ダコタハウスには今日も金持ちが住んでいた。1階から10階まで、例外なく。そのため、どの階の住人の話をしても良いのだが、時刻は午前2時、健康に気を遣う実業家、不動産王、オペラ歌手、謎の空手家といったセレブリティーは、レムとノンレムを切り替えながら朝日を待っていて、起きているのは3階の住人だけだった。レオナルドは重苦しい、時代がかったカーテンを開け放した窓から、セントラルパークウエストを走る、車の列を眺めていた。
「賭けてもいいよ。これから1時間以内にイエローキャブが5台つらなってやってくるって」
キャメロンはダブルベッドの上で、男にはまるで興味なさそうに、スマートフォンに指を這わせていた。読んでいたのは、マネージャーがSNS上に掲載された映画レヴューをまとめてくれたメールだった。その長いテキストをいくらスクロールしても、出てくるのは当たり障りのない賛辞ばかりだった。
「ふうん。それでタクシーがどうなったのかしら?」
「おお、ディア」
レオナルドはベッドに沈みこむパートナーを見た。より厳密に言えば、大量の金をつぎこんだおかげで、セルライトもなく真っ白になった脚を見ていた。あれをキープするために、と彼は思う。どれだけのベンジャミン・フランクリンが犠牲になったのだろう?
「タクシーはどうもなりゃしないさ。大事なのは、色、色なんだよ」
「あらそう。それで、あなたの予言があたるとどうなるわけ?」
キャメロンが脚を組むと、オフホワイトのシーツのこすれる音がかすかにした。彼は質問に答えなかった。噛みあわない会話は彼女の意図的な策略であり、要はふざけているのだった。部屋の内装は以前の居住者の趣味を引き継いだゴシック様式をベースにしたものだが、そのベッドだけはむだな飾りのない、土台の黒い、モダンなものだった。デザイン料と材料費込みで、12万ドルというボッタクリプライス。レオナルド・キャメロン夫妻にとってはそれも端た金だった。
むしろ統一性や美観の問題で、キャメロンはしばしばこのベッドの場違いで余所者的な愚かしさを非難していた。彼女いわく、デリカテッセンを、シャネルの5番を着て練り歩くようなものだった。
彼女がまたスマートフォンに目を落としたのを見計らって、レオナルドは口を開いた。
「黄色っていうのはね、ハニー。チャイナでは幸福をもたらす色なんだよ」
「つづけて。私、とっても興味があるわ」
レオナルドはスツールをベッドに寄せて座った。
「黄色は皇帝が身につけるもので、富や権力の象徴だったんだ。それが今でも」
「ちょっと待って。私の有能な秘書はこう言っているわ。『……というのは昔のことで、現在はポルノみたいな下品な意味のある色である』ですってよ」
「ただ調べただけじゃないか」
「あなたに聞くよりはずっとはやいんだもの」
キャメロンはシーツをたぐりよせ、体に巻きつけた。タンクトップとショートパンツ、そこからはみ出した地肌は、それによって全て隠れた。
「でも、事情はどこも同じよね。こっちだって、イエローペーパーとかいうし」
「君はタクシーまでわいせつだと言うのかい?」
「いいえ。面白いなって思っただけ。中国人は反転させるの好きみたいじゃないの。だってほら、福をさかさまに飾るなんて、あれじゃアンハピネスになっちゃいそうでしょ?」
「あれはね、中国語の地口がわからないと理解できないんだよ」
「ジグチ?」
「地口っていうのは……」
「あー、はいはい。ちょっと私、ノドかわいてきちゃった。ブルックリンとってこよっと」
さっと飛び出したキャメロンはキッチンに消える前に、こうつけ加えた。お友達に電話もしたいから、それまでにプレゼンテーションの準備しといてね。3分位内のやつでおねがい。
レオナルドはホテルのスタッフのように、ベッドの乱れを直しはじめた。お友達に電話、ね。キャメロン側の枕を持ち上げると、新聞が2部、乳歯のように置かれていた。ひとつは旅先のニースで彼が読めもしないのに買ったル・モンド紙。そしてそれに挟まれてもうひとつ、読みたくもないのに買ってしまったイギリスのザ・サン紙だった。ル・モンドをゴミ箱に収納すると、レオナルドはザ・サンを片手にスツールに戻り、紙をめくった。
