1
痛みだけが俺を大人にする。痛みだけが俺に現実を与える。痛みだけが……。鋭い腕の痛み、磯の匂い、ざらついた感触、それらの交わりの中で、俺は目を覚ました。上には鈍い薄曇りの空が広がり、下には砂浜がある。俺を押し潰したいのかそれともただ冷笑しているのか、雲はいつまでも途切れなく流れていた。しばらくそれを眺めていた。何かに追われていた気がするし、追っていた気もする。だがただ一つ、今や自分には何も残っていないことだけが頭の片隅にあった。深い息をひとつ吐き、いざ立ちあがろうと腕を上げた、はずだったが、片腕がなかった。息がしばらく止まった。傷は塞がってなめらかになり何の生傷もないはずだったが、感覚だけはまるで腕が未だにあるかのように残っていた。俺は砂浜を転がるように不安定に動いた。叫ぼうにも力が入らず、ただ不快に息の掠れる音しか出なかった。気づいた時から、自分の身体の数分の一がない。それでも生きている。何の意味や目的で!……その時、自分が何者か、という疑問が湧き出でてきた。
幻の痛みを抑えながら、砂浜を見ると、色々なものが端々に転がっていた。大量の……時計。小さな時計、大きな時計、中くらいの時計。そして、朽ち果てた木の塊の裏に、巨大なワニがいた。ワニと目が合うと、襲いかかるでもなくもはや疲れ切ったかのような濁った目を逸らし、大きな口をあんぐりと開けた。そこには頭蓋骨やいくばくかの骨があり、その奥に光るものがあった。ワニの腹は異様に膨れており、それがワニに歪さを与えているのだった。辺りを見ると、砂浜にサーベルが突き刺さっていた。それを片手に取り、ワニに目を合わせたが、もはやワニは目を瞑り、観念したかのようだった。俺は腹に切り掛かった。横腹が裂けた時……臓物や血ではなく、様々な物や骨が溢れ出した。そして手や腕の骨の中から、まるで守られていたかのように金のフックが転がり出た。手に取ると、HOOKというサインと、その下に小さく引っ掻かれた跡が目についた。
『フック様 私は最後まで忠実な部下でした ワニと共に ス……』
「船長だって? お前は……」
震える手で、無い片手にフックを嵌めると、自分を取り戻した、気がした。もう一度フックをみると、隅に、前の文字よりも後で掘られたであろう弱々しい大文字の文章が彫られていた。
『にどと、だれもこのだいちでくるしまないように』
ネバー……。2
煌びやかな衣装の残骸とサーベルを身に着け、ワニの腹から出た人骨の一部も持ち、曇天の海沿いを果てしなく進む。かつては俺は船に乗り、部下と共に果てしない海を、恐らくは高潔に渡り歩いていたはずだ。しかし今や二本の足しか頼るものはない。そして俺は何かと戦っていたはずという焦燥感に襲われてきた。世界のあり方すら変えてしまう、不倶戴天の敵……がいたような気がする。海には生気がなく、潮も波引き際を静かに前後している。風は感じられずどんよりとして、帆走船があったとしても、進むかわからない。思えば、自分の発する音がするほかは、この世界は静かだ。この世界には何の活力もない様にすら思える。
「誰か、誰かいないのか」
俺のかすれた叫びに答える者はいなかった。だが、岩場に座りふと遠くを見ると、輪のような煙がぽんぽんと空に上がっている地点が見えた。集落に違いない、と勢い込み、俺はよろよろとその方向へ向かった。砂地が終わり、薄暗い岩だらけの荒れ地を乗り越えると、そこには、先ほどの煙を吐き出している煙突のついた黒い工場のようにもみえる建物と、その脇に追いやられた様に数件のティピーが立っていた。だが黒い建物には窓も何もなく、黒々と大地に横たわっている。俺は必然的に、まだ人の手触りがありそうなティピーの方へ寄っていった。
「誰か! 誰かいないか!」
近づくと、そこには、
古ぼけたインディアンの老人数名が縮こまるように円く並び座って
いた。彼らは俺の顔を見て、目を見開いたが、
体は微動だにもしなかった。
「あ、あんたがた……ここはどこなんだ」
「……フック!」
「フック?」
「フックが帰ってきた……」
インディアンの老人たちは顔を見合わせることもなく生気のない目
でこちらを見ながらそれぞれ名前を繰り返していた。
