておかれたうろこの剥がれた死魚のように。それを繰り返して、がさがさと荒れてしまう指先にハンドクリームを丹念に塗り込む。
 お客様からの頂き物のハンドクリームはフローラル系のいい香りがして、その匂いに飽きたころに使いきってしまえるのがいい。小さめのチューブで、いかにも女の子が喜びそうな可愛らしくお洒落なパッケージをしている。
 いつだったか、お客様から頂いたアンバー色の硝子目グラスアイの瞳を持つティディベアの裂いたお腹から盗聴器機能のついたGPS発信機が出てきたことがあった。また下心満載の自分の私欲を満たすためだけの、あけすけで下世話な玩具オモチャや、きわどい下着のプレゼントにも食傷気味だった。
 ティディベア事件があってからは、消費のできるコフレ類、未開封のペットボトルの水やお茶以外は丁重に断ることにしている。これら消耗品はいくつあっても困らない。それ以外は最初から受け取らない。生きてゆく中で煩わしいことはできるだけ最低限にしたい。大切なことを見失わない為にも。
 同店に勤めるY美は複数の太客ふときゃくにしなだれかかり、高価なブランド品を指定しては贈ってもらった品物のうち一つだけをアフターや店外で実際に使い回し、他はリサイクルショップに買い取ってもらい現金を手にしている。狡猾でしたたかな生きる術を持つY美は、欲望に忠実で、またそれを隠すことをしなかった。
 時折、待機室のロッカー前では、そんなY美の悪口を言い合う嬢たちもいたが、それは月の売上の上位を占めるY美に対する嫉妬も幾分か含まれていたのだと思う。
 念入りに擦り込んだハンドクリームの油分が、温かくなった指先で溶け、しっとりと馴染んできた。
 女と云う生き物は、どんなに飾り立てて化けようとも首と手を見れば大体の見当がつくもので、どの女もそれを十分に知っている。自分の価値の在処は、まるでそこなのだというように。もしバラバラ殺人であたしの手だけが転がって発見されたとしたら、とうの立った女だと断定されるのかもしれない。

 

 日曜日の、特に大型ショッピングモールのフードコートは白い飛沫のようで、眩しくて仕方がない。凝視していたテキスト端末の文字が滑ってしまうほどに。
 眩さを中和すべく、水滴でしたたったカップの三杯目の苦い珈琲をまた口に含んだ。
 テラスの大きな窓から射し込む光が、座席を確保しようとトレーのバランスを保ちながらうろうろと行き来する人たちの服や顔に揺れては影を作り、海を思わせる、ゆら ら、と。
 ごった返す人と食べ物の匂いが溢れかえるフードコートの中央辺りの席、立ち並ぶ店舗を背にして、明るく大きな窓を眺められる位置に、いつも通りテキスト端末を広げて書く。最近のあたしはずっとこうだ。
 昼時にもなると、あたしが陣取るテーブルの四客あるうちの三客の椅子は、座席を探す家族連れが概ね一言承諾を得るように声をかけてから、方々ほうぼうに散ってしまう。
 あたしの周りには少しばかりの空白ブランクができる。
 カチャカチャと食器の擦れ合う音に混じった声と声、ほとんどが笑い声。
 活気ある店員の掛け声。あたしの隣席の白髪交じり数人のグループからは不動産の資産価値について会話しているのが漏れ聞こえたかと思うと、話題は終活にも及んだ。時折、騒々しい話し声に、露骨に顔をしかめた反対側の若い男が一人で珈琲とドーナツを片手に読書をしている。またその隣では、さっき床に落としたアイスを諦めきれずに泣いている幼子となだめる母親。ファーストフード店のポテトをトレーに山積みにした大家族が集うテーブルでは、兄弟がどのハンバーガーを食べるかで言い争っている。またその隣のテーブルでは、カレーうどんを啜って飛んだ汁が白いブラウスに染みを作って、向かいに座るお揃いのペアリングをはめた彼氏が笑いながら紙おしぼりを手渡している。
 数ある店舗から誰もがさまざまなものを選びとり、咀嚼し、日曜日の午後をそれぞれに満喫していた。
 光と音が揺れる喧騒の中にいて、自分の鼓動が確りと脈打っていることに、あたしは気づく。
 嗚呼、さきほど塗った油分が被膜を作り、あたしはこの白い海原で漂っているのだ。
 ふと目をやると、開放的な窓に近くの空港から飛び立つ飛行機が見えた。
 まるで鯨みたいだ。
 いつから、嫌いだったはずのこの場所でこんなふうに時間を過ごすようになったんだろう。
 白鯨の背に乗って、旅立った青年のことをあたしは思い出していた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 哭け、哭け、もっと哭けよ――。
 重厚なカーテンが真昼の光源を遮るモーテルの角部屋、寝台の仄かな灯りの中で二匹の獣の息遣いが重なっている。珠のように窪みに流れる汗は空気中で気化し、れた敷布に垂れて部屋の湿度に貢献しているようだった。
「……ねぇ、いつ奥さんとは別れてくれるの?」
 嬌声に混じり、囁きながらもはっきり一句一語が男の耳に届いて皮肉めいた笑いが込み上げてくるのを、下唇を噛み締めて寸前のところで男は押し殺した。
「妻はヒステリー持ちだから、少しずつ話してはいるんだよ」
「――本当に? 待ってていいの?」
「ああ」
「ね、奥さんとセックスしてない?」
「勿論してないよ」
「――名前を呼んで」
 女の瞼を軽く愛撫し、男は言い慣れた台詞を吐いた。
「香織。愛してる」
「私も。洋平、愛してる」
 合わさる指先が沈み撥条バネが軋むと香織の奥歯が、かち りと鳴った。間髪入れずに、きし り、細い骨盤が肉にめり込む心地好い重さと鈍い痛さに、眉間に皺を寄せながら洋平は射精した。そして絶頂を迎えると、香織から身を翻して、湿地帯になった寝台に四肢を大の字に投げ、仰向けになって天井を見つめる。
 膣口から溢れ出た精液が伝い、股の隙間から細く流れている。
「それにしてもこの部屋、くそ暑いな」
 備え付けの箱に手を伸ばし硬度がなくなった陰茎を拭い、弛緩した香織の太腿に唇を這わしてから、濡れそぼった陰裂を丁寧に拭いていく。敏感になったあとの肌を弄ばれた香織が小さく痙攣するとまた吐息を漏らす。汗の玉が淡い光源に照らされて光っている。首筋にまだ引かない汗が浮いている、鎖骨、乳房の間にも。
 洋平は手元のリモコンで空調を操作したが、虚しく作動音がしただけで、何ら変化は起きなかった。
「壊れてるのか」
 香織は肌に張り付いた髪をかきあげ上体を起こし、煙草に火をつけると灰皿を手繰り寄せ、大きく煙を吸い込んだ。
 宙にもつれる煙が換気扇へと曲線をひきつれて、緩やかに吸い込まれていく。
「冷房が全然効いてないな」
「フィルターに埃が溜まってるのかもね。ね、知ってる? 暑いときに冬の情景とか記憶とかイメージすると体温が1℃下がるんだって。例えば、南極の氷山のとか」
「氷山ねぇ。行ったこともないのに想像できる? それにそれを言うなら体温じゃなくて体感温度だろ」
「難しいことはよくわかんないけど、涼しく感じるならいいじゃない」
 口紅が剥げた唇に煙草を咥えたまま、香織は目を細めた。
「小学生の頃、校舎の中庭にある噴水が凍っていて、水面に張った薄氷をよく割ったわ」
「ああ、君が通ってたエスカレーター式のお嬢さん学校か……」
「ふふ、そう。手の感触がなくなるくらいに水が冷たかったの憶えてる。氷の中に閉じ込められた燃えるような朱色の枯葉が綺麗でね。それが欲しかったの」
「想像力の乏しい俺にはよくわからないな」
「あなたにもあるでしょう? 決して、手に入らなかった儚いものが。今の今までそんなことは忘れていたのに」
「そんなことより、俺は実感が欲しい」
 洋平がそう言って乱暴に香織を引き寄せると、煙草の灰がふわりと舞った。
 さきほどまでしなだれていた陰茎はいつのまにか硬度を取り戻し、みるみるうちに猛り立った。まだ何か話したげな香織の歯の間を割って舌を捻じ込み、肉襞を指で探りながら、無心に洋平は吸い続けた。
 香織も従順に応じる。
 汗で冷えた肌と肌がぴたりと密着し、ふたたび二匹の獣が抑揚のついた水性の音を発しながら、互いを貪り喰らうのだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

