献血ができない君はコンビニであえて現金支払いをする。現金で払えばおつりが出るからだ。出たおつりを募金箱に入れる。募金箱。昔は常にあったのに、今は不定期にしかない。君が小銭をじゃらじゃらと入れた募金箱には「熊本県地震被害への支援募金」と書かれていた。この前あった熊本県の大きな地震の被害を助けるためのお金。君のはした金が熊本の誰かの役に立つのなら、君は生きているのを許されたような気がする。君は熊本県に行ったことがない。どこかのアーティストが「ツアーでもお世話になっている熊本に」と多額の寄付をしていたが、君は熊本県に何のえんもゆかりもなかった。熊本県、と聞いて思い浮かぶのはクマモンと阿蘇山とアマビエくらいだった。熊本県にも君と同じような人はいるだろうか、と君は思う。きっといるだろう。君はごくありふれた人間だから。きっと熊本とは言わず四十七都道府県すべてにいるだろう。君は君のような人が、被災した時どんな気持ちになるのだろう、と思った。生きたい、と思うのだろうか。死にそうになると、生への欲求が強くなる、という。極限状態になればむしろ晴れやかな気持ちにすらなるのだろうか。君は地震を知らない。水害を知らない。避難生活を知らない。ただのうのうと生きている。台風が窓をガタガタ揺らすのを怯えながら見つめたことがあるくらいだ。雨風しのげる頑丈な家で飢えたこともなくぬくぬくと何不自由なく生きている。大怪我も大病もしたことがない。入院も手術もない。むしろここまで恵まれた環境にいる人間のほうが珍しいのではないかと思う。でも、そんな君も、そんな君のような人も、ある日突然災害に見舞われ、避難生活を余儀なくされることがある。でも君は偶然にもそうならずに生きている。それが君はひどく申し訳ないと思う。君がのうのうと生きていられるのはただの偶然であり、とても尊いことであることを分かっているからだ。変わってあげたい、と君はいつも思っていた。変わってあげたい。君はいつも思っていた。災害にあった人、交通事故にあった人、大きな病におかされた人、障害を負った人。変わってあげたい。変わってあげられたら良いのに。誰かが死んで悲しんでいる人を見ると君は思う。自分が代わりに死んでいれば良かった。どうして自分じゃないのだろう。どうしてあの人なんだろう。君はそれを人に話したことがある。そうすると、人は、君のことを、とても優しい人だ、と言う。でも君はそれを受け入れられない。優しい人間なら「変わってあげよう」なんて、「変わってやりたい」なんて、そんなおこがましい横暴な乱暴な横柄な考えなんて持ちやしない。「変わってあげる」だなんて、できもしないくせに、どうあがいてもできるわけがないことを、自分の力が、いや、たかが一人の人間の力が及ばない自然の摂理に対して、申し訳ないと思う君は、思い上がった傲慢な人間にすぎなかった。誰も君をそうやって責めたりしない。だから君は君を責める。誰にも責めてもらえなくたって、君だけは君を責める。そんなことは百も承知だ。
誰も君を面と向かって責めたりしない。君は本当に恵まれた環境で生きている。意地悪な人なんて誰もいなかった。たまにちょっとした嫌味を言われることがあったって、それで終わりだった。だからこそ、君は君を罰さなければならなかったし、君だけは君の敵で、君を許さず、君を怒り、呆れ、決して許してはいけなかった。君は君のことがとても嫌いだ。毎日鏡を見るのが嫌だった。どうしてそんなアホ面をさらしてぬけぬけ、のうのうと、生きていられるんだろう。この間抜けが。皆が君に優しい言葉を百かけてくれるなら、君は君を千罵らなければならなかった。何の病気も何の障害もないのに、君はいつも成績は真ん中くらいで、いや、むしろ真ん中よりも下寄りで、運動もできないし、喋るのもたどたどしく、遊びも下手くそだった。何をやらせてもだめ。ある意味才能だと思う。「何だったらできるの」と軽く笑われたことがあった。親に、友達に、先輩に、先生に、誰からだって、何回でも、不意に。それはいつだって、冗談めかして軽い口調で言われるのだけれど、君はひどく傷ついた。そして、傷つく資格など自分にはないのだ、と思った。だってそれはどうしようもない事実なのだから。絶望的に君は何もできない。料理も下手、物の整理も下手、頭も悪ければ、歌も音痴で、絵も描けないし、見た目が美しいわけでもない。君は何も持っていなかった。何も持っていないことだけは誇れるんじゃないかと思った。こんなに空っぽな人間は他にいるんだろうかと思った時、SNSを見るとそれを笑いのネタにしているような人を見つけたりもした。でも、君には開き直って面白おかしく文章にする能力もなかった。「あなたは持っているじゃないか」とSNSで自虐をしている人を見て、君は思った。君は作文も苦手だった。君は何をやらせても真ん中よりも少し下なのだ。でも、SNSを見ていると、面白みのない君のような人間だってたくさんいた。君はくよくよした人間を見つめる。勝手に分かった気になって、誰かの弱音や愚痴を見ていると落ち着いた。爪の中のゴミをとっている時のような、小さな安定だった。しかし、その人たちだって、君とは決定的に違っていた。なぜなら、その人たちは気持ちを文章にして世に放つことができるのだから。君にはそんな能力も勇気もなかった。自分が自分を許さないでいることや、自分を罵らなければならないことを誰かに見せることなどできなかった。そんなことはすべきでない。そんな資格はない。哀れみを求めるなんて、励ましを求めるなんて卑しいことはできない。そうやって他人を搾取する自分などあってはならなかった。許せない。何もできないくせに図々しい。
