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私が生まれたのは、昭和三十五年の八月五日です。公営住宅で育ちました。公営住宅から小学校に通う子供達の行列を後ろから見た大人達に、「まるでパレードみたいだ」とよく言われたのを覚えています。それ程公営住宅で暮らす子供の数は多く、全体が大変賑わっていた時代でした。私は秘書検定を取るため、高校卒業の後専門学校に二年間通いました。専門学校は楽しかったです。電話対応や簿記、商業英語や一般常識などの授業がありました。まるで女学校に通っている気分で、通学を楽しんでいました。父は私が小学校を卒業する頃には死んでいたので、母に楽をさせたいという一心で、二十歳から秘書として必死に働いたんです。今振り返っても、その頃の思い出は輝かしいものとして私の心の中に残っています。実家に家賃、食費として給料の五分の二は払っていましたが、それでも私の手元には結構まとまったお金が毎月残りました。私は週末になると三越に行き、クリスチーヌの洋服やミハマの靴や資生堂の化粧品を見て回りました。オフィスレディとしての、それが誇らしい習慣だと思っていたからです。当時はハマトラやニュートラと呼ばれる服装が流行っていたんです。ミハマの靴にハイソックスを合わせたり、バギーパンツを穿いたり。髪型は皆、サーファーカットやウルフカットにしていました。今の娘さんは美容室に行って髪の毛を染めるみたいですけど、私達の時はコーラやオキシドールを使って家で脱色していたものです。鏡で自分の顔を見ては、昨日の私よりも綺麗になったかななんて思って隅から隅まで観察していました。無知とは恐ろしいもので、願えば叶うと信じて疑わない頃が私にもあったのです。『女は衣装、髪かたち』ってね。今じゃこんな格好でも平気で外を出歩けますけど、当時の私は家から一分の場所にある花屋さんに行くのにだって薄化粧をしたものです。
母は私の手にしているデパートの紙袋を見ては、「また吊るしの洋服なんて買ってきたの?」と言って驚いていました。母の時代の洋服とは布を買ってきて自分で作るか、仕立て屋に注文するかのどちらかだったらしいのです。既製服は吊るしと呼んで見下していたらしく、既製服が当り前の時代になっても尚古い習慣を信じていたようです。今日び洋服を自分で作るのなんて、暇な主婦位でしょうね。布を買うよりも安く手に入る洋服がいくらでもありますから。通勤ですぐ駄目になるのは分かっていても、高価な靴を買いました。高価と言いましても、イタリアやフランスなどの外国製の靴ではなくデパートで売っている平均的な値段の日本製のものです。商店街ではデパートに置いてあるものと似たような靴が二千円位で売られていましたが、私が買っていた靴は一万ちょっとのものでした。きちんとした価格の靴を履いてますと、澄ました気分で道を歩いていられました。そういう靴を履いて、流行の洋服を着ている間は女振りのよくない事や、煤けた住まいの事も忘れていたと思います。
給料日には母を外食に連れて行きました。今では当り前に食べているチーズの沢山載ったピザやカルパッチョなんかが当時は艶やかな食べ物だったのです。カルパッチョなんて刺身と同じだと心の中では思っておりましたが、いざ目の前の大きなお皿に色とりどりの野菜と薄く敷き詰められた刺身を見てはうっとりした気分になっていました。母は私との外食の時だけ余所行きの洋服を衣紋掛から丁寧に下ろし、身につけ外出しました。一ヶ月に一度程度しか袖を通さない余所行きは思い出してみますと、四枚しか持っていなかったようです。その事に対して母が不満を漏らしていた記憶はありません。母は外見に対しての興味の薄い人でした。代わりに食べ物の話はよくしていて、「どこどこの何とかというお菓子は美味しいらしい」やら「メンチカツを買うならば、あの店に十時に行けば出来立てが食べられる」などと言っておりました。
私と母は二人きりの家族という事もあり、親子間での団結力が一般的な家庭よりも強かったと思います。それに二DKのマンションは、喧嘩するには狭すぎました。3Cと呼ばれていた、カラーテレビ、カー、クーラーのうち私が働き出すまでは中古のカラーテレビだけが部屋にありました。3Cがもてはやされていたのは、昭和四十年の前半だった事を考えますと、決して裕福な家庭ではなかったのですね。幼い頃から薄々分かってはいました。子供って案外、家計を肌で感じているものなんです。そういえば母と二人で旅行に行った記憶もありません。車の免許は母も私も持っていませんでしたが、車がなくても都会で生活している限りは電車とバスがありますので事足ります。私は初めてのボーナスの殆ど全てを使い、新品のクーラーを母と新宿の家電屋さんに買い求めに行きました。どれがいいのかなど私には分からないので、当然母に分かる訳もなく店員さんに任せて現金で買いました。二DKでしたら、一台あれば充分に全ての部屋が涼しくなるという話でした。クーラーの下に扇風機を置くと、一層効果的に冷たい風を室内に行き渡らせられるらしいです。クーラーの到着は四日後でした。帰りに新宿のパーラーに寄って、母はバナナパフェを、私はあんみつを注文しました。