この度は、女性作家のための文学賞、才華文學新人賞を受賞した『温度』の著者であり現役風俗嬢の泡姫にこらさんをお迎えいたしました。インタビューを通して、その独特な世界観の一端に迫りたいと思います。

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―初めて小説をお書きになったのはいつですか?

 

泡姫 字数や体裁を意識して書いたものが小説作品と呼ばれるとするなら、この作品が初めてです。それまではノートやカレンダーの裏などに、吐露できなかった気持ちや感情を、詩や言葉の羅列にしては綴り、丸めては捨てて。なので公募に応募して、ましてやそれが賞をいただくなんてこと自体、自分自身が一番信じられない感覚です。

 

―ある日、突然に書けるようになった?

 

泡姫 いえ、きっかけはありました。転機というか、強く書きたい、私が書かなければ、と自然に思うようになりましたね。

 

―差し支えなければ、その転機を教えてください。

 

泡姫 文字にするととても陳腐ですが、あるひとつの出会いでした。

 

―「出会い」、というと対象は「人」もありますし「物」もありますよね。

 

泡姫 ええ確かに「人」も「物」も、のちの自分の思考に繋がる点では同じものですね。私の場合は「人」でしたが。私が書きたいと思うのは、その人に読んで欲しいと思ったことが大きいです。

 

―その人物から影響を受けた、と?

 

泡姫 ええ、そうです。

 

―そう思って書いた処女作が、新人賞受賞なのは快挙ですね。やはり、幼い頃から本が好きだったとか、日頃から本はよく読むのでしょうか?

 

泡姫 たまたま色々なタイミングが重なって運が良かったとしか……。

学生の頃は新学期に教科書を配給されると記名するよりも、中の物語を全部先に読んじゃうような子供でした。図鑑も好きでしたね。最近はあまり本を読まないんです。ただ幼いときから何かしら書いてはいましたね。絵や落書きの時もありました。紙と鉛筆さえあれば、どこでだってできるでしょ? 気づいたら、書いてしまっている。癖のようなものでもあるし、一種の病のようでもあるなって。私にできる唯一のことです。

 

―そして書いていらっしゃるほかにも、現役の風俗嬢だということですが、実際に今でも?

 

泡姫 はい、この後も勤務予定です。(笑)

 

―では、小説を書くにあたって風俗嬢であることも影響を及ぼしていると考えますか?

 

泡姫 それも、もちろんあります。本当に色々な人がいらっしゃって。来られるお客様が一様に『性』を求めているだけとは限らなくて、各々に抱えるものが在ることを知ってから、そこが出発点になりましたね。

 

―なるほど。仕事を介してできる人間観察のような。そう言えば『温度』では摩擦が生じるとき熱も生じる、摩擦熱を人間関係になぞらえた表現がありましたが、実体験がベースになっている?