君はいつも生きていて良い理由を探している。生きていると、死ぬべき理由はいくらでも見つかるのに、生きていて良い理由が見つからない。死ぬべきだ、と君はいつも思っている。でも死ぬなんて怖いし、死ぬのは死ぬので迷惑をかける。君が空けた社会の穴を誰かが埋めなければいけなくなるし、どこで自殺したって、そこを汚してしまうことになるし、葬儀や埋葬にだって金がかかるし、君がどれほど駄目な人間だったとしても、身近な人が死ねば君の知り合いたちは皆心理的負荷を感じるだろう。嫌な気持ちにさせることになる。生きていても死んでいても迷惑になる。生きていても死んでいても役に立たないし、生きていても死んでいても邪魔だ。であれば、黙って生きているのが良い。波風立てないように、なるべくお荷物にならないように、足を引っ張らないように、そっと生きていく。そっと生きていきたいのに、結局君はいつだって失敗してしまって、お荷物になったり、足を引っ張ったりすることばかりだ。しかしながら、生きていれば小さな迷惑を延々とかけ続けるが、死ねば大きな迷惑を一撃かけておしまいだ。それなら死んだ方が良いのでは。ほらまた、死ぬべき理由が見つかった。死ぬべき理由はすぐに見つかる。生きていて良い理由はなかなか見つからない。四十七都道府県にいる、いや、きっとそれ以上にたくさんいる君は、今日をどうやって生き延びているのだろう。勇気がなくて、ついうっかり生きてしまっているだけに過ぎないのかもしれない。変わってあげたい、と君は思った。君は君なのに。きっと日本だけじゃなくて、世界中にいるのに。どこにでも、いつにでもいる。君は大人で子供で女で男で日本人で中国人でアメリカ人でイラン人で貧乏で裕福でどんなところにでもあらゆる君が存在している。どこにでも君は。そして、いつにでも君は。1998年で1975年で2026年で2011年で。いつの君もどこの君も、君を変わってあげることはできないのだ。君は君だから。君は君であって他の誰にもなれない。君たちは苦しみを共有することができない。君と君は知り合うことも分かり合うこともない。熊本の君は生きたいと思いましたか? そう聞くことすらできないでいる。君たちはこんなにもたくさんいるのに、いつもひとりぼっちのままだった。ひとりぼっちのままで、ただ息をしていた。ずっと近くにいるのに、ずっと遠くであったとしてもそこにいるのに、君はそれを知らない。君がそれを発さないから。君の中身を知っているのは君だけで、誰かに知ってもらおうなんて思わない。思ってはいけない、と思っている。そうやって君は苦しみを大事に大事に抱えている。ごくありふれた君の苦しみは、君だけの苦しみで、それは誰にも理解ができない。
眞山大知 投稿者 | 2026-09-19 14:28
この作品を読んでふと小学生の頃を思い出しました。1年生から6年生までのどの教室にも、文字どおりなにをやらせても中の下くらい子が両手では数えきれないほどいました。うっすらと顔は覚えているけれど、もう名前までは思い出せないそんな距離の同級生たちも当然いまは自分と同じ、ミドサーです。彼らが大人になったら、「君」のような人間になるのだろうかと考えました。何者にもなれないまま生きてしまった「君」たちへの憐れみを感じました。
大猫 投稿者 | 2026-09-19 23:23
この作品に出てくる「君」は、心優しい人で世界の不条理も自分の無力も分かっている人で、過度に自分に懲罰的になるのは、「こうありたい」自分と現実の自分が違うから。心の揺れがこれ以上ないほど繊細に描かれていて、息苦しくなるほどです。
とは言え、ここまで災害や戦争が続くと、平穏に幸せに過ごすのが申し訳ない気持ちになるのも確かです。「他人に迷惑をかける」ことを極度に恐れているのも、この頃の時代の気分を良く表現しています。
時代の絶望感を自分の中に落とし込んだ見事な作品だと思います。
浅谷童夏 投稿者 | 2026-09-20 00:56
主人公に寄り添いながら、一方で、どんだけ悩んでいるように見せても所詮他人事だろ、と突き放す。それを表現するために2人称視点を選択したのでしょうか。曽根崎さんの自問自答の孤独な厳しさに心打たれました。