「ちよちゃん、やっぱりクーラーなんて贅沢なもの買わなくてよかったのに。扇風機で充分よ。ちよちゃんはお給料をしっかり貯金して、結婚に備えなくちゃ」
「もう買っちゃったわ。それに結婚なんて、私には……」
「母さんにだってできたのよ。ちよちゃんは私より器量もいいんだし大丈夫」
結婚など許されるものではないと思っておりました。それは私の器量や家柄の問題ではなく、況んや相手にある訳でもありません。仕方のない話なのです。いつの頃からか、働いて、働いてたくさんのお給料を貰って、オールドミスとして生きていこうと決めていました。そうするしかないのだと。秘書課の女の子達は五年間程度働くと、決まって寿退社していきました。社長秘書だけは独身の正確な年齢は知りませんでしたが、四十代位の女の人でしたけれどその人は高学歴でしたし例外的です。所謂秘書は若いうちにしかできない仕事でしたので、仕事の後の時間を利用して、インテリアコーディネーターや速記の資格を取るためのカルチャースクールに通おうかと考えていました。資料に書かれた一ヶ月、七千円程度の講習費でしたら払えます。年齢に関係なく働ける仕事を今のうちから考えなくてはと、回りの女の子達が恋人を必死に探している間も私は仕事の事ばかりに頭を悩ませて生活していました。これから続く長い人生を考えては、不安になってばかりいたんです。週末になると恋人達が手を繋いでデイトしている脇をすり抜けて、様々なカルチャースクールに見学に行ったものでした。
そしてこんな考えはよくありませんが、母が死んだらまず最初に公営住宅から引っ越そうと決めていました。実は当時引っ越しの為に月々僅かではありましたが、決まった金額を別口座に貯金していたんです。私は自分の生まれ育った場所が、建物が嫌いで仕方ありませんでした。どんな貧乏でもいい、この場所から出て行こうと思ったのは一度ではありません。しかし私は結局生涯をこの場所で過ごす事になりそうです。この場所で歳を取るのです。それは母と私の連帯感が導き出した結果かもしれません。いいえ、公営住宅全体の連帯感でしょう。『血は水よりも濃い』なんて言いますけどね、女である事は血よりも濃いのでしょう。この言葉の意味は、この場所で生まれ育った女にしか分からないはずです。私の住んでいる公営住宅の住民の殆ど、八割位は女です。残り二割の男は魂の抜け出てしまった、男とも女とも呼べない生き物です。攻めも守りもしない人間を、若い私が男として認めるのはとても難しい事でした。
公営住宅に住んでいる男は自分の下着を決して外には干そうとせず、部屋の中に羞恥と共に干していました。女達のブラジャーや生理パンツは毎日風に靡いて、誇らしげに各階のベランダを飾り立てていました。赤やピンクやグレーに黄色、私が若い頃の快晴の団地は、そりゃ鮮やかなものでした。パンティストッキングはよく風で飛ばされ、一階に住んでいる女はストッキングいらずだと話しては団地の女が笑っていました。
私は一度だけ、自殺未遂を起こした事があります。二十一歳の頃です。会社帰りの電車で熱海駅まで向かい、秋の海の中へ進んでいきました。寂しい匂いの海でした。鞄は邪魔だったので浜辺に置き、テレビドラマでは靴を揃えて置いておいたりしていますが、海の中は石ころだらけで素足で歩くと痛いので、靴を履いたまま海の中に入りました。かかとの部分が砂にめり込んでしまいますので、爪先部分だけで歩きましたが、バランスを保つのに大変苦労しました。その間も波は寄せ続け、塩辛い水が注意していても口の中にじゃぶじゃぶ入ってきます。ストッキングが足に貼りつき気持ち悪かったですが、もう少しと我慢しました。海水を含んだ身体は重く、気を抜くと靴が浮き上がってしまうので、一歩が大変な負担に感じられました。死を決心したにも関わらず、私はかじかんだ手に息を吹きかけ温めようと必死になっていたので不思議なものです。涙が頬を伝いましたが、海水と混ざり途中からは意味の無いただの水分でした。歯ががちがちと鳴り、最後に口を開いた時に出た言葉は、唖の人間の呟きでしかありません。いいえ、その後唖の人とある機会に二人きりになった事がありましたが、私の海の中での言葉よりも唖の人の一言は力を帯びていたと思います。熱海の海の左側には無数のネオンライトが見えましたが、きっと小田原辺りでしょう。キラキラ光って瞬いて、あのどれか一つでもいいから私のものだったらと思うと再び溢れ出るものを堪えきれませんでした。寒さにはすぐに慣れます。けれど誰かが私を追いかけてきて救ってくれるかもしれないという期待は、ネオンライトと同じように心の中で点滅を続けました。私は後ろを振り返ってばかりいました。そんな人がいたら私は海の中になんかいるはずもないのに、愚かな考えでした。変な話ですが熱海へ向かっていた時の自分が、他のどんな場面よりもはっきりとした意志を持っていたと思います。全くおかしなものですね、自殺未遂が最高の意思表示だなんて。他にも方法はあったでしょうに、あの頃の私には思いつかなかった。