 

泡姫 人と人が接触すれば、痛みを伴った傷ができる。目に見えないほどの小さな傷から大きなものまで。その関係性が近しく深度があればあるほど、傷も肉を穿うがつように深くなる。もちろん血も流れる。痛みを強く感じる人も、また痛みに鈍感な人もいる。戦える人も、そうでない人も。そうやって誰もが何かを抱えて生活している。痛みがある、傷ができるということは、生きている実感そのものじゃないのか、と。それが当たり前で、前提で、傷つき傷つけあって、愛おしいと想える傷もあるんじゃないか、と。
寧ろ、摩擦があることは幸せじゃないかと思うようになりました。

 

―乱暴な言い方をすると、生きるためには他者を傷つけてもいい、とも解釈できますね。

 

泡姫 そう思われても仕方がないのかもしれません。ただ傷を負うだけの者はいないはずです。

 

―作中の登場人物すべてにおいて、生々しい記述と描写がより肉感的な印象を受けました。それぞれに実在するモデルはいるのでしょうか?

 

泡姫 私の書く物語に登場する人物には、はっきりとしたモデルはいません。評価をいただくようになって私小説という単語が私の作品を語るうえでキーワードのようになっていますが、私自身はそう感じてはいないんです。日々の生活の中で人々が漠然と抱いている、共有される感覚のようなものを掬い上げて書いているつもりです。

 

―これからも風俗嬢として働きながら作家として活動されるのでしょうか?

 

泡姫 はい、時間が許す限りそうすると思います。

 

―次回作の構想はありますか? また今後の展望を教えてください。

 

泡姫 少しずつですが第二弾を書き始めています。万引Gメンとゴミ屋敷に住む人間の邂逅の物語です。そして壊して終わらせることで、始めることができる人間のたくましい姿を描きたいと考えています。

 

―今後のご活躍を楽しみにしています。本日はありがとうございました。
(文 藤枝篤郎)

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「にこらさん、お疲れ様です。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。これは先程のインタビューとは関係なく、個人的に訊いてみたいのですが……。不躾で申し訳ありません」
「はい、何でしょう?」
 初めての対談を終えて緊張が解けたころに、ライターの藤枝さんがあたしに話しかけてきた。
「えー、その人物は、にこらさんの作品を読まれたのでしょうか?」
「いえ、読んでないと思います。伝わってもないと思います。実は嫌われてたんです、あたし」
「そうでしたか……」
「それでもいいんです」
「……いつか、どこかで、読まれるといいですね」
「ふふ、ありがとうございます。ではこれで」
 藤枝に軽く会釈をして出版社をあとにし、その足であたしは店へと向かった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 青々と茂った木々の隙間からは木漏れ日が足元を照らし、心地好い風はさわさわと宮本の頬を撫ではしたが、その足取りは鈍く重いものだった。
 大学病院の出入り口にあるディスペンサーから繰り出される消毒剤を手指に擦り込み、一歩踏み出すと、午前中の外来の診察時間はとうに終わっているのにかかわらず、一階ロビーでは会計待ちの患者や院内処方の薬を待つ患者で大変混雑していた。
 人の波を縫うようにして、再来受付機に診察券を滑り込ませプリンターから排出された受付表とともに事前にもらっていた予約表を備え付けのクリアファイルに挟み、前回教わった七階の採取室へと向かった。妊婦や産婦人科の患者がいる待合で顔を合わさないよう配慮がなされているようだ。
 エレベーターの中では、およそ病人と思えないくらいの大声で老人たちが数人話していて、宮本はあからさまに眉をひそめた。途中の階からは、母親らしき女性がゴロゴロと引いたキャリーバックからは管が伸び、抱きかかえた幼い子供の鼻へと繋がっている。
 病院内は入院患者の病衣に空調を合わせているのか、蒸し暑く、宮本はクリアファイルで首元を扇ぎ、ネクタイを緩めた。
 七階に降りると、人気のない廊下を歩き、受付のカウンターの呼び出しベルを押した。呼び出し音が虚しく響く。
 薄暗いカウンターの中に声をかけたが、誰もいない。
 腕時計で時間を確認すると、予約時間まで三十分以上ある。
 宮本は近くの長椅子に腰をかけ、時間がくれば誰かが来るのだろうと考え、待ち時間を潰すための本や雑誌が所狭しと並べてあるマガジンラックに視線を落とした。宮本は手を伸ばして物色すると、一冊の文芸誌を取り出し表紙の見出しを眺める。かつて本を読むのが好きで、文学部では宮本自身も青春小説を書いていた。卒業してから大手出版社の校閲として数年務めた経歴を持つが、辞める頃には本を読むのが随分と苦痛になっていた。文学を愛するあまり、作家の原稿を読むたびに客観的視点で読めなくなるばかりか、自分との力量の差を見せつけられ、卑屈になって、項を垂れることしかできないでいたからだ。
 無力感から仕事へのモチベーションは下がり、チームワークを乱し、転職するほか、宮本に出来ることはなかった。それが単純に嫉妬だと気づいたのは読むことや書くことから離れてまったく関係の無い職種に転職してからのことだった。
 あれからもう十年以上が経とうとしている。
 宮本は手に取った文芸誌の、新人賞を受賞した女性作家の作品を読み始めた。現役風俗嬢だということも手伝ってか、鳴り物入りで書評とともにインタビューまで掲載されている。目鼻立ち整った明るい印象の女がカメラから目線を外して、写真の中で僅かに微笑んでいる。
 顔も名前も知らない作家だった。

 

 チッ、と小さく舌打ちをして乱雑に文芸誌を元に戻すと、ひとつ欠伸をして座り直す。ほどなくして、受付近くのカーテンから同じ歳くらいの男が出てきた。
 何かを手にしている。
 その男は宮本に気づくと、気まずいのか目線を逸らし男子トイレに入って少ししてから、そそくさと俯き加減でその場を去った。
 誰もいなくなった廊下に予約番号のアナウンスだけが響く。

