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クソニートマシーン4

クソニートマシーン(第4話)

三沼薫

ニートの主人公が謎の城に迷いこむ作品です。

小説

11,696文字

その蛾の大群は城を誘蛾灯に見立てて、そのそびえ立つ鉄製の建物の周りを舞いながら、線状の光輝をまき散らしてる。その輝きが彗星に似てると思った俺の脳の回路に装着された歯車は、これ以上ないくらい狂ってる。俺を照明の光だと勘違いしてるのだろうか、無数の蛾が俺の悪臭を放つ身体にむらがってきたから、俺は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ自分も発光してるんじゃねぇのかって勘違いちゃう。けど蛾は俺の全身が輝いてるからむらがってきたんじゃなくて、鼻をつんざくような体臭に誘われて俺の周囲を舞ってるのかもしれねぇ。蛾は俺の服にとまってしずくのような光を垂らしながら羽根を休めてるようだ。気色悪いという気持ちはわき起こらなくて、ただ可愛らしいという感想が浮かび、俺は一匹の蛾の羽根をつまんで持ち上げると、そのメタリックな肢体をながめた。なんて艶やかで滑らかで統合失調症の患者が描いたような微細に入り組んだ模様の羽根をしてるんだ、とても美しいし、産毛のようなものが密生してるしで、何だか食欲をそそられた俺ちゃんはその虫を口にほうり込んで咀嚼した。柔らかな毛皮のような食感の次に押しよせてくるのは、硬質な関節の食感だ。俺は十分に蛾を噛んで味わうと、その苦味と酸味に脳天を突きぬけるような快感が足下から膝、膝から腹、腹から胸へとせり上がってくるのを感じて、全身が打ち震えて、これはウイスキーを飲んだ時に身体という檻から意識が解放されるような強烈な快楽に似てると結論づけちゃった。俺の身体に糊のように貼りついた無数の蛾を次々に食べていって、身体から一匹の蛾もいなくなるくらい満腹感に満たされて、腹が膨れるくらい食べてしまった。すると何と胃が内臓されてる俺の身体の内部が小さく発光してるのが分かった。あの大量の蛾を一匹残らず食べたから、俺の胃は光輝いてるんだろう。俺は不思議な現象だと思ったが、別段おどろきもしなかった。ただ俺の興味は胃の中で胃液によって溶かされてる蛾からまた城へと移った。相変わらず傲慢に高慢にこちらを見下ろしてる城が、もし人間の女だとしたら、他者を見下すような性質をその内部に含んでいるんだろう。俺は城を新品の綺麗なシーツに包まれた柔らかなベッドという海の上で抱きたくなった。熱い抱擁をかわし合い、その来るものをすべて拒むような扉に口づけをして、窓をたたき割り、そこに俺の自慢の太くて長いチンポコをぶちこみたいんだ。窓から雨のようなおびただしい量の愛液を垂らした城は悲鳴のような、いや絶叫に近いあえぎ声を上げながら身体をくねらせて俺の意識にしがみつくんだ。城の内部にある子宮という名の部屋にねばついた精液を発射し、子供の種となる白濁した液体が水晶のように透明な部屋の様子を鮮明に映しこむ卵子に付着して子供をみごもるんだ。したら俺ちゃんと城は晴れて結婚し、夫婦の身となって、互いに互いを思いやり愛を育んでくんだろう。たまには夫婦げんかもするが、最後には仲直り、ちゃんちゃんお終い、ジ・エンド、ハッピーエンドってわけ。城と俺は共働きで、でも関係性は冷めなくて、恋愛感情から性欲抜きの愛情にまで及ぶって感じ。パートに出た城は夕方に帰ってくると、夕食の準備をしてくれて、愛情たっぷりの料理に舌つづみを打つ僕ちゃんの魂はあまりにもの美味さに昇天しちまいそう。