シュールな悪夢から目を覚ますと、授業の終わりを知らせる鐘が、割れたスピーカーから流れた。ボクは一回だけ深呼吸すると、何事もなかったように使わなかったペーパーバックの洋書と辞書と筆記用具をまとめ、帰り支度を済ませた。六月に入ってから嫌な夢を見がちだった。不眠症でないとするとそれは、夢の材料に悪影響を与える憂鬱な雨の仕業だろう。湿った空気で呼吸が曇り、染み込んだ肺から気力を根こそぎ奪ってゆくようだ。室内で燦然と輝く蛍光灯は、じめじめした気分やカエル好みの気候を乾かしてくれそうにない。ときどき明るさが嫌になると、心臓が止まってくれることを祈りながら意識の流れに身を任せた。寝言でも口走らなかったか不安に思いながら教室から出ようとしたそのとき、
「キミキミ、ちょっと」という教員のセリフ。こんな手垢のついた既視感をみるようでは、ボクもとうとう頭のフューズが溶けてしまったらしい。もしくは残虐なだけならまだしも、永遠に覚めない夢の悪質さに一定の恐怖を感じさせられる。さらなる怖ろしさは、現実でないこの不毛な夢が淡々とさっきの物語をなぞってゆくのに、ボクがなんら抗うこともできず、ただ流れに従うしかできないことだった。教員の挑発に対してもやはりボクは口をつく適当な言葉で応戦し、このあと殺されるだろうことを知っていながら逃げようとしなかった。逃げたいという意志が身体にうまく伝わらないのであって、逃げる意志や殺される危機感を持っていないわけではなかった。そうこうしているあいだに気のふれた教員の、今度はチタン製のゴルフクラブがボクのズガイコツを木っ端微塵にひしゃぎつぶし、ぐるぐるまわる幻想的な景色が意識の裏で行き来すると、またうっすら夢が覚めた。正しくは夢だと錯覚していた次元からひとつだけ上位の世界にのぼってきただけで、いまいる場所がはたして現実なのかそうでないのかといったデカルトじみた懐疑は、ボクの守備範囲を大きく外れた問いかけだった。教員に殺されたのは睡眠中のフィクションであり、その境界を越えていまボクがもとの現実に帰ってきたのか、もう少し時間が経たないことにはなんとも言えない。しかし残念ながらボクの期待とは裏腹に現実らしい主観時間は、授業の終了を告げる鐘の音が鳴りわたってから教室を抜け出そうとするまでのあいだに、くだんのふざけた言辞でボクを引き止めようとするものへ逆戻りしたのだった。
「キミキミ、ちょっと」日に三度もその憎たらしい言葉を聞かされ、満タンの胃袋に高分子の食べ物をむりやり詰め込まれるようなガチョウの胸焼けに襲われた。そろそろ業が煮えてきて、呆れそうな気分に操られ、投げやりになる頃合であり、といってもまたこの世界から脱出する方法について真剣に危惧すべきときでもあった。そのため怒りといった種の感情は論理的思考を妨げる障害物なので、それをとり払って冷静になるのが先決であった。何がボクを現実から遠ざけているのか、諸悪の張本人におぼえはないが、このふ抜けた教員におちおちと簡単に殺されてしまう惰弱さが、悪夢の元凶である気がしていた。つまりこのおかしな教員に殺されてしまう前にボクが彼を始末すればよいのであろう。教員を殺せばもといた現実に帰れると誰かが請け合っているわけでもなく、にもかかわらずボクの中で教員の殺害は覚醒するために踏むべきひとつの手段から、本質的な目的へとかたちを変えようとしていた。しかし教員に悪夢の原因があるという仮説が正しければ、彼を殺すことですべてが丸くおさまるはずであるという結論も同様に真である。彼はもう例によってまた別の、もっと大きいナイフを握っていたので、ボクは動けないことを承知で強く抽象的なイメージを前頭葉一帯に広げてみた。するとそれが通じたのか、天井のスクリーンを引き下ろすため黒板の脇に立てかけてある軽金属の細長い棒が、念力みたいに浮遊してボクの右手に吸いついた。それを手にしたときからボクの身体は金縛りの不自由を解かれ、孫悟空の如意棒のようにカギ付きの棒を八の字にふりまわし、ブルース・ウィリスの日本刀のように斜め上段にかまえるのだった。ナイフと棒キレでは間合いにおいて後者のほうがだんぜん有利であり、いくら殺傷能力の高い大振りのナイフといっても、相手に届かなければ飴細工と同じである。調子に乗るボクは棒の先っぽで教員の顔面を勢いよく突いた。