今年の上半期は彼にとって災難続きだった。神様が特注で、自分にだけ黙示録を用意してくれたんじゃないかと恨みたくなるくらい、ひどかった。ニューイヤーのカウントダウン直前に泥酔して正体をなくしたり、さらに同じ1月には出演予定だった映画がボツになった。2月は、親友のアーノルド・スタローンが万引きを婦人服売り場ではたらき逮捕、保釈金を支払わされることになった。ほんの25万ドルだが。パパラッチのBMWと自身のラングラーが接触事故を起こした3月、父親がスターバックスでジジイに局部を触られた4月。
そして5月にこれがあったんだと、レオナルドはザ・サンの2面に載った、キャメロンと彼女の肩をなれなれしく抱くグライムMC(「ヒップホップって言えよ!」)、ニック・ラスカルを苦々しく見つめた。見出しはシンプルに『婚外乱交』。どこぞのクラブで楽しくハメを外していたところを、キャミーはパチリとやられてしまったわけだ。
『彼女の目はムラムラして光っていた。男のほうも腰が落ち着かず、クラブにいる間中、ダンスと称して発情していた。それはほとんど──』
彼はくしゃくしゃに丸めてこれも収納した。
ザ・サンから遅れて、アメリカでもこの話を取り上げはじめた。高級新聞からタブロイド雑誌まで、それぞれのイメージに沿って、上品な、あるいは下品な文体で同じ醜聞を書き分けていたが、結論はおしなべて一致していた。
ニューヨークタイムス「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
ウォールストリートジャーナル「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
ニューヨークポスト「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
デイリーニュース「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
「まったくなあ、うちのハニーときたら、ガードが甘い!」
彼は立ち上がり、マントルピースの前をうろつく。そこには夫婦の写真が何枚も置いてあった。そのうちの一枚、結婚5年目(つまり去年)の記念写真のフォトフレームにはヒビが入っていた。
「僕の火遊びは2人で終わったっていうのに、むこうはもう何人目なんだ?」
4人目だった。それでもレオナルドがキャメロンを許す、というより態度保留にしていたのは、彼女が不倫するたびに、彼は好きなヘリや別荘を買ったり、自分の性の前科をチャラにしてもらっていたからだ。ベッドも戦利品のひとつだった。ニューヨーカーは、この夫婦がダコタに入居した時、『アイツら、どんなマジックを使ったんだ?』と、こぞって鼻で笑ったものだった。潔癖な役員会が、素行の悪い連中を格式あるダコタに受け入れるなど、信じられなかったのだ。
しかし、この二人を単なるヤリマン・ヤリチンと呼んでは、いくらなんでも不当評価であろう。
レオナルド・デップが映画俳優としての第一歩を踏み出したのは、ニューヨーク市立大学在学時代になんとなく受けたオーディションでのある出来事だった。『お前はグッドルッキングだから』と友人にのせられて、No.7のワッペンをつけた彼は、気鋭の若手監督の前で、痔に苦しみながらセダンに給油する童貞のチンピラ役を演じた。とりあえず上半身裸になって「ウッ」と言いながら歩いていたら、なぜか合格になった。彼はルックスのおかげだと思っていたが、当の監督は顔ではなく、幼少時代、いとこに枝で切られたさいにできた、胸の傷に魅せられていたのだった。