城が孕んだ胎児は彼女の胎内で成長し、赤ん坊へと変質してくのが嬉しくて、俺ちゃん胎教に精をだしちゃう。やがて産婦人科の個室のベッドの上で叫び声を上げながら、必至で赤ん坊をオマンコからひり出そうとする汗まみれの城の手を握り出産を応援する。頭が膣から出てきて、ヌルリとした体液と共にその毛の生えてない艶やかな光を反射する頭部がゆっくりと顔を覗かせてくる。そして次に大きな頭とはアンバランスな小さな身体がするりと流れでてきて、母である城とへその緒という柔らかなロープで結ばれてるから、医者はそれをハサミで切り、母と子を分離させ無事、出産は完了ってわけさ。その赤ん坊が産声を上げて貼りついた羊膜をその矮小な身体をゆさぶり破ろうとしてる。いや、その生命の誕生を象徴する鳴き声だけで羊膜という殻を破ろうとしてるんだ。そんな妄想を頭ん中に巡らせてる内に俺は城の扉の前にたどり着いちゃった。間近で見ると城はでけぇのなんのって、高層ビルほどもあるんじゃねぇの、ってそれは大げさにすぎるか。高層ビルよりは小さいけど金持ちの邸宅よりはでけぇ。城の背後に回って外壁をじっくりと観察してみてぇけど、城の周囲に道は続いていないらしく、俺の足元の光輝く道は扉の横からは細長くうねる蛇の身体のようには伸びちゃいねぇ。俺は仕方なく城の背中に回りこむのは断念して扉に手をかけた。ひどく重い扉だなってのが、手のひらに伝わる重量感を覚えて浮かんだ最初の感想。俺は懸命に扉を押そうとするが、扉はまったく動じずに俺の前に立ち尽くしてる。いや、立ち尽くしてるのは僕ちゃんの方だ。路頭に迷った傷だらけの子猫みたいな気分になり、俺は一瞬だけ引きかえして何事もなかったかのように家に帰ってウイスキーを浴びるように飲もうか、という考えにとらわれた。あの住み慣れた部屋のすわり心地の悪いソファーに身を沈めて、ウイスキーの蓋を開けグラスに注ぎ、砕いた氷も入れずにストレートで飲む、って生活に戻るべきなんだろうか。いま引きかえさなけりゃ、俺は永久にこの城の内部に飲まれて、一生外には出れずに城の中で暮らすハメになるんだろうか。そんな恐怖、というより、惰性に満ちた日常に対する愛にも似た執着が、胸のうちがわの液状の心がある箇所にこびり付いて取れない。執着という感情は俺の精神に溶けこみ、アイスが氷解するようにして固形だったものがほどけて液体になり、無意識という深淵に落下して見えなくなる。底の深すぎる深淵だから、アイスの落下音はまったく聞こえねぇし、底にぶつかった時に飛散する様も見えねぇ。俺は精神を病んでるんだろうか、だからこんな幻覚じみた体験をしてるんだろうか、でも俺は今はシラフのシラフ、まったく酔ってねぇから正常に物事を判断できるハズなんだが、不可思議な体験の連続でちょっと混乱しちゃいそう。と、あれほど押しても引いてもダメだった扉が金属がきしむ音を立てながら自動的に開いた。扉は内側にではなく、外側、つまり俺の立つ方へ向けて開いたんだ。まさかの自動ドアかよって思って立ち尽くしてると、城の内部に灯りがともってるのが可視できた。この自慢のお目々に繋がった視神経で視覚情報を脳に送りこんじゃったんだ。俺は何の躊躇いもなく挨拶もせずに城のなかへ足を踏み入れた。外は熱気を孕んだ風が吹いててクソ暑かったけど、城の内部からはひんやりとした空気が漂ってきて、それは俺の毛穴から体内に入りこみ、身体の内側から熱気をふき払ってく。こんなクソ暑い夜にはウイスキーより生ビールを一気飲みした方が美味いのかもしれねぇ。