だから正体がバーテンダーであると予想してる紳士に誘われても俺ちゃん絶対について行ったりしないんだもん、って決意を胸にみなぎらせる。「ちょっと海まで散歩しませんか?」タバコを吸い終わった紳士が、携帯灰皿にタバコの亡骸を押しこむ。俺はタバコをほうり投げて、いぶかしげな気持で紳士の顔を穴の空くほど凝視しちまった。海? なんでここで海という言葉が出てくるんだ。確かにこの場所から海は近くて、潮風が時折ふいてきて、俺の髪に塩分を送りこんでくるが、なぜこのタイミングで海に行こうとこの紳士は言いだしたんだろう。海ってことはバーテンダーじゃねぇのかな、俺が言えたことじゃねぇが、こいつは不審者で頭のネジがぶっ飛んでるのかもしれねぇ。俺が不審げな表情をブサイクなツラに浮かべてると、紳士は沈黙の壁、つまり俺と奴のあいだにある越えられない絶対的な隔たりを言葉という銃弾でつき破った。「ちょっと見せたいものがありましてね。なかなか興味深いものですよ」「そうなんだ……」俺はマヌケな返事をすることしかできなくて、哀れな捨て猫みてぇな気分で佇んでた。でも海にある興味深いものってキーワードが頭の片隅に引っかかっちゃってる俺ちゃんは、少しだけ興味をそそられた。ここから海まで歩いて十分の距離もねぇから、気軽に行けるし、辛かった酔いは完全に冷めてたから、俺は冷静な思考で紳士のセリフを何の意図があって海に誘ってるのか、金でも勘定するように脳内で計算、つまり比喩表現を並べ立ててみたけど、ただ単に思索の海に沈んでいただけだ。たっぷり十分くらい迷ってた俺を紳士は嫌な顔ひとつ見せずに我慢づよく待っていた。ここまで俺に関心を持ってくれる人間は今のところこの紳士しかいねぇ、他人が俺に抱く感情は嫌悪か無関心だが、この紳士は俺に好意、つまりは友愛の念を感じちゃってるんじゃねぇの。まぁ特にやる事もないし、昼夜逆転の生活を送ってる俺ちゃんはまったく眠くねぇから、紳士について行こうとして返事をした。「じゃあ行くよ」そう言うと紳士は極上の笑みを浮かべて俺のそばに来て両手で俺の手を握りしめてくれた。なるほど、これが友情というやつか、と勘違いしそうになっちゃった。んで俺らはそれぞれタバコを口に咥えながら並んでゆっくりと歩き出して、不健康そうな紫色をした唇のあいだから煙を吐きだしながらそれぞれの境遇について語りだした、ってのは冗談で、余計な口はきかず沈黙を守りながら歩いていた。と、二分くらい歩を進めたところで紳士はいきなり語り始めたから、こいつは自己顕示欲というか承認欲求が強いのかなぁと思ったが、そのセリフの内容は意味の分からないものだ。俺よりはるかに賢い奴なら理解できたのかもね。「私は現実と幻想の橋渡しをしてるんです」「橋渡し?」俺が疑問を口にすると紳士は丁寧に意味の分からない内容を噛み砕いて説明してくれた。「つまり私はあなたの日常を非日常へと移行する役目を果たしてるんですよ」なるほど、つまり僕ちゃんは愛すべき惰性に彩られた日常から危険を孕んだスリルのある興奮するような非日常へと旅立ってしまうのか、って勝手に結論づけちゃう。「あなたはこれから奇妙な体験をするでしょうが、あなたにとってそれは悪くない出来事です」奇妙な体験ねぇ、それはどんな楽しい超常現象なんだろう、心霊体験か、もしくはUFOが分厚い雲をつき破って俺をその光のなかに吸収し、何処か別の惑星に連れ去って、金属片を俺の体内に埋めこむんだろうか。