アノニマス – 2

アノニマス(第2話)

斧田小夜

小説

5,642文字

個人情報の保護が勘違いされたまま行くところまで行き着いた世界にすむぼく。個人情報を守るため、他者と触れ合うことのなかったぼくが人に触れたとき、何を思うのか?

中性的な声で三次元モデリングされた個性のない中性的な顔立ちの人物がニュースを読んでいる。映像に映っている人物は実在しているのだろうかと、ぼくは毎回不思議に思う。もしかすると本当に存在する人間で、あまりにも中性的で特徴のない顔立ちをしているおかげで仕事を得たのかも――

ぼくの妄想を無視してニュースは続いている。話題は、最近静かなブームとなっているメッセージだ。内容は他愛もない。

腹が減った。朝だ。昼だ。夜だ。食事中だ。腹一杯だ。肉がおいしかった。起きた。寝る。かなしい。うれしい。さみしい。

まるで自己をさらすように流れるメッセージがある。しかしそれが誰から送られたものかは誰にもわからない。個人の記録のようでいて、匿名を維持している。誰が誰のことを言っているのか、まったくわからない、目的のないメッセージ群。客観的な事実のこともあるし、「烏は白い」というような明らかな嘘もある。そんなメッセージが何千、何万もメッセージサービス上を漂流し、誰かのもとにたどり着いている。まるで海を漂流するメッセージボトルのように、ネットワークの中をさまよっている。

大人たちはそれを驚きと恐怖をもって受け止めたらしかった。メッセージの送り主は若者とみられる――もっといえば無軌道な未成年だと思っているらしかった――が、個人情報保護の大切さを理解していないのではないかという批判がある。中には匿名性を維持したまま新しいコミュニケーションの方法を生み出したと賞賛する大人もいるらしいが、ほとんどはこの潮流をおびえているのだそうだ。すくなくとも映像の中の人物は『匿名』の人物の意見をいくつもならべたててそんなふうに言った。

カーテンが光をはらんでいる。

――晴れてる

指を動かす。すぐにメッセージが来る。

――明日の関東は雨らしい

――雨が降ると川が増水する

――光学迷彩を使うなら曇りの日がベスト

もともとのメッセージは違っていたかもしれない。ぼくのところに届くときには客観的な事実になっている。でもなんとなく返事をしてくれた誰かがいるような錯覚をして、ぼくはうれしくなる。

――食料がない。買い出しに行かないと

送信をする前にぼくは少し考える。このメッセージでは、多分誰のもとにも届かないだろう。自己完結しない行動を広めると個人を特定されるかもしれない。つまりこれは個人情報だ。

――腹が減った。食うものがなにもない

すぐにメッセージが到着する。

――ザ・ストアで5%オフキャンペーン中

――カツオが旬

――買い物は面倒

――いざとなればその辺の草をたべればいい

――革靴は煮込んだら食べられるらしい

ぼくは笑った。

 

 

匿名メッセージの予想に反して翌日は晴れた。

食料がすっかり尽きてしまったので、ぼくは意を決して外へ出た。オンラインで注文しても良かったのだが、配達の受取の手間を考えると面倒になってしまったのだ。その点、実地販売は商品サンプルにざっと目を通した後に欲しいものを端末に入力すれば、自動的にピックアップして一定サイズの光学迷彩箱に格納してくれるのだから楽なものだ。持ち帰るのは少し重いが、その辺に走っている自動運転車を捕まえれば誰にも知られることなく店舗と家を往復できる。もちろん自動運転車なら個人情報は漏洩させない。ランダムに指定される乗り場まで行くのは面倒だが、健康のためにそれくらいの運動は我慢せねばならない。

シャワーを浴び、服を着替えながら、商品のピックアップをする。

いつも感じることだがサービスを受けるのは簡単だ。しかしサービスを提供するとなるととたんにシステムは複雑になる。匿名性を維持したまま、特定のオーダーを完遂させるにはどれだけの人間が背後で働くことになるのか?

ぼくがたまに片付けるタスクもそうだ。単語をコピーして打ち込むだけ、箱のラベルを貼るモジュールを起動するだけ、トマトの数をひたすら入力するだけ。それが誰のためになっているのか、なんの意味があるのか、ぼくは知らない。ただちりちりと音を立ててネットワーク回線を消費するコインが増えるだけだとしか認識できない。

パンケーキの粉、かぼちゃの粉末スープ一週間分、きゅうり三本、リコッタとブリー、完熟の蟠桃、ダークメープルシロップ、ほうれん草のベビーリーフ一パックにレモン、黒いちじく一パック、ミルク一リットル、食パン一斤。そこまでチェックを入れるとボックスがいっぱいになったと警告が出る。二個以上の引き取りは面倒だ。食パンのチェックを外し、より入念にカーテンをしめるため、ぼくはクリップを追加する。