あの炭酸を含んだ液体がノドを通過し、胃に流れこみ細胞の渇きを潤して、その次に爽快感が脳細胞に押しよせてくるハズなんだ。生ビールの味を思いうかべちゃった俺は、これから居酒屋に行ってジョッキに入った泡と液のバランスがほどよいビールを飲みまくりたくなった。この城にはビールやウイスキーはあるんだろうか、って妄想しちゃって、もしあるなら冷蔵庫のなかに大量にかつ規則的なバランスで並べられた缶ビールの群れから一つ手に取って、プルタブを開け、プルタブが開く時に立てる快音を耳にして、缶をかたむけて一気飲みしたいな。まぁこの城の構造に関して俺は無知だし、ただの歓迎されてない侵入者なのかもしれねぇし、いや城は俺を歓迎してるか。だってそうじゃなきゃ扉が自動的に開くだなんて事態、起こらないだろうからだ。つまり俺は来るべきしてこの城に到達し、あの紳士と遭遇したのも偶然ではなく必然、それって運命ってやつじゃん、って電撃が頭に走るように閃いちゃったね。あの紳士の正体についてもう考えることはないだろう。俺はただ無遠慮に、傲慢とすらいえるほど堂々と、城の中を進んで行った。赤いカーペットの上に舞い降りた俺ちゃんは素足でその羽毛のように柔らかな、いや赤子の肌のごとく柔らかな布の感触を楽しんでいた。なんて繊細で優しい感触のする絨毯なんだろう、って考えながら一歩、また一歩、足を進めていく。内部はとても広く天井も高くて、螺旋状の階段がいくつかあり、ここから見上げると三階建てだってのが分かる。階上から人の首が軽快な音を立てながら転がり落ちてきたきたら面白れぇのに、階段は重苦しい沈黙を守ってるだけだ、というか城全体が沈黙、という一種の意思表示をつらぬき通してるようにも思える。壁を観察してみると、幾何学的でやけに装飾的な模様が彫られていて、それは人が槍や剣をかまえてる絵だと分かる。何かの道具で器用に掘ってる人間の映像を思い浮べて、そんな想像バカバカしいと感じですぐに思考を中断させる。誰が彫っても、動物がその鋭い牙を赤い歯茎の奥からむき出しにして、その先端で肌に傷をつけるようにして彫ったとしても俺には関係ねぇ。誰が彫ったかじゃなくて何が描かれてるかが今の俺にとっては重要なんだ。高名な芸術家が彫ったかのような一種の絵画ごときその模様を見つめてると、俺の眼球がくるくると惑星が自転するように回りそうだ。回りすぎて回りすぎて速度が上がりまくり、俺は目を回しちまいそうで、ぐるぐるぐるぐると天井や壁が回転してるかのような錯覚に陥るが、それはただの錯覚でしかないから、俺はウイスキーで二日酔いした時に感じる吐き気をもよおさなかった。まぁこの城自体が一種の芸術品なのかもしれねぇな、ってまだ城を探索してもいねぇのにそう結論づけちゃう俺はちょっと気が早い。ついでに言うと射精するのも早い早漏のバカのクズのクソニート、いわば機械みたいに生きるクソニートマシーン。まぁそんな御託はどうでもいいから、まずは迷宮みてぇなこの城を探索しよっか。気になる個所がありまくり、香ばしい匂いのする台所とか、イカした壁紙の客室とか、豪華な食卓とかがあるんだろうか。台所ではどんな料理を作って食卓に並べるんだろ。金属の表面のような水面をした鉛色のスープでも出されたら、溶けた金属みてぇな味がするに違いない。俺はそれをスプーンで丁寧に飲み下し、強い苦味とノドチンポに絡みつく感触をスプレーで吹き払うみたく、綺麗な天然水で流しこむんだ。その後に豚の頭がテーブルに滑らせるように執事が出して、俺はそれを丸かじりして、美味な肉の味を堪能しまくっちゃう、しまくっちゃうんだ。