避けようともしない彼は、左の眼窩に長い棒を埋めたまま立ちすくみ、そのままボクも棒から手を離さないでいた。突き刺さった棒を前にして後悔の誘い水に呑まれそうになったが、いまさらとり返しがつくわけでもない。手ごたえのない脳味噌の感触を確かめるようにボクはさらに、深く差し込んだ棒を体力の許す限りぐちゃぐちゃかき混ぜてみた。眼窩を垂れて頬に伝う血が、ふと勢いを増してぼたぼた吹きこぼれた。教員が助かる段階はとうに過ぎ、これで悪夢も覚めるだろうという達成感に肩の荷を下ろされてやっと、棒を引きずり出した。原形をとどめない眼球が教壇に落ちると、力ない教員の身体も半径約170cmの円を九〇度ぶんだけ描き、顔面から豪快に倒れた。教壇に抱きついて動かない彼の絵が、夢の中にしてはやけに長くおもえ、嫌な予感が追い討ちをかけた。死体の背中に愛着を持つような趣味もないのに、その凄惨な光景がしばらく沈黙とともにつづく。重度の気まずさに耐えかね、死体のすぐそばまで静かに忍び寄ると、緊張しながらつま先で脇腹をつついた。死体であることに変わりのない教員が動くはずもなく、しかし教員の生死を確かめるのは後悔をかき消す悪あがきのためでもあり、何よりもボクが人殺しになった事実を否定するためだった。それはこの妙に長い悪夢に対して、もう許してくれと哀願するみじめな心理でもあった。そこへ突如として何者かが講堂の重たいドアを蹴破ったので、大きな音に驚いたボクは瞬間的に肩をこわばらせた。ドアを破壊した男は、六月のべたつく気候にはそぐわないラクダ色のバーバリーを襟まで逆立てて羽織っている。「逮捕だあ」と、男はクセのある低いだみ声で怒鳴り散らした。すると入り口付近では二十人を上まわる機動隊員の群れが、怒号のような掛け声で団結して地響きを起こし、そのために押し倒された指揮官らしきバーバリー男の背中を足蹴にしながら、一斉になだれ込んできた。あっ気に取られてその場に立ちつくすボクは、自分が逮捕されるべき被疑者であると夢ながら納得していた。あっという間にボクはジュラルミンの盾に取り囲まれ、後頭部を強打されたとおもったら床に叩き伏せられていた。「カクホ」確保という単語を発したのは機動隊の誰かであったが、どいつもこいつも同じ制服に包まれている上に、マスクや盾が邪魔してボクの視界はないに等しく、それもこれもいまから逮捕されようとするボクにはどうでもいい情報だった。冷たく硬いジュラルミンの盾が、だんだんと圧力を強め、ボクの身体を押しつぶしていった。床にめり込むほどきつく、完全に押さえつけられた身体は、ゼリーのように下腹部から内臓を飛び出させた。はり裂けたヘソのあたりから、機動隊員はゾンビ映画のように容赦なく手を突っ込み、厚みのない腹直筋や腹横筋を取り払い、涎掛けが覆うように広がる腹膜を、いともたやすくひき剥した。十二指腸からS字結腸までが露わになるや否や、小腸をつなぎとめるようにはり巡らされた腹間膜の配線をぶちぶちと引きちぎり、空腸から回腸にかけて鮮やかな桃色の吸血ナマズを鷲づかみにして、複雑に入り組んだとぐろをほどいた。数メートルからなる消化器系の下半分を持ち出された身体は、キロ単位で軽くなった。腸の断端からあふれ出す未消化物の腐臭や粘り気が血液の赤やリンパの薄黄色などと入り混じって、奇跡的に汚辱された色をつくり出していた。機動隊員はとどめをさすようにジュラルミンの盾を何度か振り下ろし、頭蓋を粉々にたたきつぶした。スイカ割りのスイカになった気分ですんなり意識が引き下がり、たしかに夢から目覚めたとき特有の、それが夢ではないと確信が持てる世界へ、どうにかボクは生還できたらしい。寝そべっていた机から上半身を引き伸ばしながらゆっくり起きあがると、シャーペンの落下する音がした。まわりの学生たちは相変わらず自分の好き勝手な振る舞いをやめず、教員はというと、彼の粗末な舌使いはボクの想像よりだいぶよくなっていた。箸にも棒にもかからない無駄な九〇分について物申したげに長いタメを置いた教員は、ねばついた口調で短い説教をはじめた。