 

「お待たせしました。本人確認のため名前と生年月日を教えて下さい」
「宮本洋平、昭和六十年四月九日」
「はい、では、こちらにどうぞ」
 淡いピンク色の事務服、脹脛ふくらはぎにハイソックスを食い込ませた年配の女性が無表情でカーテンの奥の部屋へと案内する。そういえばカーテンも同じ色で統一されている。
 ピンク色は女性ホルモンの分泌を促進し母性を象徴する色なのだと、美穂が言っていたのを宮本はぼんやりと思い出した。
 通された部屋の横の壁には「採精室2(Semen Collection Room)」と書かれたプレートが貼られており、「使用中」の札が受付の女性によってドアノブに掛けられた。
「部屋に入ったら施錠して下さい。ソファーに使い捨てのシートを敷いてお使い下さい。終わりましたら、採精容器を横の男子トイレの検査窓口へお願いします。その際、ブザーを押してお知らせ下さい。今日の診察はありませんので、そのまま会計にてご精算となります。次回診察日に検査データをお渡しします」
 何の感慨もない、感情のない淡々とした声で矢継ぎ早に説明すると、プラスチック製の容器とAV機器のリモコン、清浄綿のパックが入ったカゴを宮本に手渡し、重い扉を閉めた。
 言われた通りに二段階ロックの扉に鍵をかけ、ジャケットをハンガーにかける。ネクタイは外して鞄に入れた。
 扉が閉まると三畳ほどの無機質な空間は、空気清浄機の細やかな稼働音以外はほぼ無音となった。
 オットマン付きのリラクゼーションチェアに、小さな液晶ディスプレイとDVDプレーヤーが置かれ、本棚にはグラビア女優の写真集、官能小説、下の段には数種類のDVDがあった。
 こぢんまりとした洗面台にはアルコール消毒、除菌シート、ティッシュが並べられている。
 宮本はDVDの中から女子高生モノを選び、チャプターを操作し中ほどから再生する。ヘッドフォンをはめ紙シートを敷いたチェアに座り、皮膚消毒用の洗浄綿で陰茎を拭う。
 およそ女子高生というには無理があるツインテールのAV女優の制服姿が映し出され、ヘッドフォンから聞こえるわざとらしい喘ぎ声を聞きながら、陰茎を擦りあげる。
 病院内など感染予防の観点から衛生管理が徹底され清潔であることが明白であるというのに、漫画喫茶や試写室、そのパソコンデスクの裏の、どこの馬の骨ともわからぬ男たちの飛沫、小説の小口に付着した染み、カピカピに乾燥した細胞、それらのじっとりとした臭気をこの部屋の至る所に感じて、宮本は胸が悪くなるのだった。
「くそ……ッ」
 香織とも会わず、一週間の禁欲生活を余儀なくされ、溜まっているはずの宮本の下半身は焦れば焦るほどに無反応で、余計に宮本は焦燥感に苛まれた。
 手を上下に動かしながら、香織の充血してぷっくりと膨らんだ小陰唇の感触を必死に思い出そうとしていた。
 そして、なかなか逝かないのは、さっき読んだ風俗嬢が書いた幼稚な夢物語のせいだと宮本は自分に言い聞かせていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「ねぇ、あなた」
「……」
「ねぇ、ちょっと聞いてる?」
「あぁ、ごめん。聞いてなかった」
「もう~、だからぁ~」
 美穂は缶のままちびちびと発泡酒を飲み、白菜で肉だねを巻いたシューマイもどきを口に運びながら愚痴をこぼした。
 テーブルの向かい側で、洋平も缶酎ハイを口にしている。
 今日あった出来事を晩酌の時間にお互いが話そうと決めたのは、結婚生活が三年経った頃だった。初めて夫婦に訪れた倦怠期を回避するための、美穂からの提案だった。一人息子を寝かしつけたあとの、この時間帯が日課となっていた。
「あー、将太がどうしたって?」
「だから、予防注射の時、また熱があるって断られたのよ」
「何度だったの?」
「三十七度二分……あの子にとっては平熱じゃん。毎回受けるたび説明してるのに、あの藪医者ったら覚えてないのよ!」
「まぁ、たくさん患者がいるからいちいち覚えてられないんだよ。最終的には説明して受けられたんでしょ」
「そうだけどさぁ~、毎回も、となると気分悪いわ」
「宮本家は先祖代々、男はなぜか平熱が高いんだよ。俺も子供のころそうだった」
「ふうん」
 美穂が興味なさげに冷蔵庫を開け、二本目の缶のプルタブに指をかけた。
「……それとさ、着床しなかったみたい」
「生理きたの?」
 シュウマイを口で噛みちぎりながら、洋平が訊いた。
「うん」
「そうか。また頑張ればいいよ」
 そう答えた洋平の口調は、ミスをした部下に諭すような軽い口調だった。
「あのねぇ……これ以上、何を頑張ればいいっていうのよ! あなたは何もわかっちゃいないのよ。……わかろうともしないのよっ!」
 しばしの沈黙が流れ、それから急に立ち上がり、語尾を荒くした美穂が飲みかけの缶をテーブルに叩きつけた。
 滴がテーブルに点々と跳ねる。
「もういい。寝る」
 それだけ言うと美穂は布巾で零れた水滴を拭き取り、飲みかけの缶をシンクに流して洋平に背を向け、寝室に向かった。
「おやすみ」
 洋平はその後ろ姿に声をかけたが、美穂には届かない。
 鉄鍋に残った冷めた白菜シュウマイと鍋底に敷いていたもやしを箸でかき集めいっしょくたにして頬張り缶酎ハイで流し込むと、香織にLINEを送信した。
 洋平はふと『香織の知っている俺、美穂の知っている俺、どちらが嘘をついているのか?』そんなことを考えていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 仕事から帰ってきたばかりの藤枝に、子犬のように纏わりつくようにして幸子が機関銃さながらにまくし立てた。