咀嚼した豚肉は舌に密生する味覚神経に浸透し、神経を介して脳に味という感覚が怒涛のように流れこむ。満腹するまで肉を食べて食べて食べまくり、腹がふくれる頃になるとゲップを一発かます。同じ食卓についてる奴がいたとしたら、テーブルマナーを無視した俺ちゃんに対して不快感をその高貴なお顔にあらわにするだろう。俺は神経が病んでる夢遊病者ではなく、食欲を満たすだけに特化した獣じみた人間の一人でもなく、理性をかなぐりすてた人間でもなくて、か弱き一人の男の子、っていうには歳を取りすぎてる。食欲旺盛な十代の頃の気持ち、ってか青春を回想して、あの時は食欲だけではなく睡眠欲も性欲も膨大だったなって思いをはせる。あの頃に付き合ってた彼女はどこでもセックスをやらせてくれるスケベ女、貞操という概念の欠片もない変態女、ではなくガードの固い普通の女の子だった。セックスに至るまでに手をつなぎ、じっくりかけてキスまでいき、ようやく家に呼んでセックスをした。そこに辿りつくまでの過程が大変だったって、淡くもほろ苦い思い出があるから、俺はもう女と付き合ったりはしねぇ、って決心しちゃったのが二十代の時。セックスは確かに強烈な快感を俺に惜しげもなく与えてくれたが、もう女に束縛されるのが面倒なのよ、マジでさ。自由気ままに孤独という日常を楽しみたい俺は恋人はおろか友達さえもいらねぇって考えてる孤高の男、って自分に酔ってる節すらある。自己陶酔してる俺は酒でも飲んでないのに恍惚とした気分になれるんだ。って脳汁に思考を浸してると階段の上から足音が響いてきた。人影は螺旋階段をぐるりと回って俺の前にその可憐な姿をあらわし、うやうやしくお辞儀をした。「ようこそいらっしゃいました、お客様」その人物は可愛らしいメイド服に身を包んだ少女だった。長い髪は頭長でたばねられいて、背中まで垂れ下がるポニーテールが振り子のように揺らめいている。そして俺にその太陽のごときまぶしい微笑みを投げかけてきちゃって、俺ちゃんこんな小動物みてぇに可愛いメイドに胸がときめきそうだ。でも俺はそう簡単に異性に惚れたりはしねぇ。性欲が枯れちゃってるから、内面のわずかな動揺を顔に出しはしなかっただろう。つまりは無表情という表情をあつらえるっていう冷淡な振る舞いをやってのけちゃったの。だがメイドは俺の反応など意に介した様子はなく言葉をつづける。「今から客室に案内しますのでついて来て下さいね」語尾に音符マークでも付きそうなほど軽やかで耳心地のいい声音に、俺はちょっとだけ気分がよくなって来たが、それはウイスキーを飲んだ時に感じる酩酊感には到底勝らないと気づいて、俺はなんて女に興味のない人物なんだろうって自戒にも似た感情を胸のうちがわに宿しちゃった。メイドはというと、俺の返事も聞かずに身をひるがえらせ、その時にスカートが羽毛のように舞って中のパンツが見えそうで見えないっていう焦らしにもどかしくなっちゃうのは若い印なんだろう。けど、俺は特に何とも思わなかったし、別に下着を拝もうとしてスカートを覗きこみもしなかった。階段に二人分の足音がこだまし、それがある種のリズムのように規則的に響きわたるってのは冗談で、俺は素足だから足音は響かずに、メイドの足音だけが一階に下りてくる時のように鳴った。訓練されてるのか、やたらと優雅で上品な動作で階段を昇ってくメイドの後をゆっくりと追いかける。一応メイドは俺を気遣ってるのか、その足遣いは軽やかだが、ゆるやかで、俺が遅々とした足どりで進んでも距離は離れない。