「ええ、あのう、みなさん私の講義にたいそうやる気がないようですけど勉強はご自分でするもんですから、そこのところを履きちがえないよう、ひとつよろしくお願いします。こんなこと言うのもなんですけど、その昔、教育思想に多大な影響を与えたエミールという書がありまして、その中でルソーは消極的教育について述べております。ご存じ? ご存じない。それは遺憾ですね。まあそのう、勉強するのはみなさんであって、どれほど私がシャカリキになって講義に力を注ごうとも、無意味なわけでありますな。無駄なんですよ。無駄無駄無駄。要するに教育が積極的であっても仕方ないのであります、受け手が暖簾や糠ではね。そりゃまあ、みなさん一人一人の首根っこ引っぱりまわして調教することはできますが、さすがに二十歳になってそんな動物的扱いを受けるのはみなさんも屈辱でしょうし、かくいう私も学生と正面きってやり合うのは体力的に厳しいですわな。まあそのう、サークルや就活やらで多忙なのは同情しますけど、どうかご自分で学問なさってください。私に言えるのはそれだけであります」
日没と足をそろえて眠たい講義すべてが終わると、レポートの作成に使えそうな参考資料を探しに図書館へと寄り道してから、帰りの電車に乗った。珍しく長い夢を見たおかげで深刻な寝不足が解消されたのは、肉体に及ぼされたよい影響である反面、あれら一連の悪夢はどこに端を発しているのか不思議でならず、どこか自分の心に破綻が生じているのだろうと、我ながら割り切れない総括に悩んでいた。あたかもゼロ抵抗の物体がどこまでも一定の速度で進みつづけるように、原動力も制動力も壊れているボクの心とかいうやつは、惰性で動くだけの恥知らずな単細胞だった。何もしていないのに疲れるとは、まさにこんな邪念にとりつかれる日のことで、たぶん一日の仕事量と疲れの度合いを関数グラフにすれば、必ず不均衡が出るだろうし、どこかにぜったい使っていないエネルギーが隠れているはずだった。帰宅してかばんを床に投げ捨てると、疲労ごとベッドに倒れた。連日の雨で湿気た臭いが部屋にこもっている。パソコンの電源を入れることさえ億劫だ。数日前に近所のコンビニで買ってきた水気のない、カビの生えたアメリカンドッグにブルーベリージャムをたっぷり塗りつけたものが、その日のディナーである。外食する金銭的余裕はいくぶんあるにしても、なんとなく気が乗らなかった。第一ソーセージを丸々と覆う揚げパンの筆舌に尽くしがたい柔らかな食感と甘さにボクは虜で、それは大学生になったいまでもお子様ランチが最高においしいと感じるボクの成長しない味覚なくしてありえない嗜好だった。鉛筆大の串をしゃぶりながらテレビをつけた瞬間、ふと吐気と悪性の睡魔がスライディングしてきた。午後九時ではまだ眠るのに早すぎると自分に言い聞かせ、つづけざまに三本の煙草をエントロピーの生贄にささげることで覚醒していた。枕に側坐核を沈めるボクの真横には、彼女の携帯が昼間と変わって早くも息絶えていた。彼女に代わって携帯の充電だけは、特に気がとがめることもなく平気で行うようになっていた。全身に電気を行きわたらせる携帯のディスプレイにあらわれたメール受信と着信の異様な数に、ボクは桁があっているのか思わず指で数えなおした。そのときをもってボクが預かっている携帯の持ち主があの少女ではないと断定せざるをえなくなった。一日で百件以上のメールが届く電話など業務用であると考えるほかない。ひどく気色の悪い携帯がいまボクの部屋にあることで、頭はすっかり被害妄想へ突入し、さっきまでの眠気も失せていた。できれば窓から捨てたい気持ちだったがそれすらも、あとで弁償を迫りにくる連中の職業をおもうとできるはずがなかった。ボクの確信をより強固なものにするかのごとく、彼女の携帯に入電する数は日を追うごとに増えるばかりだった。
あれから何日が経ったのか、曜日の目盛りが彫られた時間のものさしで計ることについて、隙だらけの生活はあせりを供給し、むやみに数値化された時制の後ろから一歩ずつ迫りくるパニック映画みたいな時の流れる速さに恐れおののく神経さえ麻痺していた。客観系の時間によると、デパートでの一件があった日から六日が経った土曜日の真夜中すなわち現在、ボクは何の気無しにメールボックスを閲覧した。他人の電話を許可なくいじるのは自分に強く禁じていたが、このまま何もしないのでは埒があかないと遅まきながら決心したのだった。メールの件名はことごとく「おにいさんへ」とあり、それが自分を示していると知ったボクは、六日間の無駄な我慢をあざ笑いながら、メールの中身を拝見してみた。