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「屯田兵体操第一! ズンチャ、ズンチャ、ズンチャ、ズンチャ レペゼン北海 しっかしそれは 憧れなんかの数倍虚しく 果てない労働血と汗の 大地の叫び 血と汗の」
原田の屯田兵体操が、良くも悪くも踊られる昼下がり。あたしは群衆に紛れて、手拍子なんか打っている。
もはや屯田兵旋風とでも言えよう。下級生、とりわけ女子が、屯田兵体操を見物しに、うちのクラスに現れるようになった。これには昨日まで一緒にノリノリだった、 当クラス男子諸君も、複雑な表情。仕方なく付き合っている感が否めない妬き様である。残念したねえ。原田に持ってかれちゃいましたねえ。ははは。
原田は野球部で、見た目が巨人の槙原に似てるって評判だった。入学当初は「背後から槙原!」っていう、直角三角形の比率になぞらえたギャグが持ちネタで、これはまあ、極めて微妙な受けだったわけやけど、ヤー、よう出世しましたなァ。二年の二学期で花が咲きました。
内情、寝不足でうんともすんともいかん肌の調子に、学校くらい休んだろかい、って気概だったあたしだけど、六時にはもう勝手にパンを焼いて、サクサク齧っていた受験生の妹の顔を見て、しゃーなしに元気を出したので、とりあえず登校。「お姉ちゃんクマやっば」とか言われたので、「保恵チチなっ」といつもの貧乳いじりをかまして、闊達風味に玄関を飛び出す。
普段よりちょっと早めに家を出たので、奈津にラインで「先行ってらあ」と送信。常なら合流してる旧ドムドム前も、横目に潰れてることを再確認しただけで通り過ぎる。
極端なラッシュを経験したことはないけど、数本早い電車はスキスキチューチュートレインで快適だった。思い返せば一年の最初らへんは、これに乗っとったわけで。奈津とふたりで。そうもうと、二年なってダレたなあ、などと。まあ学校なんか早く行ったところで、なんもないんすけど。
ヤヤヤ、なんもないならまだ良しよ。早いと困ったこともある。
西辻殿下と同じタイミングで到着しちゃったのだ。あろうことか。
中百舌鳥って駅で高野線に乗り入れるんだけど、たぶんそっから一緒になっちゃったんだと。富士山頂ほど薄い記憶をたどると、確か殿下は十六ですぐに原付の免許を取って、陶器だか福田だかから、中百舌鳥まで原付に乗って来るはず。学校は原付登校禁止で、最寄りの三国ヶ丘周辺で制服のまま原付乗るとややこいから、しゃあなしに中百舌鳥から電車なんだとか。曖昧なアレだから、確かなアレではないけど。
で、殿下の存在にあたしが気付いたのは三国ヶ丘。前の車両から殿下が降りてて、あ、やっば、と思った次の瞬間に、殿下とばっちり目と目が。瞬間あたしは俯いて気付いてない演技するんやけど、これがめっちゃ大根。ヒャクパーばれとる。
後から思えば、なんえ、奴、シャレかましてきたわけやし、なんぼでも返し方あるやろ、とか思うけど、ほんの一瞬の内にあたし赤くなっちゃったもんで。これ以上にないくらい。これほんに黒ずむほどのマジの赤面でして。阪急マルーンでして。
以後、殿下がこっちを見とったんか、あるいは先に行ってもうたんか、もうわからんけど、もてる限りの低速歩行であたしはトイレに逃げ込む。ほいでまた、これ、トイレっていう残念さ。手だけ洗って、髪で拭く。スタイル直すニュアンスで。さして長くもない髪に指通しながら、西辻殿下の近くに寄るのはまっずいぜ、ジェットについてるレーダーでも仕入れようかしら。遺産で。えへへ。などと。アホか。
学校着いても、あー、殿下と顔合わせる可能性あんのだるいわー、とか思いながらそわそわ。ちょっとして奈津、「ちっす聖奈、早ええわなんでなん」と挨拶と質問を同時に口にしながら現れる。
「寝れんくてなァ、家おってもしゃーないし」
「うち、聖奈のラインの五分前に起きてさァ」
「やばいやん」
「絶対遅刻するー思て。朝シャンカットした。え、てか寝れんかったん?」
「いや、寝たよ。ちょっとは」
「寝たんやん」
「厳密にはね。あんま寝てへんっていう」
「嘘ですやん」
「や、嘘とかちゃうくて」
「嘘つかれてますやん、うち。朝っぱらから嘘つかれてますやん」
