今こそ世界の名作に突っ込んでみる

応募作品

大猫

エセー

10,119文字

名作と言えども速度から逃れられない! 今回、世界名作全集とか岩波文庫とかに恭しく奉られているいわゆる「世界の名作」をいくつか選び「速い遅い」の観点で読んでみました。やはり名作だけあって完成度は大したものです。でもやっぱり突っ込んでしまいました。読書が一層楽しくなれば幸いです。ネタバレ注意。

いったい小説における「速い」「遅い」とは何か、具体的な定義を述べよと言われてもよく分からない。文体の平易さ難解さで決まるのか、文章が長いとか短いとかなのか、作中の時間の流れの速さ遅さなのか、一つのシーンが長いとかコロコロ変わるとか、あるいは以上述べた要素のうちの幾つかを満たしていることなのか。でも、はっきり定義できなくても、誰でも何かしら体感するものはあると思う。

個人的には右に述べたいくつかの要素に加え、気持ちと読書のスピードが合わないことも挙げられると思う。引っ張られて焦らされて待たされてようやく念願の描写に巡り合ってエクスタシーに至るのが「遅い小説」で、行け行けどんどんで読み進めてあらあらもう終わっちゃったよと名残を惜しむのが「速い小説」。どっちもいい、どっちも好きだ。

そんなわけで基準は曖昧なままだが、いわゆる世界の名作から「基本速いんだけどたまに遅い」「基本遅いんだけどたまに速い」「速いんだか遅いんだか分からない」等々の切り口でいくつかピックアップしてみよう。基本的に異論反論の類は一切受け付けない。が、酒でも酌み交わしながら読書体験を語り合おう、というお誘いならいつでも受けて立つのでよろしく。

蛇足ながら申し述べておくと、すべて好きな作品ばかりで、久々に読み返すのは本当に楽しかった。速かろうが遅かろうが、文章を通して物語が我が身に侵食浸透して、自分では体験できない世界にどっぷり入り込むことが読書の楽しみではなかろうか。

 

その一 突然のナポレオン登場に置いてきぼりの百ページ

ユゴー『レ・ミゼラブル』新潮文庫 佐藤朔訳

ジャン・ヴァルジャン頑張れ、おのれジャベールひっこんどれ、それにしても憎いのはファンティーヌをもてあそんで捨てたフェリックス・トロミエスのクソ野郎だ、わーん、ファンティーヌ死んじゃったよう、ジャン・ヴァルジャン自首なんかしなくていいから! などと第一部「ファンティーヌ」を、涙と共に怒涛の勢いで読み切った読者の前に、第二部「コゼット」が厳かに提示される。ようしっ、と喜び勇んでページをめくったら、いきなり時間が八年ほど戻ってワーテルローの戦場へ連れて行かれることになる。ジャン・ヴァルジャンもコゼットもジャベールも影も形もなく、ひたすらワーテルローの戦いとナポレオンの敗退を時系列を追って事細かに綿々と描写される。そう、ワーテルローの戦いの一部始終を第二巻約五百ページのうちのなんと百ページを費やして語られるのである。ちなみに本筋とはほぼ全く関係がない。

なぜ無敵の英雄ナポレオンが敗退したのかの詳しい原因分析から始まる。それは前夜の雨であり、砲兵出身のナポレオンは火器大砲使いの名人で、それこそが彼の栄光を築いたものであった。雨が降って道がぬかるみ砲兵隊の動きが取れず、戦いの開始が午前十一時半になってしまい、その間に敵の援軍が到着してしまった。雨さえ降らなければ戦闘は朝九時に始まって、午後二時にはフランス軍の大勝利で終わったはずと断言し、前夜に雨を降らせた神を呪わんばかりに、悲憤慷慨のペンが縦横に走りまくる。困惑する読者を置き去りにしたまま、ウーゴモンの要塞、戦場周辺の地形、イギリス軍との攻防、皇帝の語った言葉、将校たちの動向、敵側の将軍の動きまで、見て来たかのように書き連ね、ナポレオンのセントヘレナ島への追放と王権復古に至っては、「反革命の勝利」と罵り、ウィーン会議をあらゆる悪徳の巣窟呼ばわりし、これで世界は終わったと嘆き悲しんでみせる。

いや、作者がナポレオン大好きなのは分かった、ワーテルローの戦いの敗退がものすごく悔しいのも分かる。日本にも関ケ原で西軍が負けたのをいまだに悔しがってる人もいるし。大日本帝国が勝っちゃう小説とか漫画もあるし。で、コゼットは? まさかジャン・ヴァルジャンがワーテルローの戦いに出てくるとか?