記されているのは明日の日付と、身に覚えのない住所だった。その日その場所にツラを貸せという、なんとも不遜な文脈を読みとらざるをえない偉そうな文面である。携帯を返すためには、この督促状みたいに高慢ちきなメールに従うしかなく、凍結したレポートの群れが健康を蝕む状態にある今、ありがたいにもほどがある話だった。もちろんボクはよろこんで彼女に会いにいくだろう。過ぎ去りし土曜日の先から息をひそめてあらわれる日曜日の真夜中が冷たくボクをあせらせるという理由にくわえ、電話を返そうと決めるまでに通った心の道順は複雑だった。目の前に起きたトラブルを処理するには限界があるし、吸収できる幸せの量も限られている。しあわせの理由によると主人公はロイエンケファリンという神経ペプチドを分泌して、死ぬまでハッピーだったらしい。頭を痛めつける要素を細かいものからしらみつぶしにかまっていたのではキリがなく、結局のところ哲学じみた主題もふまえて考えるべきなのは、謎につつまれた彼女の正体であった。正体といっても、それを暴かなければならない不可解であやしい実体があるにちがいないと、ボクが勝手におもっているだけで、最初から不審な箇所なんかひとつもなかったとあとから誰かに言われればそれまでだし、すべて取り越し苦労に終るとしても別に落胆さえしないだろう。だからといって他人の電話を持ったままでいるのも嫌だから、こればかりは返さねばならない。電話というものは電波を飛ばすことではじめて価値の生まれるものであるけれども、みんな毎日あれだけ何度も開いたり閉じたりしていれば、電話機器そのものに霊魂が宿るかもしれない。どうたらこうたら煮え切らない固着した気持ちを動かすには、手頃な条件付けによる力づくしかなく、その段階に達したときボクの意志は、すべてに道をゆずって恰好わるいのけ者になっている。大事なのは行動する理由ではなく、いざ何を実行するかであり、さもなくば行為に関する意見こそ人を動かすものだというような、自分で考えといて頭が混乱するでたらめな論法にあざむかれてしまう。何回まちがえても正解にたどり着くにはまだ遠いし、だからどうせ失敗だとしても彼女と再び会えるのはこの上ないハッピーであって、どこに文句をぶつける余地もない。むしろ行き過ぎた幸福の量に罰があたらないかと怖じけずく心理のほうが強く、それがつまるところ最大の懸案事項でもあった。これ以上あの子と関わるのはよしましょうと考えずにいられない。この電話を返してしまえばすなわち彼女との別離が待ち構えていた。あんな可愛い子とボクみたいなのが釣り合うはずもないし、夢みたいに都合の良すぎる出来事の連続は、詐欺だとしかおもえない。電話を返しにいった途端、人相の悪い連中がすっかりボクを取り囲んで難癖つけて所持金をぜんぶ巻きあげるという典型的な恐喝が目に見えていた。それよりもっと強大な秘密組織が安寧な生活の裏でこそこそ暗躍しているかもしれない。たとえばCIAとかの監視下にあるのかもしれない。こちらに用事かなくても、そんなことCIAは歯牙にもかけないだろうし、いつか拉致されて秘密の地下施設に連行されるかと思うと、背筋が震える。もっと現実に則して心配したとしても、それが前向きでオプティミスティックな色を帯びるなんてことはなかった。話せばわかるとしても交渉は大の苦手だし、相手を丸め込む政治力もない。他人を蹴落とすのも気が咎めるし、他人に騙されるのも悲しい。こうなったら出たとこ勝負で、予測されるあらゆる話を霊感に流されるまま進めるしかない。別にまだ金が絡んだ状況にはないから、交渉とかいう大袈裟で重大な段階にもないし、それでじゅうぶん事足りるはず。