そして奥に鎮座していた一人の老婆が、ようやく片手を出した。
そこには割れた鏡の一部があった。
「自覚がないようだね……仕方ないよ。鏡を見なよ」
俺はその、稲妻のように割れた輪郭の鏡を見た。
無精髭に鋭い目つき、やや突き出た鼻……。
「俺を覚えているかい」
「……いや」
「覚えていなくてもいいよ。長い長い時だったからね。
それにその内関係なくなる……。私はタイガー・リリーだ。
そしてあんたはフックだ」
何もかも知っているかの様な老婆の顔をしばらく見つめた。
皺だらけの顔の奥に眼光が光り、こちらを鋭く見据えている。
鏡を持っていた手には、
弓を引く人間につきものの硬いタコが残っていた。一瞬、
何か激しい走馬灯のようなものが脳裏に走った。
「ここは……」
「居留地だよ。横の建物は、何だったかな……」
別のインディアンが、うつむきながら助け舟を出した。
「データ、センター」
「ああ、デイタセンタア……。子供が遊び場を作ると聞いてたら、
まさかこんなものだったとはね」
俺は横を向いた。
身長の四五倍はありそうな巨大な黒い壁がそこに鎮座しており、
さらに向こうに煙突の影が長く落ちていた。
「入り口はないんだ。あんたにも見えないだろう。
煙突にはなおさら入れない。
我々を必要ともしないものなんだからね」
「ここのことは分かった。知りたいのは、この……この地……」
俺はフックに掘られた弱々しい字をもう一度見た。
タイガーリリーもそれを覗き込み、息をのんだ。
そして深く頭を振り、先ほどよりもさらに落ち込んだ声で答えた。
「その文字を探してたんだ。never……ネバーランド。
何も知らないんだね。まあ、お聞きよ」3
……長い長い空白の時間があったんだよ。
ウェンディのことは覚えてるかね。
その時あんたは消えたはずだから……
覚えてなくても良いから聞きなさいよ、
こうして戻ってきちまったんだから。
ウェンディと坊やたちが帰っていって……
あいつはちょっとしたらウェンディの娘のジェーンを連れて帰って
きた。また冒険だね。
それでジェーンが帰ったらまた今度は同じように娘のマーガレット
。メアリー。シンディ。エミリー。サマンサ。何人来たかな。
みんなとても可愛かった。毎日のように遊んでやった。
でもだんだん、あいつは、なんだろうね、
連れて帰ってこれなくなったんだよ。たぶんね、
最後から何番目かに来た子もいつのまにか……。
……で、長い長い空白があった。ずっといなかったわけじゃない、
たまに帰ってきた時もあるよ。
ここはいつでもどこにでもなにかがあったんだから。
でももうあいつのそばには誰もいなかったんだ。
妖精もどんどん数が減っていったんだ。知ってるかね。
あっちの世界の赤ん坊が初めて笑い声をあげたとき、
妖精は生まれるんだって。
きっとあっちの世界で何かあったんだろうね。
ある日。あいつは本当に、久しぶりに、連れてきたんだよ。
本当に。それも、
今まで連れて帰ってきた子供たち全ての素質を合わせたよりも、
すごい子供たちを、ね。すごい、すごい子供たちだったよ。
なんでも知っていたんだ。なんでもね……。本当に良かった、
最初はね。なんでも直して、なんでも作って、
そしてなんでもまっさらにして……分からなくなった。
あの子供たちが知っていることは私たちには理解できないんだよ。
逆にあの子供たちが理解できないことは私たちには理解できるんだ
。でも、その差が一つずつ埋まるたびに、たぶん、たぶんだけど、
私たちは一人一人、年を取り、死んでいったんだろうね……。
言えるのはそれだけだよ。あいつって誰だって?……誰……。
4
いつのまにか、背後に、青空色のシャツとズボンを着た美しい子供たちが現れていた。インディアン達は言葉を失い、喋らなくなった。それに代わるかのように、子供たちが、美しく透き通るような声を発した。
「こんにちは! そちらの方、はじめまして!」
彼らは様々な髪の色をしていた。だが中性的、というよりも皆美しく整った女の子のような顔つきをしており、瞳の色はどれも青く、笑みの中に突き刺さるものがあった。そしてそういうものが四人もこちらに近づいてきた。