やがて二階に到着し、今度は長すぎる廊下を二人で歩きだした。廊下の角までたどり着く前にメイドは動きを止め、普通の部屋のドアの大きさと変わらない木製のドアの前でうやうやしくお辞儀をした。「ここがお客様の部屋でございます。好きなだけいて下さいね」「ああ、ありがとう」俺がここに来ることはまだ見ぬこの城の主人にとっては織りこみ済みなのか、メイドが俺を丁寧に客人として迎え入れてくれているのがその態度から丸わかりだ。ドアの前で立ち尽くし手持ちぶさたな俺を置いて、メイドはさっき来た廊下を戻って行った。俺はひとつため息をつくと、ドアノブに手をやって部屋の内側にドアを押しこみ、その汗で湿ったシャツに覆われた身体をすべり込ませた。俺が身を投じた場所は真っ暗闇で、まずスイッチを手探りで探さなきゃならなかった。見事スイッチを見つけてそれを指先で軽く押すと、照明の光が灯って室内の全容があらわになった。ビジネスホテルにあるものよりかなり大きなベッドで、シーツは新品なのかとても艶やかな質感をしていて、壁紙は青空のような色で開放感があり、木製のテーブルとイス、それにこの広い部屋にしては小さく見えるが、俺のボロアパートにあったら結構大きな冷蔵庫がひとつあった。なかなか気のきいた良い部屋じゃん、ってのが俺ちゃんの率直な感想で、まぁ欲を言えばエアコンがないのが残念だけど、室内はほどよい温度の過ごしやすい環境だった。俺ちゃんまず冷蔵庫の中身を物色するため、そのうなり声を上げる冷蔵庫の上部を開けた。中には缶ビールとチーズしか入っておらず、冷凍庫には氷が入ってた。この部屋には他には何かねぇのかなって思いながら室内を見回すと見落としてた棚が見つかった。ガラス張りの棚の中にはウイスキーとナッツの袋が置かれていた。俺の好みを完全に把握してるこの城の主には感謝の念が絶えない。ウイスキーはマッカランとホワイトホースの原酒であるラガヴーリンという値段の張るウイスキー、それに何故かカティーサークという安ウイスキーがあったが、俺はカティーサークもかなり好みでよく買うから何も問題ねぇよ。ノドが渇いてた俺はとりあえず高いウイスキーを常温でストレートで飲むんじゃなくて、カティーサークをオンザロックで飲もうとして、ウイスキーの横にあったグラスとカティーサークを取りだして、冷蔵庫から氷を持ってきてまだ誰も寝たことがないとおぼしきベッドに腰かけた。ソファーが無いのがちょっと残念、あの古馴染みの安物のソファーに身を沈めながら飲むウイスキーとの時間が掛けがえのないものだったけど、今はこのベッドで代用しよう。んでグラスに不揃いで透明な氷を入れ、氷とグラスがぶつかり合う快音に喜びを覚えちゃって、そしてお待ちかねのウイスキーを注ぐ。瓶の出口から琥珀色の液体が流れでるBGMに俺はなぜか波の音を連想しちゃった。んで氷の半身が顔を覗かせるくらいまでカティーサークを注ぐと、瓶の蓋を閉めて、グラスを手に持ちぐるりと横に一回転させる。一口目に飲んだ感想は、青リンゴのような甘味が口内に襲ってくるって感じで、その後の余韻がバニラじみていて、何て飲みやすいウイスキーなんだろうって思っちゃった。安ウイスキーのハズなのに抜群んコスパがよくて、スコッチとして確実に成立しちゃってるから、こりゃ常飲だね。鼻腔に流れこんでくるのは様々なフルーツを感じさせる華やかな香りで、アルコール度数四十パーセントってのが信じられないほどスムースで飲みやすくて、俺はカティーサークに恋心にも似た念を抱いちゃった。カティーサークってこんな美味かったっけ。