欲求不満に満ちた苦行のような読書が延々九十五ページも続き、ようやく出てくるのが悪漢テナルディエ。ワーテルローで瀕死の重傷を負ったポンメルシーから指輪を抜き取り、金目の物を盗む。ラストの大きな伏線になるこのシーンでやっと物語が戻って来るんだけど、そこまでがまあ長い。少年文庫やミュージカル、映画作品等ではもちろんカット、本邦初翻訳の黒岩涙香版ではテナルディエ登場以降から採用している。

かく言う私もこのシーンは毎度飛ばしていた。ここを律儀に読んでいるという人がいたらお目にかかりたい。そりゃそうだろう。ナポレオンがどんなに英雄であったか、ナポレオンの悲運がフランスおよび世界の歴史にどれほどの悪影響を与えたか、詩人の全身全霊、魂を込めた悲愴かつ格調高い文体で熱く熱く聞かされまくるのだ。

十九世紀以前の小説はこの類の「自分語り」や「観光案内」的な過剰な風景描写が多い。現代と違って写真も画像もSNSもなく、様々なことどもは作品に載せて伝えるしかなかったことは認めようとは思うが、読まされる方の身にもなってほしい。焦れる読者の顔を思い浮かべてニヤニヤしつつ、言うだけ言って満足したところで、しれっと続きを始めるユゴー先生。こんな小説を公募に出したらまず一次落ちだ。小説にとっては良い時代だったと言う他ない。

 

 

その二 速いんだか遅いんだか分からない入れ子の物語

『アラビアンナイト』東洋文庫 前嶋信次訳

速くて遅い物語と言えば『千夜一夜物語』だ。一つ一つの物語は短いんだけど、弁舌爽やかな美女シェヘラザードが、生き長らえるために話をつなぎにつないで、とうとう千夜と一夜引っ張り切って大団円を勝ち取る。その粒ぞろいの面白さについては今さら語るまでもない。たまに宗教論争とか古典の引用合戦とか、知識ひけらかし系の物語が出てきてイスラム文化に疎い読者を悩ますことになるけれど、だいたいは起承転結がくっきりしてテンポの速い面白い物語ばかりだ。その中でもひときわ、テンポが速いのになかなか進まない物語がある。『せむしの物語』だ。

第二巻、百八ページから二百七十二ページ、第二十五夜から第三十三夜にかけて、街角のストーリーテラー達が集まって喋り倒す物語。古今の物語を集めた膨大な千夜一夜の中でも筆頭に来るほど面白く、何度読んでも笑いが止まらない。落語の『長屋の花見』や『湯屋番』みたいな話も出てきて、この類の話は万国共通だなと感慨深い。

仕立屋夫婦の家で遊んでいたせむし男が、おかみさんに食わされた魚のフライを喉に詰まらせて死んでしまう。こりゃ大変だと夫婦は死体を隣のユダヤ人の医者の玄関前に置いて逃げる。医者は患者が来たかと喜んで出て見れば死体がある。てっきり自分が殺したかと恐れ、隣の家の王様のお台所監督の家に投げ込む。家で死体なんか見つかったとなったら自分も死刑だと震えあがったお台所監督は、死体をキリスト教徒の仲買人の家の前に放置する……なんてことをやっているうちに全員逮捕され、王様は全員死刑じゃと宣告する。それはあんまり殺生な、面白いお話をしますからどうかご勘弁をと懇願し、一人ずつとっておきの物語を披露するというもの。

それぞれの物語に登場するのは体の一部が欠損した人ばかり。好色や食いしん坊や強欲の罰として手や指やあるいは男性器や、時には唇や耳を切られたりしている。語り手が次々と変わって新しい物語が展開されるので、全体のお話がなかなか前に進まない。物語の中でまた物語が始まり、更にまた物語が、てな具合でマトリョーシカみたいにどんどん入れ子になって行き、しまいには四段階まで掘り進んでしまう。

 

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2022年4月30日公開

© 2022 大猫

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