主役の座を勝ち取ったレオは、初主演作『Young Yakuza falls in first love─The ABC Song』(邦題『初恋ヤクザ いろは歌』)で、ジャパニーズギャングに弟子入りしたアメリカ青年の繊細な心情をそこそこ表現した。だが、彼を有名にしたのは、同じ監督がメガホンをとった3作目の映画『Harakiri is the honorable play』(邦題『ハラキリは栄えある芝居』)で、エド時代にタイムスリップしたスポーツ青年ジャックが、ショーグンにたてつくパルチザンに加勢して、死地におもむくというストーリーだった。クライマックスの突撃シーンにおいて、ジャックは鎧を外して胸を露出、特殊メイクで4倍の長さになった古傷を幕府方のサムライに見せつけて言い放ったセリフ、「ムッカーイキッズーハ、ブッシーノホマレィ!」は名言として、各局のTV番組で散々パロディとして消費された。こうしてレオナルド・デップの名は世界に広まり、一流スターの仲間入りをし、今に至っている。
一方、レオナルドとは共演を機に結婚したキャメロン・ゼタ・ジョーンズは、夫よりもキャリアのスタートが早く、ティーンエイジャーの頃に、すでに映画のヒロインとして抜擢されていた。B級低予算パニックホラー、『恐怖! 逆むけコウモリ』は生体兵器の実験により上皮を全て裏返しにされた巨大コウモリが、オハイオ州を襲うという筋書きで、興行収入は振るわなかった。しかしその後、キャメロンのあざとい演技と豊満な肉体、チープな特撮コウモリのくだらなさが不思議なバカバカしさを生み出し、カルト的な人気を得た。以降、メジャー作からのオファーもあり、地歩を確立。1ヶ月前には、性同一性障害の女性を描いた『私はセニョール/セニョリータ』で監督デビューを果たした。もちろん往年のファンへのサービスとして主人公の部屋に、自分をスターダムへと押し上げてくれた逆むけコウモリのぬいぐるみを忘れずに置いた。
ふかふかのビロードクッションにソファ。それらがなぜ心地よいかと言えば、目ん玉が落っこちるほど高いからだ(ちなみにレオナルドは両方ともブラックカードの一括払いで購入させられた)。レオは身をうずめながら、手に持った写真立てに目をやった。夫婦の履歴をさかのぼっていた間、彼は無意識にマントルピースに置いてあった写真から一枚を選び、吸いよせられるようにここへ来ていた。それは、二人が結婚式の時にキスした瞬間を捉えたものだった。
「ああ、ハニー」とレオはつぶやく。「このなかから君を直接ひっぱりだしたいよ。この時の君は、爪に筋なんて入っていなかったし、胸もほどほどの大きさだったのに!」
それを言えば彼のほうも、シミがぽつぽつ浮き出していたし、爪の伸びも悪くなっていた。さらに、これはどこにもリークされていない情報なのだが、偏平足にもなっていた。レオナルドは裸足を見せる映画をすべて断っていた。
「ああ、キャミ―」彼は写真にキスをしたが、拡大された写真のため、自分にも熱い唇を押しつけた。「ああ、もうちょっとマシだったキャミー……」
「Nooooooooooo!」
キッチンから改善の余地のあるキャメロンが飛び出してきた。
「どうした!」
「ゴ、ゴ、ゴ」
「ゴ?」
「ゴキブリ!」
キャメロンの水増しした胸は夫との共同作業により、つぶれ、横方向に変形した。
「ゴキブリって?」
彼女はじれったそうに叫んだ。
「Cockroach, incoming!」
「ああ、そう言ってくれないとわからないよ」
彼らはまさか害虫に侵入されるとは思っていなかったので、殺虫剤を備えつけていなかった。レオナルドはアラビア風にとがったスリッパを脱いで、キッチンの様子をうかがった。どこにもいないと思ったら、後ろで叫び声。振り向くとベッドには大きな雪山ができており、そこをゴキブリが登っていた。
「Get away! Get away!」
山鳴りがした。
彼が近づくと、ゴキブリは玄関へとつづく隣の部屋へ、飛翔と早歩きをおりまぜて逃げた。
「扉から出て行くなんて、最近の虫は親のしつけがちゃんとなっちゃいるな」
そして後を追ったレオはそこで、壁に貼りつき、じっとしているゴキブリと対峙する。金持ちになってからは、こいつらと会うこともなくなっていたな。最後に会ったのはジュニアハイスクールの時、家族旅行で泊まったホテルでだった。今日と同じく、そこでもレオはこうして数分間、出方を見るために、やつら種族の1匹の背中を凝視していた。
こいつらも何か考えているのだろうか?