これからはこのウイスキーをスーパーで売ってたら必ず買い物かごに入れて会計を済ませ家に帰ってオンザロックで飲んじゃう。じゃあストレートで飲んだら、どんな味がするんだろうか、って疑問が頭に浮かんですぐに実行に移すために、蓋を開けてちょくせつ瓶に口をつけて飲んでみると、ロックの時より味と香りが濃厚でマジで美味くて堪らねぇけど、アルコール臭もわずかにするから、カティーサークにはオンザロックって飲みかたが抜群に合ってるのかもしれねぇ。ふとベッドに目をやると水玉模様のパジャマが丁寧に折りたたまれて置かれてた。汗をかいたシャツが肌に張りついてちょっとだけ気持ち悪かったから、俺はズボンとシャツとパンツを脱いで全裸になるとノーパンのままパジャマに着替えてすっきりとした気分になった。そしてまたグラスに口をつけて少しずつ少しずつウイスキーを体内に吸収していき、酔いを頭に回らせる。んでクソ暑い中ここまで歩いてきたほどよい疲労感と酔いが溶け合って、俺は何だか眠たくなっちゃったから、ベッドに身体を横たえた。俺は眠りに就くまで様々な考えに思いめぐらした。自宅でも怠惰な生活のことや、バロウズの書いた支離滅裂だが繊細で美しい小説、あの紳士の不可解な行動、そしてさっき出会ったメイド、そしてウイスキーの堪らねぇ味と香り、それらの考えが堂々巡りしてるうちに俺は徐々にまどろんできて、電気を消したくなったが、立ち上がる気力がわかないのでそのまま眠りに就いた。優しい夢の世界へ意識が少しずつシフトしていき、俺はガキの頃にママに抱かれて公園まで行って遊んだ記憶を思い出してた。金属部のメッキが剥げたブランコや滑り台や、雨の染みこんだ砂場で戯れてる子供たちに混ざるなんて真似はせず、ただママに抱きついてその肩に顔をうずめちゃってる幼児の俺ちゃん、それが俺の覚えてる幼少期の最初の記憶。それ以前の記憶はパンドラの箱の内部で闇となって蠢いてるだけで、俺はその映像を取りだしてまぶたの裏側に映しだすことは出来ねぇ。その公園でママと一緒に俺と同い年くらいの子供たちを指をしゃぶりながら眺めてると、ぽつりと一滴の雨が頬に当たった時の冷ややかな感触が蘇ってくる。それからすぐに土砂降りになるが、砂場で遊ぶ子供たちは楽しそうに奇声を上げるだけだ。俺もママの腕に抱かれながら、土砂降りのなかで天からしたたり落ちてくる愛液じみた大量の雨を浴びていた。ママの髪が湿り、毛先が額に張りつき、その姿は実の子ながらとても美しいと感じた、つまりは感動にも似た一種の絵画を見るような感情をおぼえた。絵画ってのは現在の自分の感覚で表現してるにすぎねぇ、ガキの頃はどんな感情を覚えたのか子細には思い出せねぇでやがる。年を取るごとに感受性が鋭敏な外界の物事に敏感に反応する心は色褪せるように失われてって、感情の残りカス、残骸だけが胸の内側にへばりつき心がすり減って鈍感になる。もうあの頃の燃え上るような感情を抱く瞬間は未来永劫こないと分かっていながら、とても懐かしくなって、この胸にあの気持を再生させたいと強く強く願っちゃうんだ。すると微かに黒ずんだほんの残りカスのような小さな感情だけが胸に去来する、いや去来という表現は大げさだから押しよせてくるって感じ。柔らかな襞の密生した優しい夢の中へ永遠に没入していたいという俺の願望は、ノンレム睡眠のなかに意識が突入して消えてなくなるだろう。夢も見ない深い眠りのなかへ沈みこんで行く俺ちゃんの一日の疲れで硬くこわばった意識が、糸がほどけるようにして解放されてく。アルコールにより眠りが浅くなるってのは本で読んだことがあるが、それは確かに当たってる。