「ねえねえ篤郎さん篤郎さん今日はね夢ちゃんを連れてドレスを買いに行ったのよ」
「ただいま。そうかい。いいものはあった?」
スーツを脱ぎハンガーにかけ、消臭剤をひと振りしてからクローゼットにしまう。朝、ソファーの上にそのままにして置いていた部屋着に着替え、幸子に向かい合って座った。
「夢ちゃんに似合う薄紅色のドレスなの」
 篤郎が幸子の手を握る。
「それは良かった。でも僕が仕事の時に一人で出かけるのは危ないから、やめてほしいんだよ」
「わたしこのままでは明日にでもお乳が出るようになるかもしれないわだってそれはなにも不思議なことではないでしょう乳母は出るからねお乳」
「……ああ、そうだ。なんら不思議なことじゃない」
「よかった」
 幸子が笑みをたたえ満足げに頷いた。
 カーテンが全開になったままの真っ暗な窓から、取り込むタイミングを逃し二日間干したままの洗濯物が篤郎の視界に入った。もうすっかり夜露で冷えきっているだろう。
「篤郎さんでもわたしお乳がほんとうに出たらどうしましょう夢ちゃんは飲めないのにそうしたらわたしどうすればいいのかしら」
 時々、解離した幸子と正気の幸子が入れ替わるので、篤郎はどちらの世界が虚構なのか混乱してしまう。
「そうなれば養子でももらって二人で育てようか」
 洗濯物を取り込むのを今日も諦めた篤郎は、いまにも泣き出しそうな幸子の顔にかかった髪の毛を除け、頭を優しく撫でながらいつまでも抱きしめていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 将太のクラスのママ友グループと、イタリアンが美味しいと評判のお店でオリーブとアンチョビのピッツアとジェノベーゼパスタのセットをランチに食べたばかりの美穂は家に帰った途端、パンを焼く準備にとりかかった。
 冷蔵庫からバターを室温に戻している間に、強力粉、砂糖、塩を秤で正確に量ってから、ふるいにかける。ボウルに入れた粉の中央に窪みを作ってドライイーストを置き、ぬるま湯を回し入れ、丁寧に混ぜ合わせていく。粉が自然とひとまとめになったら打ち粉をつけた台にあけ、美穂はいつものように力いっぱい捏ね始めた。
 慣れた手つきで、粉っぽさがなくなったパン生地を台に打ちつけていく。
 日常の生活で蓄積されていく疲労感や積み重なる鬱憤、そんなものから一時逃れるための女子会で、人の気持ちを土足で踏みつけるようなことを、なぜ赤の他人から言われなくてはならなかったのか。
 いーちゃんママが放った言葉が頭の中を駆け巡り、ドス黒い感情が沸々と湧き上がってくるのを美穂は感じていた。
 なにかしらのわだかまりや、正体不明の感情を生地に練り込み叩きつけると、少しは救われた気持ちになった。誰もいないキッチンに独り立ち、大袈裟な音をさせるたびに、心が軽くなったような気がして美穂は一心不乱になって、捏ねた。
 二度目の発酵を終え、将太の好きなウインナーとチーズを挟んで渦巻状に成形し膨らんだ生地をオーブンで焼いた。たちまち、いい匂いが玄関先にまで充満して家中に漂う。そうしていると匂いに誘われたかのように将太が小学校から帰ってくる。
「おかあさん、ただいま~」
「将太、おかえり。おやつあるよ。手洗いうがいしてからね」
「はーい」
 焼き立てのパンをおいしそうに頬張る将太のつやつやとしたほっぺたを眺めていた美穂の目からは、大粒の涙がこぼれた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 祐美が待ち合わせの百貨店中央口に来たのは、約束の時間から四十分以上が過ぎたあとだった。香織はいつも妹が遅刻してくるのがわかっているので、見積もって早めの時間設定で約束をかわし、やって来るであろう時間の少し前に何食わぬ顔をして待ち合わせ場所で待つことにしていた。
 誕生日が近い母に財布でも贈ろうと、平日が休みの祐美に合わせて、人もまばらなこの時間帯を選んだ。週末と比べると適度に空いていて、人混みが苦手な香織にも好都合だった。
 向こうから薄手のコートのポケットに手を突っ込んだまま、祐美が歩いてくる。
 遠目から見ても祐美は目立つ。今日は曇り空だというのに、テンプルにゴールドのブランドロゴが入ったサングラスにバッグ、明るめのヘアカラーを施したハーフアップの毛先はきっちりと巻かれており、色素沈着を起こした膝を丸出しにして派手な短いスカートにヒールを履いていた。
「このあと検査に行きたいからさっさと済ませて」
 香織の顔を見るなり挨拶もせず、だるそうな表情のまま言った。
「どこか悪いの?」
「性病検査だよ。保健所」
「……ね、いつまでそんな仕事続けるつもり?」
 祐美のカラーコンタクトを入れた眼がサングラスの奥で光った。
「うるさいなぁ。万年、人のモノ追っかけてるお花畑脳のあんたに言われたくないわ。そっちこそいい歳して恥ずかしくないの?」
「……」
 香織は、あっけらかんとした悪気のない祐美の言葉に対抗する悪意ある返答をぎりぎりのところで抑え込み、その言葉を飲み込んだ。
「あ、安心してよ。お姉ちゃんみたいに、母さんにチクったりしないから」
 香織と十一歳年の離れた妹の祐美は、昔から口が悪くても、お行儀がなってなくても、何故だか憎めない性格をしており、祖父母はもとより近所の誰からも可愛がられるような天真爛漫な女の子だった。同じ腹から生まれ、同じ釜の飯を食らい、なのにこうも違うのかと香織はそれが不思議でたまらない。
「財布にしようと思うのだけど、」
「ていうかさ、お金は半分出すから来年からお姉ちゃん一人で買いに来てよ」
「馬鹿ね。私から貰っても母さんは喜ばないのよ。一緒に住んでるんだから、祐美から渡してよ」
「えーめんどくさー」