キャメロンの声がかすかに聞こえる。
「やったのー?」
「ノット、イェット」
返答は金切り声になっていた。
「Kill the fucking bug!」
「主よ、0.21インチの霊魂を無慈悲にあやめるアメリカ国籍の仔羊をお赦しください」
レオは十字を切り、スリッパを振りおろした。それはちょうど、昨年公開された完全オリジナルヒーロー映画『マッスル・ジャンボ』において、彼扮するマッスル・ジャンボがくりだす1メガトン級のマッスルパンチと、動作の上では完全に瓜二つだった。手加減しなかったわりに、壁紙は汚れておらず、虫もきれいな体のまま逝っていた。レオは右足の2本目をつまみ、近場のゴミ箱(モンドもサンもない方)に捨て、左手をチェストのランチョンマットで拭いてから、キャメロンを慰めに行った。
ところが、彼女はソファに移動して、何かを食べている最中だった。シーツはまたしわくちゃに戻っているし、アンティークの鳩時計が2時37分に鳴きだすしで、何ひとつ彼を歓迎してくれるものはなかった。爽快なスラップサウンドで事の成否を察したのだろうが、我が伴侶ながら切り替えがはやいと彼は思った。
「それはプロセスチーズ? それともヨーグルト?」
今度はキャメロンが黙る番だった。さっき無視したのはレオナルドからだったので、やり返すのは当然、というのが、スイートハートのロジックらしい。しかしこのゲーム、ルールがあれば救われるのだが、ルールは日々流動的かつ即座に変わり得る。性質上、遵守はできなかった。
キャミーは口角についた白いかけらを舌でからめとった。そのホットな無脊椎動物が巣に帰ると、彼女は入り口を固く閉ざした。すっぴんのはずだが、やけに赤い。ふと見上げた月がこの色だったらぎょっとするような、そんな赤。キャメロンはパックの中の白い固形物を残らずすくいとると、スプーンで向こうの部屋を指し、それから親指を下にやった。
「やつなら天国に行ったよ」
「天国に行かせないでよ」彼女がやっと口をきいた。「私が死んで、天国で鉢合わせしたらと思うと……あー、ゾクゾクする!」
「ゴキブリの大半は罪のない連中さ。そんなやつらが、ここニューヨークで年間どれくらい殺されてるか、君にわかるかい? 何千何万ってレベルは越えてるだろう」
「何が言いたいの、ダーリン」
「つまりね、天国はゴキブリでいっぱいだってことさ……おっと!」
レオはスプーンを紙一重でかわした。プラスチックだったから当たってもケガはしなかっただろう。しかし、この暴力に早々と訴えてしまうキャメロンの血の気の多さはいただけなかった。彼女もゆくゆくは反戦系の重厚な社会派映画を撮って糊口をしのぐ日が来るかもしれない。あまりキレやすいキャラが認知されるとプロモーションにも響く。
「いちおう説明するけど、スプーンは食器であって武器ではない。お忘れなく」
「Go to hell!」
「It´s my pleasure」
地獄には人がたくさんいるだろう。そして天国は動物ばかり。こりゃちょっと異教徒的だが、コメディ系のシナリオとしては面白そうだ。彼はこのネタをストックしておいた。
「はあ、何だかあなたといると、腸の使いみちがなくなりそうよ」
「それはゲロの婉曲表現なのかな、ハニー?」
「あれだけcockroachの話をされたら、吐きたくもなるでしょうよ」キャメロンは骨が許すかぎり、顔を上にあげた。「ステイバック……ステイバック……」
彼女の胃の内容物が知りたい彼は、彼女の手をはなれたパックを取り、フタを確かめた。ラベルには『ODAWARA TOFU』の文字があり、横には麦わら帽子をかぶったアジア人がいて、それ以外の余白には説明がびっしりと書きこまれていた。要約すると、日系3世のマイケル=デンゾー・オダワラは、祖父の故小田原伝三がトーフマイスターだったことを大叔母から聞いて一念発起、試行錯誤の末に15ドルもするブランドトーフの開発に成功したらしい。トーフっていうのはあれか。味のないチーズというか、甘くないプリンみたいなものか。レオは一度食べたことがあるが、バルサミコ酢をかけてどうにか完食できるような代物だったという記憶しかない。
「君がこんなに健康志向だったとはね。ビーフステーキとロブスターとビールが、キャメロン教のハラルフードだとばかり思っていたよ」
