と思ってたら蛾が俺の身体にのしかかる前にドアが開く音がしたので、目を見開いてそちらに視線をやると、俺がタバコを与えたあの老婆が立ってた。手にはナイフを持ち、ゆっくりとこっちに近づいてくる。老人にしては早い足取りで、老婆が急いで俺を救出しようとしてるんだって足りないオツムでも即座に理解できちゃった。老婆は俺の傍までくるとしゃがみ込んで、まず口をふさいでるガムテープを取った。「助けに来たのよ」「誰も頼んでねぇ。俺はこのまま蛾に殺されるのも悪くねぇと思ってるんだ」素直な心情を吐露すると、老婆の顔に微妙な表情の変化が浮かんだ。「若い者はもっと生に執着しなくちゃだめよ。さぁこの城から逃げるの」そう言いながらも老婆は手を忙しなく動かして、俺の身体に巻きついたロープを器用に切ってく。すぐに俺ちゃん自由の身になり老婆と共に立ち上がった。まぁ俺にとっては生きてるのも死んでるのも結局は同じことだから、この老婆に救出されて惰性の日々に戻ってくのも良いかもしれねぇじゃん。睡眠薬がまだ効いてるのか、俺の意識は少し混濁し、足どりもふらついて上手く歩けない。賢い老婆は俺の状況をすぐさま悟ったのだろう、肩を貸してくれて一緒にドアの方へ歩いて行った。蛾が飛翔し、俺の背後をすり抜けるように通過し、また天井にのぼっていった。今度は誘蛾灯じみた照明に止まり、こっちの様子をうかがってるようにも見える。ドアまでの道のりは遥かに遠く、砂漠という広漠とした場所であてもなく、あるのか無いのか分からねぇオアシスを探り当てるという行為にも似てた。でも砂に埋もれたあの世界ほど広大じゃねぇ、それに比べれば極小さなこの部屋という空間でドアまでたどり着くのは、俺の不安定な足どりでもかなり簡単だった。開け放たれたドアまで辿りつくと、老婆は俺の背中を押して廊下へと、この牢獄じみた部屋から脱出させて、その後で彼女もドアをくぐって出てきた。熱帯のような蒸し暑かった空間からひんやりとした廊下へと出て、俺は開放感を全身で味わっちゃった。老婆がドアを閉める時に蛾の化け物が名残おしそうに叫び声を上げる。老婆はポケットから鍵を取りだし、閉めたドアにそれを差しこんで、手首をひねり、完全にあの空間を施錠した。蛾の王様、蛾の神、蛾の総理大臣、そのどれかは知らねぇが、俺は奴の魔の手から逃れられたのだ。こんな気分の時にはウイスキーを飲みながら一服でもかましてみてぇもんだ。「急いで、あの二人が来る前にこのお城を出なくちゃ」あの二人、とは紳士とメイドを指し示しているのだろう、彼らはカメラで俺らのことを監視していたハズだから、逃走かました俺のもとへ飛んで来るにちがいねぇ。俺は老婆の言葉に従って生き延びるべきか、紳士とメイドに捕まって蛾のエサになるべきか迷ってた。難しい言葉を用いるなら、これって逡巡ってやつじゃん。まぁとにかく迷ってる暇はなさそうなので、とりあえず老婆の言いなりになって城を出ることに決めた。「私の部屋の床を開けると滑り台があるから、そこから海に出れるわよ」「海に出たあとはどうすんだ?」「透明な道のない裏側に出るから、泳いで浜辺に行くしかないねぇ」それは睡眠薬の名残が脳に作用して全身に気だるさを覚えてるいまの俺ちゃんには一苦労だろう。あの部屋でこの城の主人である蛾の化け物に食われた方が楽に違いねぇ。そう思考は告げてるが、俺の内にくすぶる本能なるものはまだ俺自身を生かそうとしてるのか、足が勝手に動いてしまった。理性と身体を引き離せたら、もっと楽に選択できんのかなぁ。俺は葛藤というほどでもねぇけど、確かに悩みながらも一歩、また一歩、前へ踏み出してく。螺旋階段を降りて二階にいけばあの老婆の部屋があるから、そこまで行けば俺は助かったも同然だ。生きるのは本当に心底から面倒くさくて、世の人間どもが希望を抱きながらも生きていく様には、同情と太陽を直視したときに眼球を刺すまぶしさを同時に感じちまう。俺はすべての懸命に生きる人々に憧れてたんだろうか、一般的な人間みてぇにお仕事なんて下らねぇ檻に捉われながら生きてみたいと思ってるんだろうか、もしそうだとしたら、俺の今まで築き上げてきた独自性が音を立てながら崩壊していってしまう。老婆も紳士もメイドも、あの巨大な蛾の化け物ですらも、生にしがみついて日々を過ごしてるのか、どうなのか分からずに、俺ちゃん軽く混乱状態。もし俺が死んだら墓碑銘には退廃という文字を刻みつけて欲しい。俺は自分の事だけしか見えてなかったんだ、ってここに来てようやく気付いた。みんなそれぞれに何かを抱えて生きてんだ、男も女も成功者と言われる人間もニートも子供も老人も天才と言われてる人間も平凡な人間も、後は……そうだな、昆虫すらも何かに苦悩しながら生きてるんだ、俺ちゃん視野がせまかったよ、マジでさ。もし生き延びて蛾の城から出れたら、俺は惰性に身を任せず懸命に生きるのも一つの選択としてありかなって思っちゃった。ああ、俺は日々をもっともっともっと楽しんで、他人と交流して生きるべきだったんだ、とこの時になってようやく悟った。つまりそれってクソニートマシーンからの脱却ってわけ。
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