 

 

「ねぇ、ね、このエプロン要らない?」
「どうして……」
「片付けしててね、奥に仕舞い込んでたみたい。昔、誰かから貰ったと思うんだけど……祐美は好みじゃないだろうしエプロンなんか使わないだろうしね。香織は専業主婦なんだから何枚あっても困らないでしょ。ね、きっと花柄似合うわよ」
 そう言うと母は手入れの行き届いたふっくらと柔らかな手先で、黄ばんだ包装紙と色褪せた赤いリボンを解き、ピンク地に小花とフリルがあしらったエプロンを香織の目の前に置いた。
「まるで粗品だね」
「え?」
 見覚えのあるエプロンに視線を落とし、香織は薄く笑った。
「そんなことないわよ。これフェイラーよ」
「母さん、要らないの?」
「ええ、たくさんあるのよ」
「……ちっとも覚えてないのね」
 手にしたエプロンは結婚して家を出る年の誕生日に、母をイメージして、何時間も売り場を往復して吟味を重ね、香織が奮発して贈ったものだった。

 

 

「お姉ちゃん……?」
 サングラスのまま覗き込む祐美のにやけた顔が近づいてきて、香織はハッと我に返った。
「ごめん。ぼっとしてた」
「そんな真剣に選ばなくても。あの人は無難な定番な感じでいーんだから」
 時間を気にしている祐美は、適当にそばにあった陳列棚から落ち着いた茶色の財布を指差した。
 香織が中を確認してみるとカードの仕切りもたくさんあって、小銭入れも出し入れしやすい、使い勝手のよさそうなデザインだった。
「そうね」
 近くにいた店員に声をかけ、祐美と折半して支払いを済ませると店員は売り場奥のレジに小走りで向かった。
 店員が戻ってくる間、香織はその場に立ったままで、手持ち無沙汰になった祐美はそこらじゅうの財布を手に取り、落ち着きのない様子で開けたり閉めたりを繰り返し、値札を見比べたりしていた。
 その横を、白髪交じりの髪の毛を腰まで伸ばした、老境に差しかかろうかというくらいの女性が藤の籠で出来た大きな乳母車を押しながら通り過ぎようとした。
 皺が深く刻まれ節くれ立った指先、くたびれた上着には点々と毛玉が目立ち、履き潰されたかかとの無い靴、およそ百貨店には不釣り合いな出で立ちで、他の客多数の視線も異様な雰囲気を醸し出しているその女へと注がれていた。通りをはさんだ化粧品売場のブースにいた接客中の美容部員までもが、そちらを気にしている。
 香織は興味が湧いて、ぶつぶつと乳母車の中に向かって話しかける女性のそばにそっと寄り、布で覆われたほろの中を覗き込んだ。指を吸い幽かに微笑んだままピクリとも動かない赤ん坊が横たわっている。透き通った肌の下には青い血管が白く薄い肌に浮き出ていて、閉じた目元には金色の睫毛が規則正しく、美しく生え揃っている。
 精巧に造られたビスクドールが、柔らかなおくるみの中で眠っていた。
「なにあれキモい」
 祐美の発言を香織が、しっ、と指を立てて遮った。
 ほどなくして、こちらに戻ってきた店員からお釣りと紙袋を受け取り、祐美とともに売り場を後にし駅の方向にふたりで歩いた。
「これ、母さんに渡しておいて」
 さっきあった奇妙な光景のことなどすっかり忘れた様子の祐美は二つ返事をして紙袋を受け取ると、人の波に溶け込んで街中に消えていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 塗ったばかりのグロスが取れないように、ペットボトルに差したストローでミネラルウォーターを飲んだ。
 ロッカー、冷蔵庫、最新号の雑誌や新聞類、それに洗面台、化粧台、Wi-Fi完備、分煙された個室ブースが並ぶ待機室では、雑誌や本を読んだり、メイク直しをしたり、お菓子を食べたり仮眠をとったり、音楽や映画を観たり、と勤務中の嬢が思い思いの時間を過ごしている。
 祐美は持参したタブレットで、一九六〇年代にチェコスロバキアで撮られた、とびきりクレイジーな女の子たちの映画を観ていた。ポップでキュート、かつ強烈にシュールな映画だ。もう何度も観た映画で、字幕だって祐美はひとつひとつ記憶していた。飽きないのかと初めて付き合った彼氏に呆れられるように訊かれたが、いまだに新鮮な気持ちでこの映画を観ている。祐美は問うた彼氏の顔も声も、もう鮮明には覚えていないのに、と少し寂しい気持ちになった。
朱璃じゅりさん、ちょっと」
 突然右耳のイヤフォンを黒服の三浦の手で外され、祐美は驚いて振り向いた。
「ちょっと。ここじゃなんだから、事務所で」
 黒と白を基調としたスタイリッシュな店の廊下を、他の客とバッティングしないようインカムを装着した三浦がタイミングを見計らって、従業員が使う事務室に祐美を誘導する。
 何か失敗でもしたのかと、祐美は身構える。
「お客様のアンケートで朱璃さんのネイルについてクレームがありました」
「え、今日まだ一本しか入ってないんだから、あーさっきの客ね」
 三浦が、祐美の指先をチェックする。
「なによ。お上品なフレンチだしストーンも付けてないし、身体傷つけた覚えもないんだけど」
「五ミリ以内ですよ。規則は規則なんで。今すぐ切るか、オフしてください」
「切ったらフレンチの形崩れるじゃん」
「売上に響きますよ」
 背の高い三浦は祐美を見下ろすようにして、爪切りとリムーバーを手渡した。
「わかったわかった。ネイル落として切ればいいんでしょ。ケチ。せっかく昨日塗ったばっかなのに」
 黒服の三浦にすごまれると、祐美は怖かった。三浦のはっきりとした年齢を祐美は知らなかったが、私服をちらっと見た感じで、多分同じくらいの年齢なのではないかと推測していた。
 三浦にこれ以上何を言っても駄目なのは、祐美が一番知っている。もちろん、甘えた声で言っても無駄。誰にでも分け隔てなく厳しい三浦は小姑のように煩いからだ。ただマナー違反したNG客にも同じように厳しいので、結果的に嬢は守られるため、嬢からの信頼は厚かった。また自分自身にも厳しく仕事もきっちりとこなすため、店でもそれなりのポジションについてリーダーとして店を仕切っている。嬢たちの間でも、新規店舗を任されるのではないかと、ささやかに噂が流れていた。
 三浦の目の前で、ネイルをリムーバーで落とし、爪切りで短く整え、軽くやすりをかけた。
「これでいいっしょ」
「朱璃さん、バカでしょ。切ってから落とした方が楽じゃないですか?」
 そう言って三浦は破顔した。
 客からなめられるから、とサイドの髪の毛を刈り上げオールバックスタイルで流し強面こわもてを演出している三浦がたまに年相応に無邪気な表情で笑うので、祐美は見てはいけないものを見た気分になって、思わず顔を背けた。
「どーせバカですよ。悪かったわね」
「あはは。そのくらいの方が愛嬌あっていいですよ」
「じゃ、落としてから切って正解だったじゃん」
 祐美は照れ隠しに、ふくれっ面をしてみせた。
「この後、十六時三〇分に竹田様より予約受けましたので朱璃さんお願いします。マットあり、コスで足コキ希望です」
 そう言って、二本目のプレイで使うリネン類を三浦が祐美に手渡した。
「ふぁーい」
 祐美は素っ気のない飾らない指先で三浦にひらひらと手を振って、準備するために個室へ向かった。

