1
痛みだけが、現実の輪郭を教えてくれる。
磯の腐った臭いと、冷たく濡れた砂のざらつき。その境界で、俺は目を醒ました。
頭上には鉛色の雲が分厚く垂れ込め、吹き抜けるはずの風は一筋もない。寄せては返す波の音すら、生気がなかった。
――「……そして……ワニに食べられ……」
どこからか、途切れ途切れの幼く平坦な声が掠めて消えた。幻聴か。あるいは、波音の聞き間違いか。重い泥の底から引きずり出されたような身体を引きずり、身を起こそうとする。右腕を砂につこうとした瞬間、右腕に鋭い空白が走った。腕がない。片腕が、すっぽりと消えている。傷は塞がってなめらかになり何の生傷もないはずだったが、感覚だけはまるで腕が未だにあるかのように残っていた。幻肢痛だ。俺は奥歯を噛み締め、砂を吐き捨てた。喉が焼けるように渇き、胸の奥で苛立ちが沸き起こった。名すら定かでないまま砂浜に転がされている。だが、この引き裂かれるような痛みがある限り、俺はまだ終わりではない。
どうにか立ち上がると、足元に奇妙な残骸が散らばっていた。真鍮、銀、黒ずんだ鉄。大小無数の時計が、砂に半ば埋もれている。どれ一つとして針は動いておらず、ただ墓標のように転がっていた。その数十歩先、朽ち果てた船首像の陰に、巨大な影が横たわっていた。年老いたワニだった。鋼のように硬いはずの鱗は濁り、ところどころが剥がれ落ちている。かつて幾百もの獲物をへし折ったであろう顎は半開きになり、奥に光るものが見えた。濁りきった瞳は俺を認めても敵意すら示さない。 異様に膨れ上がったその腹は、もはや自力で動くことすら拒絶しているようだった。そして近くに、一振りのサーベルが突き刺さっている。柄を左手で引き抜く。刃の重みを確かめ、俺は横たわる獣の前に立った。ワニはただ濁った目を閉じ、刃を待っていた。とっくに終わってしまった生を片付けてくれと、身を投げ出しているかのようだった。
「……腹を割って話す時が来たようだな」
俺は刃の切先を、その最も薄い横腹へと突き入れ、力任せに引いた。
溢れ出たのは血や臓物ではなかった。大量の人骨だった。そして腕の骨に守られるようにして、砂の上へ鈍い音を立てて転がり出たものがあった。鈍く光る金の鉤爪。その湾曲した鋼の根元に、震える刃先で刻まれた文字があった。
『フック様 私は最後まで忠実な部下でした ワニと共に ス……』
俺は切先を砂に突き立て、その冷たい骨と金具を見つめた。では俺は、一体どこの誰だというのか。金具の裏側に、さらに弱々しい大文字のアルファベットで刻まれた新たな傷跡があった。親指の腹でなぞる。
『にどと、だれもこのだいちでくるしまないように』
NEVER……。答えは出ない。俺は左手で金のフックと骨の一つを取り上げた。そしてフックを、滑らかに塞がった右腕の断面へとあてがった。肉が金具を噛み、鈍い金属音が骨の奥に響いて固定される。背筋に冷たい鉄心が通った。俺が何者であるかなど、どうでもよかった。この鉤爪を身に着けた以上、俺はこの不吉な役を背負うほかない。
2
曇天の下、荒れ果てた海岸を背にして歩き出した。
風のない世界は、気味の悪いほど平坦だった。波はただ機械的に満ち引きを繰り返し、海鳥の影ひとつない。その時、遠くに、輪の様な煙が上がるのが見えた。海辺を離れ、生命の気配がない荒れ野を抜けると、前方に異様な影が立ち塞がった。
黒い、巨大な直方体だった。窓も、継ぎ目も、看板さえない。そびえ立つ四角い黒壁は、光を吸い込むような無機質な艶を放ち、大地を圧迫している。伸びる細い煙突からは、かすかな熱気と規則的な輪を描く白い排煙が、一定の間隔で吐き出されていた。低く微細な唸りだけが地面を震わせている。