その金属片が俺にテレパシーや透視などの超能力を授けちゃうんだろうか、って期待に胸が膨らみまくって、よだれが出そうだぜぇ。「それはそれは楽しみで仕方ないよ」って棒読みのセリフを返しても、紳士はその顔面にあつらえた冷笑にも似たほほえみを維持したままでいて、俺はその役者っぷりに驚愕しちゃいそうな気がしなくもない。彫刻のように端正な顔立ちの紳士には冷酷な微笑という表情が似合っていて、俺は同性なのにそのお顔に見惚れてしまう。自分は同性愛者でもなんでもねぇのにな。同性の尻を掘る経験が一体、俺ちゃんにどんな一滴の快感を与えてくれるんだろうって、得られるものなんて大したものじゃないか。でもバロウズみたいにホモになるのも悪くねぇと深く考えてる俺は、性同一性障害には無知のクズ野郎だ。バロウズの書く文章はどれも破滅的だが、その繊細な筆致は涙がにじみ出てきて頬を冷たい滴がつたうほど美しいって、これ俺ちゃんの主観、つまりは個人的な感想。バロウズやカートコバーンやルイスウェインみたいに破滅的な人生を歩むなんて俺にはできねぇ、俺はごく平凡なクソニートマシーンなんだ。でも今の日々に満足してる俺ちゃんの惰性に満ちた一日一日を宝石を絹の手袋で繊細にあつかうみたく過ごしてぇだけなんだけど、今まさに俺は愛情たっぷりの日常から冷酷そうな非日常へと意識がシフトしちゃってるのかもね。シフトしたらしたで、それすら楽しめるんじゃないな、そんな訳ねぇのかな、って頭が混乱状態の俺は機関銃で全身が蜂の巣みてぇに穴だらけになって薄暗い空洞からトロミみんあるあの舌に浸透していく甘いハチミツがこぼれ落ちるのを確かに知覚した、知覚したんだ。柔らかな肉を抉られ穴だらけになった俺の身体に風が吹きこみ、剝きだしになった神経にそよ風がそっと触れ、そこから鋭い痛みが全身に風呂敷のように広がってく。痛みは最初はゆるやかに、そしてすぐさま高速で白い神経を伝達していき、すさまじい速さで全身を駆けめぐる。あまりの激痛が身体を支配し、俺は苦痛に顔をゆがめて白目をむき、口から血反吐を吐いちゃいそうになる。でもでもでも、でもだな、俺はそんな痛みに友愛の念を感じてる、ってのは痛みは今ここで生きてるっていう紛れもないまっさらなリアリティだからだ。こめかみに銃口を突きつけて引きがねを引き、発射された弾丸が頭蓋を突き破ってゼリーみてぇな脳に風穴を開けてる場面を想像しちゃって、強烈な快楽の到来に失禁して俺の一週間も洗ってないパンツに半透明の液体が浸透していくんだ。俺ちゃんこれから先なにが起きるんだろうって期待の念に胸が躍り、実際にその場でハトのようにステップを刻みたくなって一歩、足をふみ出した。つまりは紳士の後にすさまじく遅々とした足どりでついて行ったってわけじゃん。俺ちゃんの緩慢であると同時に軽やかに羽を広げて空に飛び立ち雲もつきぬけて大気圏を突破し宇宙にまで到達しそうな勢いのあるステップ。誰にも踊れない俺だけのダンスを踊りたいわけだけど、俺はガキの頃、キャンプファイヤーで木の柵にかこまれた燃え上る炎の周りを奇妙な、いや奇怪な操り人形のようなダンスを披露した経験があるだけで、ちゃんとした踊りは知らないから、俺独自の独学の即興の踊りしかできねぇ。じゃあそれって誰にも踊れないダンスなんじゃねぇのかな、って一種の閃きのごとく俺の脳裏にそんな考えが降臨。降臨した閃きは神にも似ていて、左手にはナイフ、右手にはあの禁断の果実が握られていて、俺は神からそのナイフと果実を奪い、丁寧に器用に皮をすべて剥くと、カーペットのように繋がった一本の渦巻く皮が静かにアスファルトに落下。