そう言って、レオナルドはパックを捨てに行った。デンゾートーフはいびつなサンに上手く乗った。
「認めたくないけど、私も大人だし、ちょっと毒も溜まってきたかなって」
「体を大事にすることはステキなことだし、ボクも尊重するよ。でも、月に、何回食べる予定なのかな?」
「20回」
「うん、そうか。あの固まらない生コンみたいなフードを、20回」
外では救急車が、死にかけた人間を送迎するためにサイレンを鳴らしながら通過していった。
「この近くみたいね」
「君もごやっかいにならないことを祈るよ」
「なんでそうなるのか、まったくわからないわ。私が病気にかかるリスクはどんどん減っていくのに」
レオナルドはベッドに座り、大きく足を振りあげながら、組んだ。
「オダワラトーフに月間300ドル、年間3600ドルつぎこむってことなんだよ? それだけの投資に見合う効果が出るなんて保証、本当にあるのかな。疑問だよ」
レオナルドは徒労になると知りつつ、シーツを指先で伸ばした。
「あら、ちゃーんとあるわよ」
彼女は権威あるその道の学者の論文を引用してみせた。彼は話の半分を聞き流したが、イソフラボンという栄養素が体にいいというのは理解できた。それが愛しのワイフの寿命を長くしてくれることも。
「どう?」キャミーはアラバスター色の歯を見せつけ、威嚇するように言った。
「すごいと思うよ」
「日本人は肉の代わりに、トーフを食べてるらしいわ」
「驚いたな……」
レオナルドは映画の宣伝で何度か来日経験はあったのだが、その時は無難にスシとラーメンしか口にしなかった。
「日本にはうまいものがいっぱいあるのに、わざわざあれでガマンするのか」
「きっとストイックなのよ」
「ストイックなワーカホリックの国。日本に対する見方が変わったよ。トーフがあるから、彼らは死なないんだね?」
「That´s right」
「ボクも食べようかな」
レオナルドは健康に興味はなかった。これは彼の性格に原因があるのではなく、単に、2019年公開予定の映画『I have lots of Foie Gras』のために太る必要があったのだった。それでもなおトーフにこだわるのは、彼女と盛り上がれる話題がひさびさに見つかり、嬉しかったからだ。
過去には若手女優ときわどいポイントまで行ったり、ダンサーとお互いに舌の形と温度を確かめあったりもした。でも、なんだかんだで、ボクは彼女が好きみたいだな(Maybe)。
キャメロンがいつの間にかへんてこなジェスチャーで、何かを伝えようとしていた。そこじゃよく見えないと言い、彼は彼の横に来るよう彼女を誘った。彼女は誘いにのり、ヒップを垂直に下ろして隣を占めた。体幹がしっかりしている彼女の背筋は、地下鉄のポールのようにまっすぐだった。
彼女のしつこいボディランゲージは、レオナルドにとってプログラミング言語より難解だった。手の動きからすると、キューブのようだが、それが何だというのだろう。発音を聞いても、momentとか、keen gushを言っていて、訳がわからなかった。
「ウェイト、ミセス・ジョーンズ。そのちょいちょい首をつっこんでくるモーメントとキーンガッシュってのは何語でしょう」
「英語じゃないのよ。モメンとキヌゴシよ」
「さしつかえなければご教授ください」
「モメンはコットンのようなトーフ、キヌゴシはシルクのようなトーフのことよ。体内の老廃物を排出してくれるのはシルキートーフなの」
「さっきのオダワラトーフは?」
「Kinugossi」
彼女のスマートフォンで画像を見せてもらったが、表面がツルツルしているのが、シルキートーフらしい。
「一緒にしか見えないよなあ」
「よく見てよ、ほら」
「ああ、ディア。ついに頭までトーフになったのかい?」
「失礼ね。どうせならPhycho-Misoが詰まってるって言ってほしいわ」
また変なワードが飛び出した。レオナルドは警戒しながら、それは何かと訊ねた。
「MisoはSoybean pasteのことなの。ミソスープに使うやつね。で。ここがすごいんだけど、日本人は脳を、ソイビーンペーストって呼ぶのよ。おかしいでしょ?」
「アメージング」