その黒い直方体から伸びるダクトの根元、吹き溜まりのように追いやられた岩場に、数張りのティピーが立っていた。俺は黒い建物よりもティピーへ向かった。そこには鹿皮の衣服を纏った数人の老人が、円く囲むように座り込んでいた。深く刻まれた皺、白濁しかけた瞳。その中央、最も奥に座る老女が、俺の足音に顔を上げた。
「……フック」
掠れた、だが刃物のような声だった。女は立ち上がろうとして、よろめき、傍らにあった黒木の弓にすがった。かつては滑らかだったはずの肌は干からび、髪も手入れをしなくなっていた。手首には、長年弓を引き絞り続けてきた者に特有の、硬く盛り上がったタコがあった。
女は震える指で矢筒から一本の矢を抜き、弦に番えた。引き絞ろうとする。だが、節くれだった老いた腕は小刻みに震え、弦は半分も引かれぬまま、矢は力なく足元の砂へと零れ落ちた。俺は足を止め、落ちた矢を見下ろした。胸の奥で、見覚えのないはずの光景が走馬灯のように明滅する。青空、矢の風切り音、誇りに満ちた褐色の女の笑顔。
「ずいぶんと……久しぶりだな。いつから老人の真似をするようになった?」
「……少し、ほんの少し前だよ」
タイガー・リリーは折れた息を吐き、自嘲するように口元を歪めた。その瞳の奥にだけ、かつて刃を交えた戦士の光が、消え残った熾火のように鋭く灯っている。
「お前がワニの腹の中かどこかで寝腐っている間さ。……あの小僧が、二度と笑わない子供たちを連れてきてから、この島に昨日と明日ができたのさ」
「時間、か」
「そうさ。時間だよ」
リリーは黒い直方体を見上げもせず、吐き捨てるように言った。
「あいつらが来てから、島は測量され、整地され、無駄なものから順に片付けられていった。不便なことが消えた代わりに……私たちは一人ずつ年を取り、昨日と違う今日を怯え、死んでいく。ネバーランドはもう、子供の遊び場じゃない。あの冷たい箱の、ただの裏庭だよ」
「……何があった」
リリーは膝を抱え、遠い虚空を見つめた。
「長い、長い空白があった。ウェンディが帰り、その娘のジェーンが来て、またその娘が来て……楽しかったよ。だが、やがてあっちの世界から、子供が、夢が、消え始めたんだろう。赤ん坊が心から笑う声が途絶え、妖精たちが次々に消えた。あっちの世界で何が起きたのかは知らない。ただ、あいつの迎えを待つ子供がいなくなったんだろう」
リリーはこちらを見据えた。
「あいつはずっと一人で飢えていた。そしてある日、あいつは本当に久しぶりに連れてきたんだよ。向こうの世界から……傷ひとつつかない、完璧な子供たちをね。病気にもならず、泣き叫びもせず……信じもしない、賢くて正しい子供たちを」
リリーは黒い壁を指差した。吐き出される熱気が、老女の白髪を揺らす。
「あの子たちは、泥遊びをしなかった。危険な崖を削り、獣を檻に入れ、入り江を何か硬いもので固めた。あの子たちにとって、この島はただの非効率の塊だったのさ。 あの子供たちが知っていることは私たちには理解できないんだよ。逆にあの子供たちが理解できないことは私たちには理解できるんだ。でも、その差が一つずつ埋まるたびに、たぶん……たぶんだけど、私たちは一人一人、年を取り、死んでいったんだろう」
フックが、ギリと音を立てて鳴った。
3
いつのまにか、背後に、青空色のシャツとズボンを着た美しい子供たちが現れていた。インディアンたちは言葉を失い、喋らなくなった。それに代わるかのように、子供たちが、美しく透き通るような声を発した。
「こんにちは! そちらの方、はじめまして!」