俺は浅い眠りの中で何度も何度も同じ夢を見つづける。目が覚めると俺の視界に飛びこんできたのは真っ青な青空、ではなくて電灯が蛾みてぇにへばり付いている天井の明かりだった。どこからか綺麗な聞き覚えのある旋律が流れてるのに気づき、その音色が俺をゆっくりと眠りの中から覚醒させたのだと分かる。俺はベッドから上体を起こそうとするが、金縛りに合ったかのように身体がまったく動かねぇ。手に少し力をこめると指先がわずかに振動し、目玉だけが軽やかに動いて室内の様子を視覚で捉えた。俺が見たのはイスの上でアコースティックギターを弾いてる昨日、俺をこの城まで導いた紳士の姿だった。足を組んでいる様が奴にはとてもよく似合っていて、膝の上にギターが収まって、その楽器は紳士のために作られたと言われても過言ではないほどぴったりと紳士という存在にフィットしてた。奴が演奏してるのはThe smithsのwell I wonderの終盤の箇所のジョニーマーによるアルペジオのソロだ。あの美しくて儚い旋律を忠実に再現してる紳士の腕前には、驚いちまうくらいの衝撃を受けそうで、受けなかった。ただそのメロディーが壁や天井に光が乱反射するみてぇ反響して、俺の元へと静かに歩みより、鼓膜を軽く叩く。紳士はそのフレーズを延々とくり返し弾いていて、俺が目覚めるまで待ってるみてぇだった。くり返しくり返し執拗とすら言えるほど延々とそのアルペジオを演奏する紳士は暇を持て余してるのかもしれねぇ。んでやがて俺の鼓膜に痛みが走るくらい旋律が反復する頃になると、ようやく動かなかった身体に力が入り上体を起こすことが出来た。「何やってんだ?」って疑問をアルコールに彩られた口臭と共に吐きだす俺ちゃんに紳士は首をかしげる。「いやぁ、あなたが起きるまで待ってるあいだ暇だったからちょっと……」俺も紳士も念じれば相手の思いが読み取れる間柄ってわけでもねぇから、紳士の意図は分からなかった。ただ奴はギターを置くと、腰をかがめて、膝の上で白い絹の手袋を装着した指先を組み、こう言った。「ウイスキーが飲みたいんです」そんなの俺に断りも入れず勝手に飲めばいいじゃんか。「この部屋の物はもはやあなたの所有物ですから。ちなみに、このギターは私が持ち込んだ物ですが」俺の頭に浮かんだ思考が表情からだだ漏れなのか、紳士は質問してねぇのにそんなセリフをお喋りで正直うざい。「勝手に飲めばいいんだ」俺は投げやりな口調でそう言って、ベッドから立ち上がったけど、ウイスキーを奴につくってやるって優しさ、というか偽善を発揮したりはせず、ただこの部屋の室温をパジャマ越しに肌で感じてた。「それじゃあ、ありがたく頂きますね」奴もイスから立ち上がると手袋を取り去って、そのしなやかな指先を露わにし、棚の中からラガヴーリンって一番高いウイスキーを手に取り、それをグラスの注いだ。紳士はコルク製の蓋を閉めて、ウイスキーの入ったグラスを片手にまたイスに腰かけて、それを無表情で飲んだ。「強烈なピート香ですね、あまりに個性的な味だ」「知ってるよ。だけど俺は好きな味だな」一本だけラガヴーリンの瓶が空になるまで、少しずつ日にちをかけて飲んだ経験がある俺ちゃんは、あの強烈なピート香と奥ゆきのあり過ぎる深い味を思い出してた。堪らなくなった俺は棚の内部にあるラガヴーリンを取りだし、コルクの蓋を開ける時の快音を耳にして、その後で中身の液体を口に含んだ。ホワイトホースの原酒ってのも理解できる。ホワイトホースも美味いが、飲んでて何かが違う、という感覚をこの酒はふき飛ばしてくれるんだ。