この章タイトルが示すように、この物語は古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』と対比的に描かれているということは有名だ。ギリシャ神話、『イーリアス』と『オデュッセイア』、聖書など西洋文学において前提とされる基礎知識から縁遠いわたしたちには、この時点でハードルが上がってしまっているが、この辺は充実した訳注でなぎ倒していこう。
ここでは四人の登場人物が現れる。まず、ジョイス自身を投影したと思われるスティーブン・ディーダラス、それから詩人で耳鼻咽頭科医オリヴァー・セント・ジョン・ゴガーディがモデルとされるマラカイ・マリガン、彼らと同じ海辺の塔で共同生活をするオックスフォードヘインズ、彼らの塔を訪れるミルク売りの老婆だ。その中でもやはり、バック(Buck=牡鹿、伊達男)というあだ名を持つマリガンの存在感が大きい。冒頭はシャボンの泡立つボウル
とその上に十字に重ねた鏡と剃刀
を上に乗っけたマリガンの登場で幕を開ける。上機嫌な彼をよそに、スティーブンは不満げな態度を示している。彼らの会話でそれが亡くなったスティーブンの母親について、マリガンが彼の母親に《なあに、あのディーダラスですよ、母親がひでえ死に方をした》
と言ったことに起因することが明らかになる。それでもマリガンは動じず、むしろ開き直ったように「医学生として毎日のように死体を見ている」ことを自慢げに語り、死とはなんだ? と返す。このやり取りで読者は二人の関係性、スティーブンがひきずる母の死について知る。この書き方は優れているなと感じた。『若き芸術家の肖像』に続く物語であるという以前に、死生観、宗教観、バックボーンを冒頭で効果的に引き出すという試みに成功している。
さらに、イギリス人であり、オックスフォード生というヘインズの登場で、この物語の懐は深みを増す。アイルランドとイギリスの国家観、シェイクスピアのハムレット論、オスカー・ワイルドというアイルランドを代表する文士、これらが否応なく交錯するからだ。ただ、やはり問題点はこういった背景を網羅的に認識している前提がなければ読み進めることに苦労することだろう。わたしも全くこの辺りには明るくないので、訳注と行ったり来たりしつつ、ちまちまと読むことになったのは言うまでもない。ただ、研究社『20世紀英米文学案内』で「James Joyceジョイス」の編者である伊藤整は「むつかしいと思ったら、第二部レオパルド・ブルームの家の朝食から読んでほしい」と書いている。それはないぜ……と思ったが、百年が経つとはそういうことなのだろう。第二部から読んで、冒頭に戻れば読みやすい、そういうことが研究されたのだ。百年前に読んだ人はわたしたちと同じように戸惑ったのだろうか。
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