注文を終えると、送迎車から連絡が来る。送られてきた地図は歩いて五分ほどの場所、十五分後に到着、五分をすぎても乗車が認められない場合は再マッピングが行われ、別の場所が案内される。

光学迷彩の上着をはおり、光学迷彩の布を頭から被り、目元まで隠れるように布で顔を隠す。秘匿チェーンブロックを内ポケットにいれて最後にサングラスをすれば出かける準備は完了だ。寒い季節は頭からすっぽり光学迷彩コートをかぶってしまえばよいのだが、五月もすぎれば光学迷彩の服を着ないとやっていられない。光学迷彩の生地は肌触りが悪く、それがますます外出を億劫にさせる。

シュウ……とかすかな音を立てて扉が消滅した。足元に少しだけ残る残骸を踏み越え、ぼくが外に出ると扉は再び再生される。隣近所にも聞こえないかすかな音だ。外出したかどうか、誰にも気づかれることはない。もしかすると隣の人物は死んでいるかもしれないし、とっくにどこかへ転居しているかもしれない。この建物にはぼく一人しか住んでいないかもしれないし、あるいはぼくの周りの部屋にはさみしさなど少しも感じない大家族が住んでいるかもしれなかった。廊下に並ぶ扉を一つ一つ指差しながら、ぼくはそんな妄想をする。そして廊下の突き当りから地上に向かって飛び降りる。

スピードが出るのは一瞬だけだ。すぐに逆重力がクッションのようにぼくをつつみ、何事もなくアスファルトの上に降り立つことができる。サングラスの向こうに展開されている地図を確認して、ぼくは回れ右をした。車が到着するまであと十分、ゆっくり歩いていけばだいじょうぶ。

五月の陽明な光がサングラス越しに輝いている。実際のところサングラスを通しても光はなんら失われず、外の世界をそのまま感じ取ることができるそうだが、ぼくには自信がない。なんらかの処理を施された世界をみているだけだという疑念が拭えない。サングラスをはずしたら、あの木は枯れ果てているかもしれない。街は廃墟で、どこまでも荒野が広がっているだけかもしれない。ほんとうはもう誰も――

大きなコブのできた老木の横を通るとき、ぼくはいつも指を伸ばしてその幹に触れた。大きなひびわれができた幹は乾燥してゴツゴツしている。光学迷彩の服をとおしても揺れる木漏れ日のあたたかさは伝わる。見上げると木々はのびのびと枝をのばし、太陽を享受している。ぼくがすっかり忘れてしまった光を余すことなく受け止めようとしているのだ。

これのことも後でかこう、とぼくは思った。なんとかけばメッセージは送信されるだろうか? 古い木の幹はゴツゴツしている? 古い木が生えている場所に住んでいることを発信したら、間違いなくシステムに弾かれる。木漏れ日ってなに? これはいいかもしれない。木に触ったことある? これもいいかもしれない。まるで知らないからきいているみたいだ。ぼくの存在は隠蔽できる。でも、もっと――もっとぼくのこころを表す言葉があるのではないか――

浮かれた思考の中に半分沈みかけていたぼくを引き戻したのは、大きな音だった。音だと認識するには大きすぎる振動がぼくをゆさぶり、ぼくははっと顔をあげた。

数メートルほど前で車が止まっている。車は大きくボンネットがひしゃげ、自動音声が警戒を知らせる言葉を発していた。すぐに危険を知らせるアラームがけたたましく鳴り響くが、あたりは静かだ。誰も窓から顔を出したりはしない。自動運転車が起こした事故ならすみやかに処理が行われると知っているからだ。

でもぼくは走っていた。なぜ走り出したのかわからなかった。ひしゃげた車から少し離れたところに毒々しいまでの赤が見えたせいで、ぼくの中に眠るなにかが刺激されたのかもしれなかった。顔を覆う光学迷彩の布がばたばたと鎖骨を叩いている。

道路に赤が広がっている。ひしゃげた車から数メートル離れた、車道と歩道の境目に違和感が見える。光学迷彩を身に着けた誰かが倒れているのだ、とぼくは悟った。怪我をして、出血をしている。救急車が到着するまでは十分から十五分、すぐに応急処置が施されるとしても、病院にたどり着くまでは二十分から三十分かかる。せめて救急車が到着するまでの間に処置をしなければ手遅れになるかもしれない。

救急車さえ来れば心配いらない。病院のスタッフは例外的存在でけが人の秘匿ブロックチェーンにアクセスし、持病やアレルギーを検索できる。彼らが検索をすれば、自動的に近親者にメッセージは飛ぶはずだ。

頭のなかに応急処置のイラストが浮かびあがる。傷の状態を確認して、動かせそうなら安全な歩道へ引きずり上げ、意識の確認をする。流血しているから止血は絶対だ。光学迷彩布は血液を透過させない。傷口がみつかったら強くおさえて――

黒い髪の毛が光学迷彩のフードからこぼれ落ちている。女性だ、とぼくは道路に膝をつきながら思った。手のひらで女性の肩をさぐる。赤い血が出ているということは動脈性出血だ。出血量からして頭部か? それとも大きな血管が傷ついている?