太陽から吐きだされた熱を内包したアスファルトは夜のひんやりとした風に癒されて、今はほどよい温度になってるから、擦り切れた靴を脱いで素足で降り立っても特に皮膚に害はねぇ。俺は両足を包みこんでいた汗の染みこんで腐敗臭を漂わせてるボロ雑巾のような靴を脱いで、アスファルトにゆっくりと足をのせた。まず足の指、それからカカト、そして土踏まずをおそるおそる亀裂の入りまくったアスファルトにのせていき、そのひんやりとした感触を感じとり、どこまでも続いていくレールのような道の先に満ちた暗闇へと足を進める。暗闇の奥にある亡霊じみた弱々しく揺れてる輝きに手を伸ばし、それを自分のものにしたいと願う。いや、亡霊じみたというより、薄暗い道の先にいるのは本物の亡霊かもしれねぇから、俺は好奇心に胸を膨らませてまた一歩前へふみ出す。紳士が先導するこの先には幽霊か悪鬼か宇宙人がいるのだろうか、そのどれかだとしたら俺の日常になにか異変が起きるのだろうか。紳士の後ろ姿が闇に溶けこんんで消えそうな距離を保ちながらも、俺は裸足で何とか着いてく。タバコは相変わらず美味くて、酔いが完全に冷めた俺はまたアルコールを摂取したくなり、あのどこにでもあるような味気ない外装をしたスーパーで不愛想な店員相手にウイスキーを買うべきだったと後悔してた。あの琥珀色の液体に俺は自分の人生をあずけて暮らしてるんだって思い出して、ウイスキーがなけりゃ生きていけない弱い生き物なんだっていう自覚はあるね。「着きましたよ」歩きタバコをしてた紳士はふいに立ち止まって、携帯灰皿にタバコの先端を押しつけて火を消すと、俺の顔を穴の空くほど見つめた。これって観察ってやつなのかなぁ、俺ちゃん紳士に子細に自分の惨めな姿をつま先から旋毛にいたるまで観察されちゃってるのかな。奴はすぐに俺に興味を失ったのか、前方に顔を向けて、もう俺の方に目はやらなかった。俺の紳士の背後にたどり着くと、紳士がそのガラス玉のような眼球で見つめている風景に視線をやった。そこには発光する海があった。というよりも、発光してるのは海じゃなかった。細かい粒が海の上を飛んでるから、それは蛍じゃねぇかと考えたが、蛍って海の上を飛びかう生物だったっけって疑問が頭ん中でパンクする。パンクするのは自転車のタイヤだけでいい、頭や胸まで悲しみという念が充満してそこを針で刺してパンクしたら破裂音がして粘液がふき出て、俺は悲しみに押しつぶされそうになっちゃうの。あの俺の愛車である自転車の車輪はもう回転せずに静かに駐輪場にそっと置かれてるだけだ。誰もあんなボロ自転車、盗んだりはしねぇだろうから、安心して俺は自転車を放置できる。スバルと名づけた俺の愛車は元は青いスプレーを塗布され装飾的な美しい艶やかなフォルムをしていたが、今では塗装が剥げて中の黒い色がむき出しになっている箇所が散見できる。もうあの自転車に乗ることはないから、あれはスクラップ行き一直線だ。ところで海の上に何か巨大な物体が見える。無数に舞う光の粒がそれを淡く照らしだしてるから、闇のなかに慣れてきた俺の視覚がその超巨大な物体の全容を認識というメスの切っ先で解剖する。その物体、というか建物の正体はマンションでも家でもねぇ、それは紛れもなく一つの大きな大きな〝城〟だった。漫画や映画でしか見た記憶のない芸術的な形をした城なんだ。何で海の上に城が浮いてんのかなぁ、それにあの光の正体は何なのかな、俺の内部でくすぶる謎は出口を探して昆虫みたいに蠢いてる。