澄んだ、余分な揺らぎの一切ない声だった。取り囲んでいたのは四人の子供だった。乱れのない髪、陶器のように滑らかな白い肌。誰一人として擦り傷ひとつなく、左右対称の微笑みが貼りついていた。タイガー・リリーが引きつった息を吐いた。彼女はそれ以上言葉を発せず、膝の上の弓を抱きかかえるようにしてうずくまった。
「この島に、あなたのような客観的な方が戻られたことを歓迎します!」
一人の、茶髪の子供が手を差し出してきた。思わず握り返すと、とても心地よい感触がする。だがその時、後ろからインディアンの老人の一人が俺のシャツを無言で引っ張ってきた。二人目の子供が、黒く長い巻き毛のカツラを差し出してきた。
「どうぞ。あなたに相応しいものです」
俺は眉を動かさず、その無機質な微笑みを見下ろした。海賊船長を海賊船長たらしめる、豪奢で仰々しい巻き毛のカツラだった。子供の手からそれを受け取り、無言で頭部へ被せる。頭皮に馴染んだ瞬間、着古した服の皺が伸び、劇場の衣装のように整う奇妙な感覚があった。
「親切なことだ」
俺は冷ややかに口角を上げた。
「だが、悪党の身だしなみを整えてくれる割には、挨拶の作法を教わっていないと見えるな……貴様らは何者だ」
「私たちはロストチャイルズです」
子供たちは一切の感情を交えず、揃った声で答えた。
「ピーターパンさんに招かれ、ここの環境維持と最適化をしています。さあ、こちらへ。彼もあなたとの再会を望んでいることでしょう」
荒れ地の岩陰に、音もなく白い六角形のボードが滑り込んできた。五人が乗り込んでも沈み込みひとつなく、ボードは静かに浮上した。風を切り裂く感触すらなかった。眼下に広がるネバーランドは、先に聞いたようなおとぎ話の島ではなかった。かつて人魚たちが戯れていたはずの入り江は規則的な防波堤で直線に区切られ、妖精が飛び交っていたはずの鬱蒼たる原生林は、無感動な街路樹へと植え替えられている。ボードが、幾何学的に整地された小さな森の広場へと滑り落ちた、その時だった。
「どいて! そこをどきなさいよ、この偽物ども!」
金切り声と共に、紫色の光の粉が突風のように吹き荒れた。低木の影から飛び出してきたのは、掌ほどの大きさの人影……見ると、透き通る翅を狂乱したように羽ばたかせる、一体の少女のような妖精だった。その顔は涙と怒りで歪み、裂けたドレスからは薄紫の光粒がボロボロと零れ落ちていた。
「メンフィスベルですね……最後の妖精です」
子供が冷ややかに言った。
「フック! ああ、話に聞いたフック、帰ってきたのね! 殺して、こいつらを全員殺して!」
妖精は狂ったように俺の肩へ取りすがろうと飛翔した。
「あいつはパズルに狂っちゃった! 私を捨てて、あんな……あんな化け物たちと! 私の光を返して! 私のピーターを――」
その時、子供の一人が、飛んできた羽虫を捕まえるように、空中でメンフィスベルを掴み取っていた。その指先が、流れるような手際で妖精の首元に食い込み、その首が捻られた。紫の光粉が激しく散乱し、小さな首が地面の舗装路へと転がり落ちた。翅の痙攣が止まる。子供は少しも動じず、腰から取り出した真っ白な布で丁寧に手を拭った。
「すみません。危険なので、どうしても対処せざるを得ませんでした。しかしもう問題を起こすことはないでしょう。これで彼女も苦しまず、幸せになったと思います」
俺の金のフックが、軋みを上げて鳴った。俺は散った美しい顔に目を合わせた。
「違う。こいつが死んで幸せになったのはお前らであって……」
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