これだ、これこそがウイスキーの王なんだって感じで、俺は次々と琥珀色の液体をがぶ飲みしてく。「どうです。蛾の城は気に入りましたか?」紳士の手のなかに収まったグラスはとっくに空になっていて、奴は物寂しげな視線をその透明な容器に注ぎながら俺にそう問いかけてくる。何で俺ちゃんの方を見て話さねぇんだろう、気取ってやがんのかな、それとも一杯だけで酔いが回って意識が朦朧としちゃってんのかな。「気に入るもなにも、昨日ここに来たばかりだから。まだこの城のことよく分かんないし」何だか女子高生が彼氏に浮気の言い訳でもしてるみてぇな口調になっちゃってる僕ちゃんは、可愛らしい女装が似合う中年男なのかもしれねぇって錯覚しちまった。紳士は静かに頷くだけで、それ以上、言葉を発しはせず、ただ手のなかのグラスを穴の開くほどながめていた。と、そこで奇妙な現象が起こった。紳士の両手で包みこまれたグラスが溶けて、透明な液体になり床にゆっくりとしたたり落ちたんだ。床の水溜まりはすぐに蒸発して消えてなくなった。でもでも僕ちゃん海の上に城があるって事自体があまりにも不可思議な現象だから、今さらそんな事態に直面しても少しも驚きはしなかった。感情は胸のなかで静かに呼吸しながら存在してるだけだった。蒸発したグラスに神経を集中させてた俺は、規則的な小さな音がどこからか鳴ってるのに気づき、その正体はどうやらドアをノックしてるメトロノームじみたあまりにも機械的な音だと思い至る。「あの、食事の時間ですから食堂に来てください」ノックの音と同じくらい小さなメイドの声がドア越しに聞こえてくる。俺はまだそこに座ってる紳士から注意をそらし、ドアの前に行くと、それを軽やかに開けた。宙に舞う蛾のように軽やかな俺ちゃんの流れるような動作に紳士も見惚れてるに違いない、ってそんな訳ねぇか。とにかく薄暗い廊下にはあのフリルの付いたやたらと装飾的なスカートを履いたメイドが陽炎のごとく佇んでた。指先で触れたらすぐにも消えてしまいそうなほど存在感が希薄で、昨日会った時よりも彼女の纏う個性は薄らいでるようだった。このままいったらこのメイドはいつか消えて無くなってしまうんじゃねぇの、誰にも見つからずに透明になって存在が消失しちまうんじゃねぇの。んで俺は紳士に顔を向けて一緒に来るか、と視線だけで問いかけた。紳士はゆっくりと立ち上がって俺のそばに来て、メイドに会釈した。うやうやしすぎるほどのその動作はどっちが召使か分からなくなるほど慇懃なものだった。俺らはほどよい温度の空気が充満してる部屋から出て、新たなひんやりとした空気が漂ってる廊下という空間に身を投じちゃった。食堂って言っても、この広い海みてぇな性質を孕む城っていう空間のどこまで行けばたどり着けるんだろう。一滴の雨も降らない乾いていて広大な砂漠をあてもなく歩くっていう行為に似てるんじゃねぇだろうか。まぁさすがに砂漠ほど広くはねぇだろうが、このクソ広そうな城の中を歩いて食堂まで行くって想像しただけでうんざりしちゃう俺ちゃん。メイドと紳士は俺の内心を見透かしてんのかいないのか、メイドが俺の前に立ち紳士は俺の背後で待機してるっていう俺ちゃんを挟むような状況になっちまってる。俺は人といる時は真ん中は落ちつかず、端っこで会話に参加するのが好きなタイプ。でも紳士とメイドに会うまではしばらく誰とも会話らしい会話はしてねぇ。

© 2026 三沼薫 ( 2026年7月22日公開

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