「お会いしたかったんです」
一人の、茶髪の髪の長い子供が手を差し出してきた。思わずそれに握り返すと、とても心地よい感触がする。だがその時、後ろからインディアンの老人の一人が俺のシャツを無言で引っ張ってきた。
「お困りの様ですね。僕たちと一緒に来てください。是非あなたのような大人に会い、お話を聞きたかったんです」
「あ……君たちは一体……今の話の……いや、なんでもない」
俺はインディアンたちが話さなくなったことになにかの意図を感じ、余計なことをしゃべらないようにした。
「みなさんはそこでゆっくりしていてください。彼とお話したいことがあるんです」
俺は、礼儀正しい子供たちに囲まれ、ティピーから離れようとした。その時、リリーが意を決したように立ち上がり、声を絞り出した。
「あいつは……間違った子を連れてきちまった……その人を放しておくれ」
「……」
子供たちは笑みを崩さないまま、リリーを見つめた。リリーは見る見る顔色が悪くなり、再びへたり込んでしまった。
5
荒れ地の真ん中に六角形型の白いボードがあり、俺と子供たち合わせて五人が上がり込むと、ふわふわと音もなく空中に飛び上がった。
「突然驚かせてしまったようで申し訳ありません。僕たち私たちはロストチャイルズといいます」
「ろ、ロスト?」
「はい。どこか見てみたい場所はありますか?」
話の脈絡が繋がっているのかもわからないまま、別の子供が、平たい板を差し出してきた。最初は字付き盤かと思ったが、それは明るくガラス張りで、地図のようなものが見えていた。それも徐々に進行方向に合わせて見え方が変わっていた。
「……さっきの海岸に戻ってくれ、工場と反対側の浜辺だ」
「ああ、前に人魚が住んでいたとかいう場所の近くですね」
ボードはくるりと何の風も感じさせずに旋回し、先ほどの浜辺の上空に至った。
「あそこで俺は目が覚めたんだが」
子供たちは何の驚きなり感情的な動作を見せず、静かにうなずきあった。そして相変わらず美しい声が響いた。
「そうでしたか。船の残骸がありますね。時計もたくさんある」
「あれはジョリーロジャー号の残骸かな?」
「そんなことはどうでもいいんだ。その……俺について教えてくれ」
子供たちは笑みを崩さないまま俺に向き直り、口々に清らかな声を発した。
「あなたはフック船長ですね。帰ってきてくれてうれしいです」
「この世界がより豊かになりますね」
「本当に。フック船長。あなたの様な人がこの世界には必要です。あなたの様な立派で客観的な視点を持つ方を探していたのです」
まるで俺のことを説明書か何かですべて見知ったかのような口調で、彼らは畳みかけてくるのだった。そして、彼らの手元にはいつのまにか黒い長髪の、垂れるようなカツラがあり、それを俺に渡してきた。被りながら、気が付くと、身なりも以前より遥かによくなっている。そして次第に、目の前の子供たちの訳知り顔や、へりくだりながら情報を選び渡してくる態度に苛立ちを覚えてきた。だがその時、急にボードが傾いた。
「うわっ」
「気を付けてください。ああ。またこの現象ですか」
「近くにいますね。あっ」
再びひっくり返らんばかりにボードが揺れ、俺は海辺の岩場に目掛けて落下した。走馬灯の中で、この無機質な世界よりも遥かに前の光景が蘇ってきた。その時、今度は急に頭を引き上げられる感覚を覚え、俺は視界が遠ざかって気を失った。
6
目が覚めると、そこは洞窟の中だった。花の香りがする。そして、俺を見下ろし、というより俺の首元の辺りに立っている、小さな人型の生き物の顔が見えた。
「なんで、って言うんでしょうね!」
「……なんでだ?」
「ほら! ああ、もう嫌! それで、『ここはどこ』とか、『君は?』とか!」
「お前は?」
俺は顔を上げた。それは明らかに、女の妖精というべきものだった。洞窟の中には蔦や花があちこちから茂っていた。確かに今までここで見たことのない生命力がかろうじてあるようだった。
「……教えてあげる。私は最後の妖精、メンフィスベル!もう私の後には誰もいないの!」
先程の子供たちとは全く違う、キーキー声で、メンフィスベルは羽を現して辺りを飛び回った。羽からは、薄紫の光の粉がじわじわと出ていた。先ほど見ていたあの字突き盤もどきよりも気を引かれる光だった。