「その中でも一番高級なのがね、キョートのサイコミソなのよ。日本人からあなたはサイコミソが入っているのですかって訊かれたら、最大のほめ言葉なのよ」
「へえ……」
キョートのサイコパス野郎が作ったソイビーンペーストで思考するキャミー。Mamma Mia ! 頭が割れそうだ。
レオナルドはまちがっていた。トーフになっていたのは彼の方だった。
「レオナルド!」
シーツをひっかぶった彼は引きこもり、外界と断絶した。
「レオ──レオナルド──レオナルド・デップ──」
「シルキートーフで思い出したんだ」
「ワッツ?」
「あの白さ。あのつややかさ。想像してごらん。もしあれが、シルクワームの吐き出した糸だったら」
キャメロンが、乱暴に彼を揺すぶった。彼から見ると、薄い布越しから入りこむ光をさえぎり、彼女の肉のあちこちが圧迫してくる。
「また、虫の話なんかして!」
「想像してごらん。トーフをくずすと顔を出す、キャタピラーの姿を」
攻撃がやみ、人影が離れていった。感受性豊かなキャメロンにかかれば、暗示だけでカイコ摂取妄想を植えつけることくらい簡単なことだった。サナギを形成したレオナルドは、しかしこの戦いに勝者はいないと感じていた。キャミーはソイビーンの恩恵に与れず、自分は大都会のダブルベッドのまんなかでシングルライフ。無益な争い。子供じみた反発から生じた、ささいなボタンのかけ違い。マスコミやパパラッチの言うことはたいていウソッパチだ。けど、ボクらがダコタにふさわしくないってニュース。あれは本当だ。
彼の物思いは気弱な方向に傾いていった。
彼がツテを使い、ダメもとで入居申請を役員会に提出したのが一昨年のこと。その返事は、4日後に届き、怪しい男たちになかば攫われるように車に押しこまれ、目隠しをされた。
次に光をあびたのは、レンガの壁に囲まれた小部屋においてだった。彼の正面にいた、ヴェネチアンマスクをかぶった男はまず非礼を詫び、審査の性質上これは避けて通れないプロセスなのだと言った。
「ずいぶん手荒な真似をしますね。こんな体でも、年に数千万ドルは稼いでいるんですよ」
「私もだよ。もっとも、最近は少しばかり落ちてしまったが」
男は、自分は10階の住人だと言った。たしかあそこは空室のはずだけど、と彼が訝っていると男は答えた。物事は文字通りに受け取ってはならない、裏を見るのだ、と。
「……ところで、これは面接、なんですよね? お噂では、入居者の方が投票で決めると聞いていたのですが」
「私は一人でもあるし、全ダコタ居住者でもある」
「ああ、チェアーマンということですか」
気まずい沈黙がおとずれた。
「Excuse me, sir? 結局ボクたちは合格なんでしょうか」
「ミスター・デップ。ここがどこだかわかるかな」
「いや、見当もつきません」
「ダコタのundergroundだ」
「ダコタに地下世界。初耳ですね」
「地下の存在を知っているのはごく一握りの人間のみ。この意味はもうおわかりかと思う」
手入れされた優美な仕草で、引き出しをあけ、中から取り出した契約書と万年筆を置いた。
「ありがとうございます。えー、チェアーマンさん」
レオは相手の気が変わらないうちにと、サインしようとしたが、男に止められた。
「君たち夫婦が選ばれたのは、異例中の異例の事態だ。普段は不干渉を貫く古参連中ですら品性が著しく欠落していると言って反対する者もいた。だが私としては、もはや誰でもいい気がしてね。お高くとまってはいても、下劣な観光客が連日押し寄せてくるのだから、我々は動物園の動物みたいなものだ。どのみちこんなところで気品を保つなど無理なのだ。それならせめて、内部から崩壊するさまを観察したいという陰気な欲望が私のこころにわきおこった──」
レオナルドはサインした喜びでいっぱいになり、男の話もいわば暗い性格からくる反語的な表現で、「ダコタにふさわしい人間になれ」というエールだと受け取っていた。気がつくと、彼はセントラルパークのザ・レイクのほとりで、契約書を握っていたのだった。
その時、何が悲しかったかと言えば、昼間なのに道ゆく人の誰ひとりとして彼にサインを求めてこなかったことだ。その経験のおかげか、ダコタに住み始めてから映画賞を1つもらえた。