俺は驚きに目を見開き、口をマヌケに開けるっていう心底から馬鹿げた表情をしてたハズだ。例え夜空に浮かぶUFOや幽霊を目撃したとしてもここまで驚愕しなかなっただろう。実際に未確認飛行物体や幽霊を見た経験がないわけだから、実際には目撃したらしたで心の底から驚いて恐怖の念に駆られてその場から逃走かますのかもしれねぇけど。でも海の上に城って、馬鹿げてる超常現象の一種だ、未知の体験だ、って俺は混乱してキメの細かい砂粒が敷きつめられた砂浜の棒立ちになっていた。砂漠と砂浜の砂の違いは何なんだろう、ってこの状況でそんなどうでも良いこと考える余裕くらいはあるのよねん。砂についての考えなど、一端横に置いておいて、意識を海面にそびえ立つ城にもどす。よく観察したくても、薄暗いし、そこそこ距離はあるから、城の姿は把握できないが、超巨大だってのは分かる。これを見た人間はぶったまげで、警察に通報し、次の日には全国的なニュースになっちゃうんじゃねぇの。お綺麗な容姿をしたニュースキャスターが淡々と海の上にある城を映しだしたスクリーンに棒の先端を突きつけて解説を始めちゃうんだ。今日は曇りのち晴れです、って天気の報道をするくらい冷静に、キャスターは説明するのかな、それとも驚きを隠せず感情をあらわにしつつ、しどろもどろに解説しちゃうのかな。そんな思索に沈んでいるうちに、俺は夜風に頭というか頭蓋越しに熱を放っていた脳が冷やされ少しだけ、ほんの少しだけ冷静になれて、紳士に問いかけるだけの落ちつきは取りもどした。「この城は一体なんなんだ?」紳士はまたタバコを吸いながら、隣に並ぶ俺を見ながらあの冷淡な笑みを浮かべる。「なかなか素晴らしいでしょ」素晴らしい、ってか珍しすぎる、ってか答えになってねぇっ、て感じで、一回冷静になった俺の頭が紳士のボクサーの強烈なパンチのような一撃の返答によりまた混乱状態、ってか思考は混沌としちゃってる。なんて俺ちゃんは不様で哀れで繊細で優しくて心の機微に敏感な人間なんだろう。でも紳士の心情を察するのは今のめちゃくちゃに思考が入り乱れた俺の頭では困難を極める。紳士はタバコを上手そうに吸いながら俺と同じように城を眺めて、口から渦巻く煙を吐きだし、その排煙が薄暗がりに霧散していくのを俺ちゃんは横目で見ていて、何でこいつはここまで冷静でいられるんだろうって疑問に思ってた。疑問のオンパレード、疑問のパーティー、疑問のファスティバル、疑問の乱痴気騒ぎ、んで胸のうちがわから疑念の放出。紳士はこの城を見るのは初めてじゃない、何度も見た経験があるからこんなに冷静でいられるんだって答えに俺ちゃん行きついちゃったね。広漠とした砂漠を汗を濁流のように垂らしながらあてもなくふらついた足どりで歩き、乾燥した口に潤いを求めるためにオアシスを探し、ようやく辿りついたそのオアシスが蜃気楼だったって気づいちまった時におぼえる感情と似た気持を味わってた。つまり俺ちゃんは途方に暮れてたといっても過言じゃない。とにかくこの砂浜には場違いなスーツといった恰好をした紳士が見せたかったのはこの城なんだ。スーツの下には水着でも着用して、滑らかな光沢を発している服を脱ぎさり、海パン一丁になってあの城に泳いでいく、だなんて何て滑稽なんだ。この紳士はそんな真似するような男じゃねぇだろうなって、確信を抱いちまった俺ちゃんだけど、俺だったら好奇心に敗北して穏やかな波にゆれてる海を渡ってあの城まで行くんだろうか。まぁもっともっともっと冷静になるためにはアルコールやニコチンの力を借りたいけど、今はタバコしかねぇ。