いつも通りのロビイストな恰好でとぼとぼ歩き、メールで指定された場所へと向かう。携帯電話などここ最近ちっとも使っていないので、メールを打ち込む親指が右往左往して筋肉痛を患った。このB級ポルノ映画じみた成行きを楽しめるほど楽観的でない性格と、四万字近く立て込んでいるレポートへの不安から、さっさと電話を返してヅラかろうと肝に命じていた。まだ観ていない映画やアニメだって山ほどつかえているし、人付き合いは、たとえいくら対象が謎めいて可愛い少女であったとしても、面倒くさいことに変わりはない。バカみたいに足が重たく、正義漢ぶった老人に歩き煙草を注意された日には、うんざりがパズルゲームの妨害ブロックみたいにうず高く盛りあがった。人ごみを抜けてやや閑静な住宅地にさしかかると、再び煙草を吹かしはじめ、電柱に張りついたブリキ板の住所表示と携帯のディスプレイを照合しながら、目的地を探した。こんな汚いところに何が待ちかまえているのだろうかという訝しい気分で到着した先は、一見して変哲のない普通の安アパートで、この場所でいいのかと、近くにある電柱の所在地をしつこくたしかめたが、建物名が書かれていないのを除いて、番地までちゃんと整合していた。だからこそCIAが身を隠すのにうってつけの建物なのかもしれない。一階には二部屋しかないのに対して、二階には四つ部屋があるらしい。というのも集合している郵便受けのポストが六つだけしか設置されておらず、上下の比率を三三ではなく二四にしていることをかんがみると、二階に二部屋よぶんがあるのも納得できる。錆びた銀の郵便受けに表札をさしている人は誰もいないから、居住者の性数も一致しない。一階と二階に構造上の差はなく、階段のある側からでは一階に四つ部屋があってもさしつかえないくらいの空間が存在するにもかかわらず、二階の部屋数を下まわって部屋が設けられているのは、やや不可解だ。階段は表からも裏からも上れるようになっていて、二階の共有廊下にこしらえてある根元から侵食された鉄の柵、そのあぶなげなところに怖がりもせず平気で腰をあずけられるのは、自分の体重の軽さに自信があるからとかではなく、どちらかというと地面にたたき付けられようが、あたしの知ったことではないと言わんばかりのすさんだ様子だった。ボクがやってきたことに気がついた彼女は吸いかけの煙草を柵の向こう側に投げ捨て、挨拶もないままベニヤドアがかちゃりと開いたアパートの一室に、ボクを通そうとした。煙草をポイ捨てするという不道徳な行いについて咎めるつもりや嫌悪をあらわにするまでもないボクですら、その部屋の壊滅に近い散らかり様には、自分の目を疑わざるをえなかった。それはまるで空襲の爆風に吹き荒らされて荒廃した戦時下の廃屋、仮に百歩ゆずったとしてもヨークシャーの嵐が丘くらい悲惨な崩れ方をしている。ごみ屋敷のようにさまざまな物体が山積しているわけでもなければ、幽霊屋敷ほど気味悪くもない。あえて何かと言うこともできない不思議な空間だった。靴を脱ぐのをためらいたい場所に、ボクは仕方なく彼女に倣って、踵がつぶれた赤茶色のローファーに揃えて、自分のナイキを行儀よく並べた。廃墟の一室に足を踏み入れると、つま先から冷たい電気がほとばしった。ドラえもんに出てくるどこでもドアを本当にくぐろうとしたら、たぶん肉体が空間のゆがみに耐えきれないでばらばらに引きちぎれるのだろう。だとするといましがた感じた悪寒はその危険を知らせるために発せられた信号だったのかもしれない。このまま電話だけ放置して走り去るという方法もあったが、CIAのスナイパーに消音器付きでうしろから射殺される映像が、大脳基底核の裏あたりから鮮やかにフラッシュした。かなり怖気づいたボクは、全身の神経を張り巡らせた歩き方で部屋の奥へ入っていった。トレンチコートの持ち主である男や、保護者らしき人影は見あたらず、誰かと生活を共にしている形跡もない。建築上は六畳かそれくらいのこぢんまりした部屋だった。傾いたスチール外枠のベッドには、学生服を含めた衣類がめちゃくちゃに折り重なり、その対角線に位置する部屋の隅には旧式の録画機器が二台から床にダンボール一枚へだてて置かれ、その上にキズの目立つ白いステレオコンポと、さらにその上には超薄型液晶テレビが天守閣のように高くそびえていた。それらの家電に見合う数のコードが黒いヴィニールの被覆で長蛇になってこんがらがり、そのまわりをCDやDVDや音楽雑誌といったガラクタが、漏電を招きかねない量で散乱していた。彼女はもちろん家主であるため慣れた足取りでそれらを蹴散らし、ステレオの電源を入れると、古めかしくミッドブルーにぼやけて輝く小窓の表示をいじくりまわし、荒れにあれた円盤の山から心ゆくまで徹底的に探っていた。
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