 胸元を強調するように身体の曲線に沿った白いシャツ。黒サテンのリボンを結び、紫×黒のブラジャーをつけ、黒地にゴールドのラインが入った縦縞のタイトなミニスカート、黒縁の伊達眼鏡、スリットから覗く脚にはガーターストッキングを履く。
 ゆるくウェーブのついている毛髪を手ぐしでまとめてから、ねじり上げてUピンで固定する。
 予約されたお客様のご希望通り「キャリアウーマン風」の朱璃がベッド脇の鏡に映っていた。
 さっき見ていた映画の中の女の子みたいに、綺麗、それに可愛い。きらきらしてる。
 祐美は誰もいない部屋で、鏡に向かってポージングしてみせた。

 

 

 洗体してからマットを使って一通りのプレイを滞りなく済ませ、ブラジャー、ガーターストッキングとショーツを再び穿いて、リクエストされていたプレイに移ろうと竹田をベッドに誘う。
「ぼ、僕はそのムレッムレのパンストを穿いたその足でムスコ擦って欲しいんで、パンストオプション追加にしたんですよう! フィニッシュはそれで!」
「そうなんですね。じゃ、朱璃がんばるね」
 祐美は意識して口角を吊り上げると筋肉が強張ってアヒル口になってしまったので、慌てて笑顔を作り直した。
「あぁ、好い足だこの足は。特にこの外反母趾……はあぁん…んくっ」
 左足の親指と人差し指の間に竹田の陰茎を挟み、右足で睾丸に刺激を与えていく。
 真正面に向かい合った射精寸前の、間の抜けた表情の竹田が脚を撫でまわしながら舐めるので、ストッキングが唾液とカウパー腺液にまみれ、黒いストッキングはてらてらと光った。
「……朱璃、パンティーずらして僕に全部見せて」
 竹田に言われた通りにして、根元から扱きあげる。
「ぁふんっ」
 あっけなく果てた竹田をアフターシャワーに促し、祐美はくだらない世間話を交えながら、丁寧に洗体した。
 時間枠いっぱいまでがっつくように身体を触ろうとする竹田の手を、上手に避けて対応する。
 竹田は避けられていることなど、微塵にも気付かない。
「ねえ、朱璃、僕とデートしてくれなぁい?」
「値段にもよりますね」
「は? デートなんだから払うわけないだろ」
 竹田の特徴のある語尾が下がった猫撫で声が、別人のように低く唸りをあげる。
「じゃ、ご希望に添えず申し訳ありませんが無理ですね」
「いくらなら本番やるんだよッ」
 竹田が怒鳴るたびに、口から唾が飛んだ。
「本番禁止なのはスタッフから入店前に説明があったと思いますけど」
「だっから店外だって言ってんだろッ! 金金金って、このヤリマンくそビッチが」
 態度が豹変した竹田を呆れた目でみつめ、祐美は躊躇うことなく個室内に設置されたボタンを押し、内線に繋がるコールを鳴らした。
「あんたね! 誰にも相手にされないから金払ってヤリマンにチンポ擦ってもらってんでしょーが!」
 竹田に負けない声で祐美が怒鳴った。
 自分の中にある怒りが急激に昂ぶるのを、祐美は感じる。
 まるで血液が煮え滾ったかのようで、抑えようと頭ではわかっていたのに、冷静にはなれなかった。
 駆けつけた三浦が竹田と祐美の間に割って入り、今にも拳を振りかざし殴りかからんとする竹田を制止する。
「竹田様、申し訳ありませんが、今後は当店のご利用をお控えください」
「違う嬢ならいいじゃないか……!」
「もう竹田様にご紹介できる女の子は、当店にございません」
 みるみるうちに竹田の顔が紅潮してきた。
「あっそ。もう頼まれても来るかよッ、こんな店」
 吐き捨てるように言った竹田に向かって、三浦が睨みを効かせると、急に大人しくなって、縮みあがった陰嚢や身体をそそくさと拭き、急いで下着を身に着け、帰り支度を始めた。
 個室から竹田の姿が出るのを確認してから三浦が祐美に声をかける。
「まず、シャワー浴びてきてください。もう今日は上りでもいいですよ。調整かけますから」
 はっはっはっと短く肩で息をする祐美に、三浦がバスローブをかけ手を添えた。
 祐美は自分の指先が内側に巻くように硬直してくるのを感じる。
「大丈夫ですから、落ち着いて。ゆっくり深呼吸してください、朱璃さん。口許を両手で覆って呼吸すると楽になります。過呼吸です。」
 三浦が言った通りに、動かない手をこじ開け、口許を覆った。
 しばらくすると祐美の呼吸は緩やかになり、上下していた肩も落ち着きを取り戻した。
「情けな」
 祐美の口からは弱々しい声が漏れた。