元気やなァ、こいつ。と、取り止めのない会話が続く。その間あたしは悩む。殿下の話をするかしないか。悩みに悩む。悩みながら、ある程度のプランが立つ。とりあえず、釣り針だけでも仕掛けてみよう、とあたし。
「そえば奈津さァ、坂木とかと仲ええやん」
「んー? まあ中学んとき塾一緒やったから? 最初の方は喋っとったけどー。今は全然やで」
「そうなん? でも今でもサッカー部とかと絡みあるんちゃうん?」
「昔ほどはないかなー。学校で会っても喋れへんし。だいたい顔と名前がわかるくらい。意外と美雪のほうが詳しい。最近の事情は」
おー、食った食った。
「へえ、意外やね」
「なんかね。聖奈、こういう話あんまり好きちゃうと思って、わざわざしてへんかったんやけど、須本先輩っていてるやん、頭良くてキリンに似てる人。あの人に告られたとか、告られてないけど誘われたとか」
「うせやん」
「噂やで? だいたい三人で喋ってても美雪そんな話一回もしてへんし、うちもそれとなく聞いたんやけど、美雪はそんなん全然ないとか言うし。でもサッカー部の話になったら、結構いろんなこと知ってんねんやん。誰が誰好き、みたいなん。でな。バリうっといねんけど、逆にうちも聞かれんねん。後輩の子とかに。美雪って須本先輩と付き合ってんの? とか。いや、うち知らんしなァ」
「後輩って、サッカー部の?」
「そう。西辻くんとか、山口くんとか」
あたしってやっぱ、会話のアレかも、天才かも、とか思う。殿下の名前を引き出すことに難なく成功です。探偵か、あるいはその類が天職かもしれん。
ちなみに美雪は須本先輩と付き合ってますよ。することもしてる。大きな森の小さなお家に案内してる。で、なぜか悩んでる。詳しくはウェブで。って丸投げはあかん。サクッと話せば、どうやらあたしのお父さんが死んだ時期と、自分の初体験が済んだ時期が同じだったことが気になるらしい。関係ないやんけー、てかそもそも、男と女のそれ、あたしはあんまり興味ない。本音を言えば詳細も知りたくない。ご自由にどうぞなのです。
「山口くんはわかるけど、西辻くんてどの子?」
ベロだけで笑っちゃうくらいしらこい質問。でも、沢口靖子と化したあたしは無量大数の女優度。ここ勝負でした。マジで。
「ほら、球技大会んとき喋った奴。爽やか系の」
セーーーーーーーフ。政府政府。違和感ナッシングのガバメント。
「原チャリの?」
「そう。福田か陶器かそのへんの」
「たまにダテメガネしてる?」
「え? してへん、はず。いや、せえへんやろ。見たことない」
あたしもない。だって、嘘間違いですし。
「あれ、ちゃう奴か」
「ちゃう奴や。西辻くんは、なんていうか、そういう小細工なしでいくタイプっしょ。普通にイケメン。一年ではモテてるっぽい」
「へえ、どいつやろ。でもモテとんや」
「うん。優しくて真面目って評判。頭もええねんて」
ったくよ。虚しくなるぜ。ここまで非の打ち所がないっすやん。なんであんな手紙を。
シャレならまあいいか、なんて思ってたあたしだけど、だんだん怖くなってくる。むしろシャレのほうがヤだ、とか思う。なんか彼の中に潜む、人からは窺い知ることのできない狂気っていうか、そういう人に限って、思い切るところは思い切るっちゅう、や、まだ生易しい。日常表面化しないけど、決定的に人間として壊れてる部分ってのがあって、普段はシャケとか鯖みたいな普通の顔なんだけど、それを発揮するときだけ、西辻の顔は超グロい深海魚みたいになるっていう、なんかそんなのを思っきり目の当たりにした気分。
正味、しっこが好きだろうがナニが好きだろうが、あたしとしては全然構わん。だけど、それを「くれ」って言えちゃうのは、絶対おかしい。ましてやラブレターの文末に書けちゃうってのは。健常ラインクロスっしょ。驕りがないから余計に気味が悪いわけ。俺普通です的な冷静さが異常なん。
自分で引き出しといてなんやねん、って感じやけど、バリきしょくなってきたから、話題変えたった。何話したかは覚えてない。西辻の話とは全然無関係だったのは確か。
てな回想の不愉快な胃のむかつきも、屯田兵体操でかき消しちゃおうって魂胆で今。きゃっきゃ言ってる後輩女子どもの甘ったるい汗の匂いなんぞが、妙に意識的。若いってええわァ、とババア目線のあたし。てか原田、モーションが昨日の四倍派手。気合いの入りがちゃいますわ。横の便乗パーカッション連中も少しでも可愛いのにアピっとこう的な、俺も俺もと負けじと動くっつーあーー早く家帰りたい全部だるいもう学校嫌い。