「チェアーマンのおかげかもな。野良犬みたいに捨てられたから、ボクはハングリーマインドが刺激されたのかも」
自信を回復したレオナルドは、シーツから顔の上半分を出した。いないようだ。たぶん、トイレに駆けこんだのだろうが、長すぎる気がする。鳩時計は3時2分を指していた。彼は今日デイオフだったが、キャサリンはTVの打ち合わせがスケジュールに組まれていた。彼が心配になってベッドから降りようとすると、背後から抱きつかれた。
「ねえ、後ろにいるの、私だと思う?」
「いや、スカーレット・ワトソンだろうね」
「私しかいないでしょ、そうでしょ」
背中にグリグリ固いものが押しつけられる。彼は胸部腹部よりもやはり背部は感度が鈍いのだなと再確認した。
「この世に確実なものなんてあるのだろうか。見えているこの部屋、〈私〉と名乗るキャミーと思われる女性。実感はある。そこにいることも感じる。でも、もしこれがbutterflyが見ている夢にすぎないとしたら。それもこれも、みんな幻だとしたら?」
「もう昆虫博士になっちゃえばいいんじゃないかしら。シルクワームが羽化してこんどはバタフライなんて」
彼の耳に彼女の息がかかる。ため息にしては温かく、耳殻全体を包みこむようだった。
「シルクワームはmothになるんだよ、butterflyじゃなくてね」
「どっちにしろ気持ち悪いから変わらないわ」
「キャメロン。虫が自分で、自分が虫かもって考えるのは、君の恐怖症克服にもなるんだ」
「それ、あなたのアイディア?」
「いや、チャイナのZhuangziだよ」
「文句言ってくる」
「もう死んでるよ」
ようやく解放された彼は、ベッドで一回転した。新しい襞が形成され、彼と彼女の領地が再設定される。大きな襞は山脈であり、小さな襞は河である。残りのくっきりした、無数にある折り目は、アフリカの国境線のように無理やり引かれたもので、帝国主義時代の悪しき遺風を受け継いでいた。
キャメロンは手近の襞はいとおしげになでたり、平面に均そうとしていた。
「さっきね、出してきたの。便器に」
「トーフを?」
彼女は首を振った。
「なにもかもを。水が全てを持ち去ってくれたわ。私、あなたに言えなかった。豊胸ネタでいじられるのがいやだってこと」
意外な告白を聞かされた彼は、これはシリアストーンだと察して、東洋の正座をした。
キャメロンは続ける。「レオ、あなたがあの大根女優と火遊びしてたとき──」
「それはエマのことかな?」
「──そうよ。私、誓ったわ。肉体改造して報復してやるってね。若い女は威圧すべきよ」
「だからFになったのか。でも待てよ。ボクがエマと、レールから外れたのと、君がaugmentationしたのは前後が逆だった気がするんだけど」
彼女は隠し通しているつもりだったが、彼はある筋から、当時ジム・ハリスと良い仲だったことはちゃんとつかんでいた。
しかし、彼は無粋にもそれを指摘しようとはしなかった。キャメロンが身じろぎもせず、にらみつけてきたからではない。彼はときどき働く分別をとっさに発揮したのだ。
「このさい時系列を整理するのはよそう。夫婦にとって大事なのは事実の順番ではなく事実そのものだ」
「ああダーリン、マイラヴ……」
今日が始まって3時間ちょっと。またもや妻の胸に圧迫された。異例のハイペースだった。レオナルドはこのセクシャルなプレス行為を自発的に喜ばなければならない。
「ボクはここに誓う。もう不倫はしない。肩を抱くのもやめる。助手席は未来の子供と君のために空けておこう」
「録音していい、それ?」と言ってキャメロンは笑った。「じゃあ私もやめる。あのヒップホッパーにも飽きちゃったし」
「ヒップホップじゃなくて、グライムらしいよ」
「どう違うの?」
「Who knows?」
「レオ……」甘ったるい天然ものの声だった。「おしゃべりなんて、いつだってできるじゃない。終わりにしましょうよ」
「ああ、言葉は口から出るとは限らない」
しかし、この宣告はみごとに裏切られる。彼女は自らの言葉の奴隷になったことは一度もない。