目が覚めた時、しくじった自分が惨めったらしくて、残念で悔しくて仕方ありませんでした。もう二度目はありません。ベッドの脇には母が小さな老人らしく謙虚な姿で座っていました。
「ここは?」
「ちよちゃん、目ぇ覚めたのね。よかった、よかった」
「ここはどこ?」
「ここはね、海の近くの病院だよ。会社には体調が悪いからしばらく休むと言っておいたから。何も心配しなくていいんだよ」
「何で助かったの、私……」
その後母に聞いた話では、私は熱海駅に降りた瞬間から駅員やタクシーの運転手に「あの娘は自殺しに来たな」と思われていたらしいのです。秋夜の海にスーツ姿で現れた女は異常な印象を一部の人に与えたのでしょう。いかにも恋をなくした女の仕出かしそうな事ですから。私の原因はもちろん恋などではありませんでしたがね。「だったらあんな冷たい海に入る前に声をかけてくれればいいものを」と思ったのは、私の恨み節の為でしょう。私が海に入って少ししてから、街の消防隊がわざわざ救助の船を出したらしいのです。砂浜に置いた私の鞄は消防隊員のライトの中で簡単に見つかり、そこからたったの五十メートルしか離れていない地点で私は発見されたようです。派手な水しぶきが立っていたので、簡単に見つけられたと意地悪い笑みを浮かべた隊員の一人が話してくれました。五十メートル。悲しく恥ずかしい距離です。私自身の覚悟の距離です。それは大きな海の中にあっては水中でなく、砂浜の範囲でしょう。
母は消防署や漁船の持ち主に持っていく為の菓子折りやお酒を買ったらしく、このままではお金がなくて東京に帰れないと言います。私は浜辺から病室に運ばれたキタムラの鞄の中から母に貯金通帳を渡しました。革の鞄は砂まみれの上海水を含んで無闇に重く、美しいえんじ色の光沢もすっかり失われていました。病院のお金やら、お礼の菓子折りやらで結局引っ越し用にと貯金しておいたお金の殆どはなくなってしまったんです。未遂の果てに残ったものはどこにも行けないという現実です。私は神経衰弱と診断され、その後に移った病院は精神病院でした。結局その病院に三ヶ月間入院しました。病院では一日中母が駅前で買ってきたパジャマを着ていました。母が買ってきたので、セール品だったんでしょうね。今の私が一日中パジャマを着て過ごすようになったのは病院からの習慣です。バギーパンツなんかは私の入院中に流行が終わっていたと記憶しています。当時三ヶ月ものお休みを快く受け入れてくれる会社などどこにもありません。秘書は誰にでもできる仕事です。結局私は仕事を失いました。母は三週間に一回お見舞いに来てくれましたが、往復の交通費は私が払いました。入院一ヶ月目に私は病院の患者の一人と親しくなりました。
退院して一ヶ月後に自分が妊娠している事に気が付きました。相手は分かっていましたので病院に手紙を送り、知らせました。私よりも随分長く入院していたその人は、静岡県の裕福な家庭の人間らしいと話をした時に薄らとですが聞いておりました。何かから逃げているようで、特にこれといった病気の人ではありません。私の手紙の返事には結婚しようと書かれていました。飾り気のない便箋に、簡潔過ぎる文章でした。病院を一週間後には退院して、手紙に書いてあるあなたの実家に行くとも書かれていましたが、静岡のご両親の事には一切触れていませんでした。それに自分の意志で退院できる患者など、聞いた事ありませんでしょ? その頃の私は働いていた時に買った靴の底を何度も直して履くような生活をしていました。せっかく買ったクーラーも電気代が気になり、結局扇風機しか使っていませんでした。どうやら最近のお嬢さん達は結婚前から簡単に相手に身体を許すらしいですね。私達の頃はきちんとしたお嬢さんは週末のデイトで手を繋いでは頬を上気させていたものです。私にしたって歌ヶ丘団地に住んでいたからこそ肩身の狭い思いをせずに済みましたが、他の場所でしたら結婚前に妊娠していると知られた途端に村八分になっていたでしょう。もちろんナイトクラブなんかに勤める人は自由にしていたんでしょうけど、身持ちの悪い女とされ女達からは軽蔑されていました。今のお嬢さん方は放埒で結構な事です。今日び自由恋愛という言葉も聞かなくなりましたが、それも自由じゃない恋愛というものがなくなったからなのでしょう。
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