「何でだと思う! ねえ、何でだと思う? どうしたらよかった? どうすれば……」
先程まで何か怒っていたかと思えば、今度は膝を抱えてすすり泣き出した。まるで一度に一つの感情しか持てないかのようで、今の俺の手に余るくらい、この存在は不安定だった。だが、この存在が恐らく俺をさらい出したことも分かっていた。
「あのボードをひっくり返したのはお前か?」
「そう……きっと何か知っているかと思ったから! でもよりによって海賊フック船長だったとはね」
海賊、という言葉に、俺は何か沸き立つものを感じた。そして、腰元にサーベルがあるのを確認すると、俺はそれを振り上げ、メンフィスベルに背の方を軽く当てた。そうだ、海賊だ。得られるものは、奪わなければならない。
「前の俺が何をしてたか知らないが、いいか、知っていることを全部話せ!」
「いたあい! 何するの!」
「出会った奴全員が訳知りみたいなことを言って俺の名前を知ってんのに話さねえからだ! お前は俺を能動的に落として助けたんだろう! ヒステリーを起こしてる暇があるなら……俺に何かをしてほしいなら、全部話すんだ!」
俺の言動を聞き、だがメンフィスベルは憔悴した目をしながら、むしろ口の隅に笑みを浮かべたように見えた。先程の子供たちはすべてを見透かしたような態度だったが、この妖精の笑みには何か肉感が通っていた。
「いいよ。秘密の半分は教えてあげる。私はあらゆる意味で最後の妖精。ピーターパンの最後の……恋人。でも秘密のもう半分、いいえ、全部はピーターパンが持っているの」
「そのピーターのパンだかはどこにいるんだ」
「ピーターパンよ! 宝物庫の奥に、宝物と一緒に住んでるわ。私より宝物を選ぶくらいだから、きっとそれは生き物よ。でもそれが何なのかまでは知らないの」
「ピーターパン……」
俺がピーターパンという人名を出すと、メンフィスベルは猶更、崩れた笑みを浮かべた。
「どんどん怒りを感じて。感じるべき! 私の気持ちがわかるでしょう。あなたは意味があってここに来たの!」
俺は深く息をついた。明らかに、大きな何かに操られているようだった。その時、ふと気が付くと、まるでずっとそこにいたかのように、やや後ろにあの子供たちが立っていた。メンフィスベルもそれに気づき、金切り声を上げて子供たちに急に迫っていったが、一人の子供が器用にそれを両手でつかまれた。
「ここにいましたか! みんなを守らなければ」
小さな妖精の首に親指をはめ込み跳ね、そして絶望的な音がした。散った顔が足元に飛んだ。子供たちが俺を取り囲んだ。その向こうに咲いていた花は、すぐに枯れはてた。メンフィスベルの首を外した子供は指先を何かのスプレーで吹いていた。
「すみません。危険なので、どうしても対処せざるを得ませんでした。しかしもう問題を起こすことはないでしょう。これで彼女も苦しまず、幸せになったと思います」
俺は散った美しい顔に目を合わせた。
「違う。こいつが死んで幸せになったのはお前らであって……」
「そういう見方もあるかもしれませんね」
俺はもうこれ以上子供たちの話を聞かないように、内心のあらゆるざわめきを打ち消しながら、淡々と告げた。
「そうか。わかった。お前ら、俺をピーターパンのところに連れていけ!」
子供たちはまた、あの薄ら笑いの訳知り顔を見合わせていった。俺はだんだんその顔を見ているのも腹立たしくなっていた。
「まさに先ほど、ちょうどピーターパンさんに会わせたかったのです」
7
ボードに乗り、子供たちと共に俺は空を飛んでいた。俺は腕組をして、眼下の世界を見下ろした。前には気付かなかったが、道路らしきものが一本伸びており、またところどころに幾何学模様というべきかよく分からない建物やオブジェがあちこちに立っていた。そして道路の行き着く所に、小さな森があった。
「あそこの、『きよらかなもり公園』にピーターパンさんはいます」
「お前らはピーターパンと会ったことがあるのか」
「毎日のように会っていましたが、いまはそうではありません。彼はあそこのなかの地下建造物で滞在しているんです」