レオナルドはコットン100%のシャツを脱ぎ、それから彼女のタンクトップを脱がせ始めた。ひとまわり小さいため、ホールドアップさせて上から強引に引き抜いた。右の乳房は左の乳房よりも若干落下速度が速かった。Amazingと簡潔に感想をもらした彼は、ズボンとパンツをかなぐり捨てて、キャメロンに熱のこもったhugをした。しかしこれは少々看過できない振るまいだった。その証拠に、彼女は胸で彼のアゴから喉仏にかけてを突いて抵抗したのだ。
レオナルドは血統的に無関係なのだが、フン族のように人馬一体で襲いかかるスタイル、これがパートナーの心に壁を作ってしまった。
地中海文化の信奉者である作者としては、ここで取るべき作戦はファランクスただ1つのみだ。盾でしっかりと防御し、隙間からチクチク攻める。ローマの知恵を活かさない手はない。
気をとりなおした2人は、今度はより融和に満ちた抱擁を交わす。シーツの畝は蹴られて形を崩し、衣擦れの音とともにベッドのあちこちで隆起と陥没が起きる。つぶされ、また生まれ、はげしく揉みしだかれる。線とシワの見分けはつかず、背中の2つある怪物の分泌液により、いたんだ繊維がふやける。
秩序の再構築。シーツがはがされ、マットレスが露出し、そして──
ここからはあなたの耳で、存分に味わってほしい。左右にしがみつく胎児たちは目が見えないが、自らのルーツ、そのよってきたるところの特定にはたゆまぬ情熱を注ぎ続けるのである。
赤子に合わせよう。赤子を基準として、この先の音波が規定される。
というのも読者よ、これは万人に開かれた物語なのだ。
〈SOUND ONLY〉
「ああ、いいわ、レオ……yes, yes」
「ここかな?」
「そうよ! いえ、ちがうわ」
「おっかしーなー。Weak pointじゃなかったっけ?」
「No」
「Here?」
「Close」
「じゃあ、ここだ」
「yes……?」
「えーと。うーん」
「じれったいわね。えいっ」
「おっと」
「Mwah, mwah」
「どこを攻めてるんだい?」
「当ててごらんなさい」
「じゃあ、神様にクイズ。キャミーはボクのどこをkissしているのでしょうか?」
「やめてよ、もう」
「ごめん、集中するよ」
「カモーン、ハンサムボーイ」
「Hell yeah !」
「ん……」
「きてる?」
「きてない」
「Oh, shit. Jesus Christ. Son of a bitch」
「ちゃんと言って」
「ああ、くそ。イエス・キリスト。売女の息子」
「グレート。そうよ、その調子。Yes, yes」
「下からかい。上からかい」
「お好きなように」
「Wow. じゃあ行くよ」
「あ、あ! あ、あ、あー!」
「Huh?」
「そこはなし」
「ちっともお好きにできないよ、レディー」
「とにかく、そこはまだダメ」
「仕方がない。他を当たろう」
「ん……」
「ん?」
「ん」
「ん、ん、ん。んんんんん」
「んん!」
「んー」
「ああ、イエス、イエス、そのまま」
「ハッ──ハッ──」
「え?」
「ハーッ、ハーッ、Achoo!」
「大丈夫?」
「大丈夫。君を置いてどこへ行ったりしないよ」
「なら続けて」
「おおせのままに」
「は! あ!」
「きてる?」
「きてない」
「オー、ディア」
「それがああなったら、あれがああなりそう」
「これがそこに」
「それがここに」
「よし……」
「フー、ハー」
「自然が呼んでいる」
「ちょっと!」
「I`m kidding」
「黙ってできないの?」
「そっちこそ、これで口をふさいでもいいんだけどね」
「そんな気分じゃない」
「心配しなくたって、ヒゲなんかはえないよ」
「スー、ハー」
「わかった。お互いだまってしよう」
「オーケー。ねえ、きてる?」
「きてる」
「きてる!」
「ん、ん、ん、ん」
「ん、イエス、yes、イエス、イエス」
「ふっ、ふっ、ふっ」
「そう、イエス。もっと、これが、あったら」
「ん。ん。ん」
「Yes, yes. もっと、うまかったら」
「はあっはあっはあっ」
「でも、いいの、イエス、イエス。なにもかも、飛ぶんだから……」
「限界だよ!」
「え! でも、いいの、それが、あなた。yes, yes, yes, yes!」
「キャミー!」
「
yes
」
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