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看板から学ぶ

渡海 小波津

多重解釈と傾向性に囚われることなく、文学の道を行くべきだと考える一方、読者は傾向性、感性によって読む方向に向かっているのではないだろうか。あなたの解釈、是非を問いたい。

エセー

834文字

看板ほどあいまいなものはないと感じた。

先日、何気なく車道脇にあった『止めよう原発』という看板を見て、なるほどと思ったのだ。原発の何を 止めるのだろうかと。これ以上の建設を停めるのか、運転を止めるのか、はたまた再始動を止めるのか、それとも原発に関するすべて、意地悪を言えば原発で出 る廃棄物の管理や対策も止めるのかということだ。

非常に多重解釈を可能にするメッセージだと感じたのだが、おそらくあなたはそんなことは普通判 るだろうと言うのではないだろうか。管理や対策でないことくらい常識と言うだろう。確かに落とそうスピードと車道脇にあれば、なるほど車の速度だなと断定 的に判断できるだろう。まさか温暖化の進行速度だとは誰も思わないわけだ。ではなぜそう思わないのか。それが原発の看板とスピードの看板との違いとして何 かあるにちがいないのだ。

美味いうなぎとある店を見て、うなぎの蒲焼だと思う人が多いはずである。守ろう動物と書いてあるのを見て自然の動物たちだと思う人が多いはずである。

今挙げた私の『多いはず』があなたにとっても多いはずと思えただろうか。これが傾向性だと私は考える。つまり我々が普段何気なく、普通だ当たり前だ常識だ とコモンセンスを掲げることは、すなわち今までの経験上そのような場合が多かったという傾向性によって脳が判断しているのだ。

水が流れやすい場 所はしだいに川となり、動物が通りやすい道がいずれ獣道となり、判断をする際どのような神経回路をとおりどう思うかはあなたの経験によるものなのではない だろうか。もしくは、経験でなければそうであるべきという刷り込みが行われた可能性もあるだろう。教育における道徳観というものは半分がそれであろう。

人の判断は経験と刷り込みのどちらかによって決められ、根本的なところでは、遺伝や環境といった要素も出てくるだろう。こういった諸要素によって我々は判断をしているのだからこそ、ある事象やメッセージに対して、より熟考する必要があるのではないだろうか。

© 2012 渡海 小波津 ( 2012年7月6日公開

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