ふと、不安が胸をなでた。

もし頭部から出血していたとしたら、フードを外さなければならない。つまり彼女の顔を白日のもとに晒すということだ。ぼくはあたりをみまわした。気配は感じる。でも、誰も顔を出していない。ぼくが彼女のそばにひざまづいたことを、彼らは気配で察知したかもしれないが、ぼくに声をかける存在はまだない。彼らに彼女の顔を晒してよいのか? そしてぼくは救急車が来たあと、彼女の顔を忘れられるのか?

ぼくの逡巡をよそに指が彼女の頭を支える。てのひらが、彼女の後頭部に潜り込む。ぬるりとした生暖かい感触がある。むせかえるような血の匂いがする。

ぼくはたじろいだ。

生き物がある。

そう思った瞬間に体が動かなくなった。

ぼくは長く生き物に触れていなかった。あたたかい体温を持つものをしらなかった。まるでぼくの眠っていた感覚器をこじ開けるように大量の情報が流れ込んできて、ぼくは混乱した。それは確かに生き物だった。鼓動があり、あたたかい体液を垂れ流している。手首にふれる髪の毛はしっとりとして重く、膝にふれる少し持ち上がった肩は華奢で、ぼくのものとは異なっている。ずり落ちたサングラスの下、まぶたを半分閉じて女性の目はじっと虚空を見ている。太陽の光が彼女の青白い肌を照らしている。鼻筋にてんてんとそばかすがあり、毛穴に白い油が詰まっているのがみえる。太陽の光が直接差し込む虹彩は茶色を呈し、白目は真っ赤に充血している。ひゅうひゅうと、彼女は音を立てて呼吸をしている。

ぼくの知識にはないもの。いきもの。

気持ちが悪い。

(誰かに会いたい)

「う……」

「ご協力ありがとうございます」

ぎくりとする。

いつのまにか赤色灯を回転させる救急車が停まっている。ぼくにかけられた声は音声オペレータの機械音声だった。すぐにばらばらと処置機が四、五台よってきて、固まっているぼくをよそに被害者を布にくるみはじめる。さらに三、四台よってきた自動走査マシンが血を洗い流し、被害者が抱えあげられるや、ぼくによってきて身体チェックをはじめた。

ぼくの手はまだ血で濡れている。まだ彼女のあたたかさが残っている。生々しい、動物のにおいに吐き気がする。

ぼくは息を吸った。しかしその息を吐き出すことができなかった。喉の奥がおとをたてるばかりで、酸素が胸に入ってこない。

「ご協力ありがとうございます。感染症のおそれがあるため消毒します」

(誰かに)

 

 

――今日、事故現場に遭遇した

エラーを知らせる音。

――自動運転の送迎車が誰かとぶつかったみたいだった。血溜まりができていて、救急車の到着に間に合わないかもしれないと思ったから応急処置をしようとした

エラーを知らせる音。

――でも、できなかった。うまれてはじめて知らない人に触った。人間は生き物だなんてしらなかった。血はあったかくて、臭くて、頭は重くて、そんなの知らなかった。正直気持ち悪かった

エラーを知らせる音。

――個人情報だとかなんとか言ってぼくは生き物に触ったことがなかったんだ。だから知らなかった。もっと冷たくて音もなくて、重さなんてないと思ってた。さびしいさびしいって言ってたのに、誰かと話がしたくて、誰かと会いたくて、一人じゃないって思いたくてメッセージを送ってるのに、本物の人間は気持ち悪いって思った

エラーを知らせる音。

――こんなの絶対におかしい

叩きつけるようにメッセージを送信してぼくは席を立った。何度手を洗っても、熱いシャワーに打たれても血の匂いが消えない。ぼくは混乱している。混乱しきって虚空にむかい喚いている。呑気なメッセージが音とともにぼくの元へ到達する。でもぼくはそれに答える気力がない。

気持ち悪かった。なにもかもが気持ち悪いと思った。気持ち悪さに呼吸が苦しくなるたびにぼくはバスルームに飛び込んでシャワーを浴びる。服はぐっしょりと濡れ、どれだけ熱いお湯をあびても体があたたまることはない。

気持ちが悪い。

でも。

(さみしい)(さびしい)

メッセージの到達する音がする。いくつも、いくつも続けざまに音がする。誰かが誰でもない相手に向けて独り言を発信している。(さみしい)

(誰かに)

(たった一人ではないと)

(さみしい)

熱い湯がぼくの頭に降り注いでいる。

   了

2017年6月27日公開

作品集『アノニマス』最新話 (全2話)

© 2017 斧田小夜

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