ウイスキーによる酩酊感があれば俺の現実感も薄らぎ、もう少しだけ冷静に自分の置かれた状況を俯瞰して見れんのかなぁ。とにかくだ、タバコを吸わなきゃ始まらねぇから、俺はあの愛すべき友情の念を感じてるアメスピを取りだしてライターで火を点け一服して、ニコチンを体内にとり込んだ。クソニートマシーン製造機であるこの世界はなんて残酷な空間なんだろう、って社会について考察できるほどには冷静になれたかもしれない。「蛾の城は朝になると無くなるんです。それに毎日見えるわけでもなく、誰にでも知覚できるわけじゃありません。この城を視覚情報として脳に伝達できるのは選ばれし者だけなんです」誰も質問してないのに、ぺらぺらと饒舌な口調で説明をはじめちゃう紳士のヤロウ。「蛾の城?」「あの城にたどり着けばその言葉の意味が分かります」俺の疑問に答えになってねぇ答えを返しやがるからナイフで目玉を抉って食べてやろうか、という衝動がわき起こったが、俺はそんな残酷なサイコパスじゃねぇし、ナイフは手元にねぇから止めておいた。ふと浜辺の片隅に何かが置いてあるのが見えたので、俺はそれに近づいてみる。接近すると、それがイーゼルに設置されたキャンバスだと理解した。ご丁寧にイーゼルの足元には筆、パレット、絵具も乱雑に交差するように置かれている、というよりも打ち捨てられていると表現したほうがぴったりじゃん。紳士も俺の後についてきてキャンバスの前にある円形の安っぽいイスに腰かけた。キャンバスはまだ何も描かれてない真っ白な状態だった。それを見た俺の脳裏に浮かんだのは故郷である極寒の地に降った綿毛のように柔らかな雪の映像だった。奴は背広を脱ぎ、それを仰々しい仕草で砂浜に落下させると、パレットと絵筆と絵具を手に取り、絵を描きはじめた。黒い色をした粘液をチューブから糞のようにパレットにひり出し、海水に溶かして薄めてから滑らかな曲線を想像させる筆に浸して、数度うごかし絵具を毛先に絡める。んでキャンバスに勢いよくそのブラックホールじみたすべてを飲みこむような色を殴りつけるようにして線を引いた。それは豪快な筆致の書道による線にも似た野太い筆致だった。んで俺ちゃん絵の知識なんてさっぱりこれっぽっちもねぇが、この紳士が遠近法などの基礎的な知識を無視して何かを描こうとしてると分かった。何を描こうとしてるのか最初は疑問だったが、俺はちょっと思うところがあり、こいつはあの絵を描こうとしてるんじゃねぇのって予想しちゃったね。一筆、一筆、豪快に酒でもあおる様に、力づよく、かつ繊細にキャンバスに筆をのせていく。そして線が徐々に組み立てられ、俺の予想は的中してたんだって確信の念に変わる。その線が造形してるのは恐らく海の上で堂々たる体躯を見せびらかしてるあの城だろう。でも絵が下手すぎ、というより前衛的すぎてかろうじて城に見える程度だ。黒だけで他の色は使ってないけど、ここから見る限り薄暗くて確かに城は漆黒を外装に塗りたくられてるようにも思える。でも近づいたら別の色に見えるんじゃねぇのか、ただ今が夜だから黒に見えるだけじゃねぇのかな。でも紳士は満足そうに完成した城の絵を舌なめずりしながら眺めていた、っていうのは冗談で舌なめずりはしてねぇ、けど何かをやり切った男の顔をしてる。そしてまた俺からライターを借りるとタバコに火を点けて、一口も吸いもせずにその先端をキャンバスに押しつける。白い布の一部に小さな小さな穴が空いた。