「宝物庫か?」
「宝物、ですか? どうでしょう。私たちはそう呼んでいません。何が宝物かは人それぞれなので……」
俺はその、質問に質問で返した子供の面を見た。
「小僧か嬢ちゃんか知らないが、単刀直入に答えろ。どうやってここまで来た?」
「私たちは公園で屋外学習中に、ピーターパンさんに誘われて、ここまでやってきました。およそ二時間半、ここまで不可解な方法で飛行して到着しました」
「で、普段は何をしている?」
「私たちはこうしてサスティナブルな遊びをしながら住民の皆さんと交流しています」
聞いたことのない単語に俺は舌打ちしたが、子供たちはそれぞれ下を見て、ボードの高度が徐々に下がっていった。森の入り口で、子供たちはボードをたたんだ。
「私達は彼に、入らないようにと言われています。でも、あなたが開けることは問題ありませんね」
俺は鍵を無言でひったくり、小さく整備された森の中の道へ進んだ。小鳥の声も木の騒めきもしない。幹を少し触ると、それはスポンジの様だった。そして行き着いた先に、木にはめ込まれた扉があった。ここまで来て、俺はどういう顔をして、そのピーターパンに会えば良いのか分からなくなった。俺はピーターパンとどういう関係なのか? だが、周りにいる訳知り顔の子供たちに余計なことを植え付けられるより、ピーターパンやその宝物だという何かが俺に今度こそ何かの向き合いを与えてくれることを願っていた。そして、俺は足元を見ると、海賊らしく、扉を蹴飛ばした。中に入ると、無人で、埃っぽく、薄暗い空間のみが見えた。切り株の机や良く分からない素材で出来た椅子が無造作に置かれている他に、興味を引く様なものはなく、その向こうのさらに半地下の階段の先に、ただ明かりの漏れている扉が見えた。
「あれが宝物庫か……?」
俺は徐々にそちらに近づいていくと、たどたどしく何かを読み上げる声が聞こえた。
「ピーターパンは……少しでも早く息を吸ったり吐いたりしたんだ。そうするたびに、大人たちが一人死ぬから……」
「ハハハ……」
朗らかな、だが幼い笑い声もする。俺は扉をゆっくりと開けた。そこには、年季の入った深い緑色のタイツの様な服を着たやせこけた少年と、あの子供たちと同じ服を着ている、本を抱えた髪の生えていない子供がいた。緑色の少年は、俺を見て目を見開いたが、無毛の子供は本を抱えたままじっとしていた。
「……誰だ」
「俺は……フックだ」
「フック……フック! ハハハ、変な名前だな、生まれた時からフックを付けてるのか? お母さんもさぞ腹が痛かったろうよ」
見るからに軽率な顔をしたその少年が、ピーターパンらしかった。だが無毛の子供が、本を再び広げた。
「ピーターパン。あなたはその人とずっと戦っていたんだよ。さっき読んだよね」
「そうだっけ? よく覚えてないな」
俺はピーターパンの首根っこを掴み、目を見据えた。
「小僧。いいか、よく聞け。さっき、お前の最後の恋人とかいうメンフィスベルがガキに殺されたぞ。それに、インディアンたちはよく分からないが明らかに苦しんでる。あのガキたちは何だ。そして俺はなんでここにいるんだ」
ピーターパンは一瞬目を見開いたが、次の瞬間、待ち針のようなものを懐からだし、俺の手を突いた。
「ウオッ」
「知るか! バーカ! 勝手に来やがって! 大人なんか大嫌いなんだよ! それに……お前、今頃戻ってきて……」
「こ、このガキ……」
「止めて!」
俺はサーベルを振り上げ、無毛の子供が声を上げた。だが、その時またしても、あの子供たちが現れたのだった。
「そうですか。ピーターパンさん、あなたの宝物は宝石とかそういうものではなく……レベルCのパズルでしたか」
「お前たちは少しも楽しいことをしなかったじゃないか! パズルだけだ、僕と向き合ってくれたのは」
この狭い部屋で、三つないし四つの勢力ががっぷりと向き合った。だが俺は自分の要求を場の複雑さに屈させることはなかった。何より俺は海賊で、年長だったから。
「やめて……止めて! みんな暴力だけはやめて!」