 浴槽からの湯気で曇りかけた浴室の鏡に、乱れてボサボサの毛髪、ウォータープルーフのマスカラは落ちて片目だけ目元がパンダ目なってしまった祐美がぼんやりと映っている。
 気まずそうな三浦が鏡の視線から逃れるように、その目線を外した。
 鏡に映ったのは、紛れもなく祐美そのものだった。
 なんて滑稽なんだろう、と鏡に映る自分の姿が可笑しくて、思わず吹き出しそうなる。
 やっぱり夢なんてみるもんじゃない。
 あっけなく醒めるものだと祐美は改めて強く思った。理不尽なことや、厭なことがあった日はいつもより贅沢をして美味しいものを食べると決めている。帰り道に肝吸い付きの特上の鰻でも食べようと、祐美は心の中で考えていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 もう、何頭目の白鯨が目の前を横切っただろう。
 氷が溶け珈琲は二層になり、区分する。
 テラスからの陽射しもいつしか傾きはじめて、冴えた青から物憂げな橙色へ、グラデーションの空が目の前に広がっている。
 読書をしていた若い男も、談笑に興じていた老人のグループも疾うにいなくなり、清掃係の従業員が空いたテーブルを拭いたり、誰かがこぼして出来たタイルの汚れをモップで磨いたりしている。
 がら ん と空いたテーブル席には、適度な距離を保ちつつ、タイミングを逃して遅めの食事をとる家族や、パンケーキを半分こで分け合うカップルがいた。窓際の目立たない席では、音楽を聴きながら勉強に勤しむ学生の姿もあった。
 あんなに過密で酸素の薄かったフードコートは、静けさを取り戻し、穏やかな凪いだ海の中を思わせた。
 あたしは身体が冷えてきたので、書いていた手を止めてカーディガンを羽織る。
 そろそろ、ちょっと休憩しよう。お腹も減ってきたから、ついでに甘い物でも食べようかな。
 鞄の中の財布を握って、温かい珈琲とチョコクリームがたっぷり詰まったコロネを買って、席に戻った。
 そういえば、先々月に組まれたインタビューの記事が載った文芸誌が出版社から送られてきていて、郵便受けから取ったまま鞄に入れていたことに気がついた。
 湯気が細く立ち上るカップから冷えた身体に染み入ってくる珈琲を一口飲み、封を破いて雑誌の頁をぱらぱらとめくる。
 対談に使われた写真には、あたしに在るはずの雀斑そばかすがなかった。どうやら修正されているようだ。
 あたしはちょっとだけ苦笑する。記事を読むと「あたし」は「私」に変換されていて、まるで、他人が作ったあたし、みたいだった。

 

 突然ざわざわと空気の動く気配がして、誰かの悲鳴が聞こえた。
 ひとつの悲鳴が、連鎖しては重なり、伝播する。
 後方を振り返ると、一人の男が腹部から血を流して床にうずくまっている。よくよく見ると、刃渡り三十センチはありそうな柳葉包丁が男の左脇腹に刺さっていた。
 周りには散乱して転がったタコ焼き。床に広がったソースの跡。落ちた衝撃で無惨にも中身の蛸が飛び出している。
 呻き声をあげて伏したその男を凝視したまま、対峙する女の手は小刻みに震えていた。
 女の細い指先はぬるぬるとした返り血を浴び、ぬめぬめと濡れている。
 辺り一帯に食べ物の匂いと混じり、生臭い鉄錆の匂いが立ち込めた。
「やっと手に入れたわ」
 その一部始終を見ていた通行人たちが蜘蛛の子を散らしたように、一斉に逃げ惑う。
「あなた! あなた、しっかりして! 誰か、誰か! 救急車お願いします……!」
 巻いていた自分のストールを外し、刺さったままの包丁のぐるりに巻き、必死に両手で押さえている。みるみる水色のストールが血で染まり、磨かれたタイルの床に次々と血痕を散らした。
 傍らに、男の子が空っぽのトレーを持ったまま真っ青な顔をして立ち尽くしている。
「おとうさん、おかあさん」

 一瞬にして凍った。
 穏やかな海面が、瞬くまにして。
 薄氷の中に閉じ込められた燃えるような朱色の枯葉に、あたしには視えた。

 

 

                     (了)

 

 

あたしに温度をくれた人に捧ぐ
泡姫 にこら

 

 

2019年11月12日公開

© 2019 七曲カドニウム

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