これで本当に完成なのか、今タバコを押しつけたのが最後の仕上げなのか、って質問してみると男はまだまだと答えて突然立ち上がった。ワイシャツの至る箇所には飛び散った黒い染みが浸透していて、あのイカしてたスーツの似合う紳士の姿を滑稽なものに変化させている。と、とつぜん男はキャンバスに向けてこぶしをくり出した。キャンバスの一部に奴のこぶしがめり込み、板がひん曲がるから、紳士はかなりの力の持ち主なのかもしれねぇって思った。いやいや、キャンバスくらいだったら俺の小動物のように貧弱な力でも一撃で曲げられるんじゃねぇの。紳士はイーゼルからキャンバスを傲慢に奪い取ると、それをめちゃくちゃに折り曲げたり肘で突いたりして、さらに砂浜に叩きつけて、靴底で何度も何度も踏みつけた。城の絵が描かれてたキャンバスは見る影もなくただの残骸となって海岸という棺に収められちゃったんだ。男は荒く呼吸をしながらその場で膝を突いて、一仕事やり終えた会社員のような満足げな表情をすると、額の汗を絵具の染みついた袖でぬぐう。その時に彼の顔に黒い液が付着した。この紳士はかなりの異常者だって、小心者の俺は、こいつについて行くべきではなかったんじゃねぇの、ってちょっとだけ後悔しちゃった気がしなくもないね。でもまぁこれ良い経験になって俺がこれから生きるための小さな糧の一つになるんじゃねぇのって、なる訳ねぇか。「これで私の芸術は完成です」紳士がそんな言葉をほっそりとした唇のあいだからノイズのように垂れ流す。そのセリフはとても満足げな、ワイルドターキーの瓶を一気飲みしたみてぇに、これ以上ないくらい満足感に満ちた声質だった。いやいや、誰もあんたの芸術に関する考察なんて聞いてねぇから、でも俺はそんな想いをセリフに出来ずにタバコを取りだして口に咥えるだけにとどまった。ゆっくりと火を点け、アメスピライトの草を燃やした自然の味と香りを堪能しちゃうから、目の前で紳士の奇行を見たとしても、俺はまだ冷静でいられるんだって嬉しくなっちゃった。タバコが美味いからっていうのも俺の精神の手助けとなっていのかもしれねぇ。アルコールが脳に到達してれば、もっと余裕でいられたのにな、でもウイスキーはここにはねぇ、だからウイスキーが恋しくなっちゃった俺はボウモア、アーリータイムズ、グレンリヴェットなどの美麗なデザインをした瓶の映像を思い浮べちゃって脳がその妄想により軽く痙攣したのを感覚神経を通して感じとった。ああ、あのグレンリヴェットのシロップのような甘さが舌にやってきてその後にフルーツのような余韻を感じられる味をあじわいたいよ。香りも豊かで、ピート臭はあまりしねぇからウイスキー初心者でも気軽におすすめ出来る素晴らしいスコッチだ。いかんいかん、想像してらた強烈に飲みたいって渇望が押しよせてきて、それは砂漠をあてもなく歩いて汗を流しまくって身体中の水分が失われてしおれた花のごとく干からびたて皺くちゃになった皮膚に潤いをあたえるためにオアシスで水をがぶ飲みしたい時にも似た飢えた感情に違いねぇ。「今ならまだ蛾の城は消えないで存在してます。もし行くなら今がチャンスですよ」蛾の城なるものを眺めていた俺に紳士がそんなセリフを注ぎこむ。俺は確かに、あの城の正体が何なのかに惹かれていた、けど海を泳いでいくほどの気力はねぇし、服で泳いだら溺れちゃうだろうからちょっと怖いし、この紳士の目の前で裸になるほど羞恥心を捨てちゃいない。いややっぱ訂正、捨ててる捨ててる捨てちゃってる、俺はこの紳士の前で平気で全裸になれちゃう。