家にてパソコン。することない。六時間目の授業が終わって即帰った。部活は体調悪いってことでサボる。吹奏楽部、そういうの別にうるさくないから好き。
何時間何分パソコンいらってキーボード叩こうが、行き着く先は結局ここ。ミニマリズムに取り憑かれたかのようなデザインのサイト。無駄な情報一切なしの、文字オンリーのウェブ日記。
美雪の日記には、放掟記、ってタイトルがついてる。このあたりも彼女のダイナミズムが如何なく発揮されてて笑える。当初は別におもしろくなかったけど、だんだんおもしろくなってくる。タイトルがあるってことは見せること前提なのかな、とか思うけど、なんも知らん人がわざわざ購読するとも思えんし、じゃあやっぱこのタイトルは美雪本人の決意表明なんすよねきっと。掟を放つって。誰と誰の間に結ばれた掟なのかは知らんけど、彼女にとっての大事ななにかが、もう本人にとっちゃ生まれたその瞬間から背負ってたような感覚で、掟って言葉に集約されてるんでしょう。もう美雪は自分が離乳食食べて育ったことすら、なかったことにしちゃってるんやろなあ。首だって最初っから座ってたし、いきなり二足歩行できたって、本気で思ってそう。でなきゃ、こういうタイトルにならんよ。ふっつーの、誰にでも降りかかる、ありふれた悩みが書かれとるだけやもん。先天的に拗れとんやろうなあ。ほいで拗れた最果てに、こういう発想が隠れてんだと思う。たぶんやけど。あるいは、本当にただただダイナミックな女なだけか。いずれにしても、あたしとは二、三階級が違うです。
そんなメンタルウェルターな彼女の日記が十時二十五分に更新される。
「紙きれ一枚分で保たれた平和」
帰りの電車にて。
自由帳に絵を描きあっている小学生二人組がいた。
黙々とやるわけでもなく、はしゃでるわけでもなく、とても自然な感じでふたりは絵を描いていた。
小学校三年生のときに転校した三木さんを思い出した。
三木さんは給食が終わるとすぐに自由帳を取り出して、絵を描く子だった。
今日のこの女の子たちと同じで、自然な雰囲気で絵を描く子だった。
ただ、みんなが見せてといっても三木さんは絶対に自由帳を見せてくれなかった。
あの日、わたしは算数のドリルを取りに、夕方の教室にひとり戻った。
西陽の光る教室でひとり、ふと三木さんの机に目がいった。
わたしはなんの悪意もなく、三木さんのお道具箱を引いた。
三木さんとわたしは、よく喋る仲ではなかったけど、絵を見せてと言って断られたことがあった。
二冊自由帳が入っていて、ひとつは新品の自由帳だった。
もうひとつには漫画が描かれていた。
三木さんが主人公で、学校の男の子なんかが出てくる少女漫画だった。
わたしはなにか見てはいけないものを見てしまったような気がして、でも少し笑った。
三木さんは言い方は悪いけど、顔が可愛い子ではなかったから。
一学期が終わって三木さんは奈良の学校に転校した。
三木さんがいなくなっても、わたしはあの漫画の話を誰にもできなかった。
結果として、しなかった選択は正しかったように思う。
紙一重だったが。
Sep.27
やはりウェルター級のパンチは重かった。メンタルにぐらっとくるものがある。
ただし、あたしはこのぐらっとが、ダイナミズムに依拠したぐらつきではないということを、もっと言えば、核心的な精神の戸惑いにうろきてるということに、はっきり気付いている。
全部ギリギリなんやわ。言葉にするとか、行動に移すとか、そういう物理的な現象のすべては、全部己が心にギリギリ留められてるってだけで、それだけで、ギリギリ保たれてるだけなんやわ。ほんにたまたま。たまたまで、それがすべてなんやわ。結果なんやわ。たったそれだけで、世界の均衡が保たれてるんやわ。
ちきしょう、だとすればこれは、あたしがあたし自身にビビっているということである。あたしの持っている大きな森の小さなお家には、蔦が無尽に絡まっていて、中では途轍もない悪意が渦巻いているという――、あーやっばい。寒い寒い寒い。
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