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ホルマリン・チルドレン 2

ホルマリン・チルドレン(第2話)

尼子猩庵

 神経症歴十年を数える二十九歳の「私」は、降って湧いたようなあぶく銭をはたいて一戸建てを借り、少年期を過ごした山あいの住宅街に戻った。そうして、小中学生時分に引きこもりになったまま今も住宅街に残っている元同級生たちを、集め始める。

※第四十二回(2018)すばる文学賞三次予選落選

タグ: #哲学 #私小説 #純文学

小説

8,003文字

カーテンを買っていなかった。元々ついていたのは前の住人の大きな瞼であるような気がして外していた。

昼過ぎの窓に庭木が見えていた。前の住人が眺め尽くした庭木だった。当然向こうも見ている。私なんぞキライなのに違いなかった。

閑散とした庭はどうにでも遊べそうだった。今の住人がどう変えているか知らないが、前に住んでいた家では、ひょうたん池を置いたり、狭い花壇を囲ったり……しかし後半は誰も世話をしなくて荒れ放題だった。崩壊家庭のすさみがあからさまに出ていた。

自分で小学校に電話して休んでも親にはバレなかった。勝手に休んで、リビングで独りテレビもつけずに座っていると、誰も下げない朝食のコップが、階段部分だけ吹き抜けな二階の窓から射し込む陽の光に輝いていてキレイだった。

ピザの容器を力を込めて折りたたんでいる川野さんも、外出の地獄をあいまいに溶かす薬など飲んでいるのであろうか。

給食当番で「大きいおかず」の鍋を一緒に運んでいた時、廊下の向こうでいきなり吐いた低学年の男の子を即座に保健室へ連れて行っていた、あの優しい利他の精神が、今こんなところで、ほとんど私と半田だけが食い散らした容器を片づけている、こんなかたちで生きながらえている利他の精神の無残さ。

半田の服薬の如何もわからなかった。引き締まらずに痩せていて顔色悪く、まあまあ食べたけれども、食後は胸部や背中や下腹部や、あちこち痛むらしかった。

ゴミ袋をしばっている川野さんは実家でも家事をよく手伝うのだろう。あるいは一手に引き受けているのかもしれない。独立する前にそういう生活が成り立ち切ってしまって出口の塞がっているようなことなのかもしれない。

はばかりながら私も実家では家事を過半引き受けていた。固定された習慣によって毎日をブジ生かしめられる軽量化の恩沢として。

このたびはその精神の甲冑たる習慣を捨てて来たはずだった。栄養も何も度外視した安価な出来合いのものを食べ、わんさと埃を溜めることにしたはずだった。

越して来てから半田に会いに行くまでの一週間は大量に持って来たものだけをほそぼそ食べていた。それはもうすぐ尽きる。

時々買い溜めに行けばいいはずだった。こまごました習慣の山をゴッソリ投げ捨て、最低限の動作で一切を間に合わせ、完全にダラシナクなられればそのうちだんだん尋常な社会人の大胆さを得得るであろうという盲信的の希望にすがっていたはずだった。

けれどもちかぢか衛生的な問題があるラインを超えればしょせん一気に潔癖にまで振り切って戻りそうだ。この家に人を集めるならいっそ今から清潔にしようか。甲冑はやはり付け直そう。長いあいだ摩擦を受けずすっかりやわらかくなった皮膚が涼しくて仕様がない。これをふたたび覆おう。習慣はまだすぐに帰って来る。動脈がくっついたまま近くをずっと転げ回っている。

この住宅街で車がないのは致命的だった。わかってはいたけれども、このたびのような決断と行動に際しては、わかっていることというものは邪魔にしかならなんだ。

バスでスーパーや家電量販店やホームセンターへひんぱんに行くだろう。バスが通っているのが幸いだった。この住宅街が完全な仙境にならないのはバスのためだった。市バスの毛細血管の末端であった。イチョウの落ち葉の散り敷かれた辺鄙な道路に○○系統とひたいに表示された正統の市バスが停まり停まりしながらゆく頼もしさ。住宅街の西端、その先は貯水池を挿んで森が始まるという境に終点の詰所とバス溜まりがあった。

出退勤のピーク以外はがらがらだった。人のいない曜日と時間帯を選んで、出かける時だけ心を鉄にすればよい。できなければ行かねばよい。どうせあまりに困れば気づかぬうちに用を足し終えているだろう。その程度の困難でしかない。

いずれ誰かの親に声をかけられるだろう。しかししぼんだ感受性に現実感もない。その場面が想像できない。いらぬ想像の渦に飲み込まれてばかり来たのに。大なる棘がいつの間にやら消えていた。取れたのか奥部に入り込んだのか。血管の中をぐるぐる回っているのであろうか。いつかどこかに刺さって大出血をくれてやろうと目論みながら?

半田を連れて明日にでも入り用の諸々を買いに行こう。

いちおう聞いてみたけれど半田は免許も持っていなかった。川野さんも同じだった。

何を買ってどこに置こうか考えているあいだ、半田が川野さんに私の計画を話していた。

「あと庄原と貴崎も集めてな、みんなでサナギになるねん」

「サナギ?」

川野さんはくわしく聞いて、要領を得ると、

「あたしはサナギやよ。ずっと前からサナギ。そのままかちこちになって、石になってしもたんやわ。苔むした石がね、中に化石入っとう。人間の赤ちゃんの化石――」

即答がえらく長命だと思った。文学少女なのかしら。半田はよくわからない顔でうなずいていた。

それから川野さんは文学少女らしい虚ろな鋭利さで

「社会復帰ってことやろ? それならもう遅いよ」

© 2025 尼子猩庵 ( 2025年5月1日公開

作品集『ホルマリン・チルドレン』第2話 (全12話)

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