「でも泳いで渡るなんて面倒くさいね」「もうすぐガラスのように透明な道があらわれます。それを歩いて渡ればいいでしょう」しばらくぼんやりとしてると紳士が怪鳥のような奇声にも似た声を上げた。「道があらわれました!」城から浜辺にかけて何かキラキラとした光がレールみてぇに通ってるのを俺ちゃん知覚しちゃった。これが紳士の言ってたガラス細工みてぇに透明な道なんだろうか、月光を反射してキラめいているから輝いてるのだろうか。「では私の役目もこれで終わりですね」紳士の方に目をやると、奴の姿は夜の闇に溶けこむようにしてゆっくりと消えた。浜辺に脱ぎ捨てられた背広だけが確かに紳士が存在していたのだと証明してる。幽霊、宇宙人、悪魔、そのどれかなのか、あるいはもっと未知の存在なのかは分からねぇけど、不思議な奴だった、って片づけられるほど俺は現実感というのものが自分から遊離して己の置かれた状況をやけに冷静に俯瞰して見ていた。とりあえず残された俺はちょっとだけ紳士がいなくなって寂しくなった。だってあんな面白い人物、俺の長いような短いような人生で一度も会った記憶がねぇんだもん。あいつはバロウズのように同性愛者で俺の毛の生え放題の尻を掘りたかったんじゃねぇの、って勘違いしちまうほど親しみの感情をおぼえた。その感情は薄い膜を張った球体をしていて、針の先端で刺すとウイスキーが噴出し、俺はそれを舌で受け止めて恍惚とした表情を浮かべちゃうんだ。愛すべき紳士の正体について考えても考えても答えはでないし、最初から答えなんて薄暗い深淵の底に沈殿してるから、この汚れた手ではすくい取れないだろう。俺はあの紳士と友達になりたくて、また何処かでいつか会えたらなと望んでいて、でも俺の目の前には奴は一生あの細身のスーツ姿であらわれる事はないのだろうと気づいてもいたから、それが苦しくてなんか切なくて、俺は自分の脂肪にたるんで剛毛の生えた胸をおおう服に手をやった。これは邂逅って言葉がぴったりなほど感傷的になっちゃってる俺ちゃんにこれから先襲ってくる出来事に思いはせる。想像という名の一つの網に捕えられた俺ちゃんは、身動きしようとしても上手く手足を動かせなくてもがく、というかのたうつしか出来ねぇのよ。紳士の確かな優しさに触れた俺の乾燥した精神に潤いがあたえられ、俺は人と接するのを心底から望んでいたのだと自覚させられずにはいられない。孤独を愛するとかのたまっておきながら、人肌のぬくもりを渇望していたのかよ、俺ちゃんともあろう物が。といってもやっぱり一人は良い、と誰もいなくなったキャンバスの残骸だけが残った海岸で棒立ちになりながら考えていた。俺は孤独に飼いならされ一人という時間に精神が麻痺し鈍感になっていたのかもしれねぇけど、別に不自由じゃねぇ。俺はこれ以上ないくらいどん底だが、自由の身で、夜空を滑空する巨大な羽を広げた鳥みてぇに羽ばたきてぇ。夜目がきくようになった俺ちゃん、暗闇に視覚が慣れて物の形が鮮明に見て取れるようになった俺ちゃん、暗い水底に精神を沈みこませて窒息しそうになるまで静かに息を止めてる俺ちゃん、どれも紛れもなく俺自身だ。どんな俺だって俺なんだって声を張り上げて、下らねぇクソ食らえな人間どもにわめきちらしたい。紳士と会いたいという俺の願望はバターみてぇに溶けて、香ばしい匂いを辺りに立ちのぼらせ、ドロドロになった願望を食してノドの奥に熱くなったそれを流しこみ、胃袋におさめて胃液と絡めたい。んでもって胃袋は風船と風呂敷の中間のような材質をしている滑らかなものであり、その中に染みわたるバターはやがて腸へと移行してき、蠢く腸を通過しながら糞へと変化し、肛門からおびただしい量の下痢便が排出される。浣腸器で肛門の奥に密生した直腸を刺激するのも乙なもんだ。大量の糞を光を反射した綺麗な皿に盛りつけて、銀色のスプーンですくって口内に運び、そのまろやかで苦味と酸味を内包した糞を優雅に食す俺ちゃん。糞が歯にこびり付き、悪臭に涙が出そうになるのが嬉しくて、俺は箸を進める、じゃなかったスプーンを進めて、食いに食いまくる。すると胃からせり上がった吐き気がノド元からこみ上げてきて、嘔吐物と微細な砂が覆われた大地にぶちまける。砂からクソ混じりの嘔吐物が浸透していき、乾いた大地にゆっくりと染みわたっていく。俺は自殺を考えてた過去もあり、今現在でも自殺という名の血で濡れた手が俺の腕をつかんで薄暗い洞窟に引きづりこもうとしてるから、それをふり払うために全身全霊で逃走かまさなきゃならない。つまり自殺と糞は同種の存在だって訳で、俺ちゃん衝動的に自殺を選ぶ未来が待ちうけているわけないじゃんって感じ。ここで現実に意識を戻そうとするが、俺の現実は鮮明な色彩感覚をなくし、幻想じみた景色へと赤い血が黒い染みに変色するように変わってしまってる。蛾の城と紳士が言ってた大きな大きな建物はまだ海の上に存在していて、俺を手ぐすね引いて待ちうけてるみてぇだ。俺は好奇心に完全に敗北し、意を決して砂浜を歩きだし、透明な道があると思われる海岸の縁に向かった。恐る恐るキラめく場所に足を乗せると、冷ややかな感触が俺の素足に跳ね返ってくる。俺は少しだけ驚いちまったが、海の上にある城を目撃した時の驚愕には勝らない。俺は非現実にわずかに慣れてしまっていってるのかもしれねぇと思った。一歩、一歩、足を進めるごとに少しずつ城の輪郭が鮮明に見えるようになってくるから、俺はまだ盲目ではないこの眼球で、物事をまっさらに直視できるんだ。あくびをすると眼球から涙がにじみ出てきて、その液体は被膜のように優しく目玉を包みこむ。俺はいま惰性という名の日々から乖離し、非日常である城へと、確かに紛れもなく足を進めて、そのすべてを飲みこんでしまう胃袋のような内部に身体をすべり込ませようとしてるんだ。んで城の内部はどうなってんのかな、複雑に入り組んだ迷宮のように部外者をまどわす仕組みになってんのかな。まぁそれは入ってからのお楽しみってわけで、俺の胸には恐怖と期待がない交ぜになって渦巻いてる。俺はガキの頃につくった模型の城を想起してた。あのピンセットで接着剤を使って作り上げる小さな小さな城、けど造形はしっかりと本物の城のように壮大で美しい。ガキの頃は親に叱られっぱなしなやんちゃ坊主、ってのは冗談で俺は読書が好きな友達の少ない内向的な性格だった。厳しかった親の影響により俺は卵の殻みてぇな脆い部屋という城に閉じこもって読書という幻想の世界に逃げ込んでたのかもしれない。でも読書は俺に胸躍らせるような体験を惜しげもなく提供してくれて、俺は甘露のような禁断の味のするそのしたたる汁をすすって生きていたのかもしれねぇ。様々な思い出がフラッシュバックして俺の視界をくらませて、未知なる世界へ意識をひきずり込んでく。五分くらい歩いてると城の近くまで来たのが分かった、てぇのは城の周りを舞っていた光の粒の正体が、燐光を放つ色鮮やかな羽根をした蛾だと可視できたからじゃん。
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