パズルという名前の無毛の子供が本を投げ出した。その表紙には、『ピーターパン物語』とあった。表紙には、緑色のガキと、よく知らない子供たちが並び、そして奥に赤い服を着た、俺によく似た海賊が立っていた。俺は急に惹かれるものがあり、それを這いつくばって取ろうとした。その時、ピーターパンは電光石火の勢いで俺に待ち針を突き刺そうとし、俺のいた場所を通り過ぎ……ガキの一人の胸を貫いた。
「あっ……」
「……一つ! これはメンフィスベルの分だ」
「これは許されないこと……」
ピーターパンはさらに撫で切るように、二人目の子供の喉にかかり、そして笑い声が響いた。
「やめてって、いったのに……!」
俺は本と、他の子供より感情が豊かに見えたパズルという子供を脇に抱え、どうにか部屋を飛び出した。
8
パズルを抱えながら必死に元来た道を抜け、入口にボードが置かれているのを見た。
「おい、ガキ……パズルだったか? 使い方を教えろ」
「やめてって……やめて……私が何かを考えるたびに悪いことが……」
「いいから飛ばせ!」
俺は有無を言わさずボードの真ん中にパズルを放り出し、隅っこをバンバンと叩いた。どういう力か分からないが、ボードはふわふわと力なく浮かび上がった。
「おい、飛ばせ……インディアンたちの所まで飛ばせ」
「ダメ……あそこに行ったら、私のせいであの人たちは死んでしまう」
「何でだ!……いいからまず飛ばせ!」
俺はピーターパンの本をパズルに見せた。
「お前はその本しか持ってなかったな! その本が命の次に大事なら、飛ばすんだよ!」
パズルはうつむき、一息ついた後、ボードは一直線に飛び上がった。それは先程のような静かな飛び方ではなかった。
「……私が何かを考えたり思いついたりするたびに何か悪いことが起きる……あなたもその一つかもしれない」
「何?」
「私がその本を読まなければ、誰にも迷惑を掛けずに済んだかも知れない……」
「……あの婆さんに会うんだ、そうすれば今度こそ何か分かるかも知れない」
そうして、眼下にあの黒い建物とティピーが見えてきた。地面に近づくや否や、俺はパズルを抱えて飛び降り、ティピーに近づいた。
「リリー、ダメだ、妖精はガキに殺されて、ピーターパンがガキを殺して……」
「そして私たちも死んだ……」
見ると、ティピーの中には、タイガー・リリーしかいなかった。他のインディアンがどこに行ったかは、聞く気が起きなかった。だが、リリーはゆっくりと起き上がり、パズルを抱きしめた。
「この子は……想像力が……あるよ。この子のおかげで、みんなかろうじて……」
「違う、違うんです……私のせいで全部連鎖して……私のせいでみんな死んで……」
「止めなさい、もうそんなことを言うのは。あなたは物語が読めるんだね。だから……ピーターパンの部屋にいたんだね。私はタイガーリリー。名前は?」
「パズル……変な名前でしょう」
俺は二人が抱き合い慰め合っているのを横目に、空を睨んだ。あのピーターパンは今にでも無邪気に、あのメンフィスベルよりも理解しがたい行動を取る気がしていた。
「変? そんなことない、いい名前だ」
「私は本来生まれるはずじゃなかった。何度も言われたんだけど……遺伝子や染色体をつぎはぎしたらどうなるかという実験で生まれたんです」
「……」
リリーはパズルの頭を撫でながら俯いた。
「妖精が減ったのも、子供が来ないのも、何もかも……分かった気がするね。あっちの世界ではすごいことが起きてるんだろうね……ああ」
リリーは再びよろよろと座り込み、更に横になった。俺はリリーに本を見せた。
「この本、知ってるか。ピーターパンに……どういうことだ? パズルがピーターパンに『ピーターパン』の本を読んでいた……」
「なるほど……それで、かろうじてこの世界は一本繋がっていたのかもしれない。なら、なおさら、あんたも読むべきだ、フック……あんたがこの本と子供を守るんだ……」
俺は本を無造作に開いた。そこには、赤い立派な服を着てフックをした海賊が、美しいピーターパンと戦っている場面が描かれていた。俺は全てを思い出した、気がした。パズルがリリーに駆け寄る。
「おばあさん……!」
「自分を……忘れちゃ……いけな……」
そしてリリーは静かに動かなくなった。
9
俺は海岸で、船の残骸で作り上げたイカダに、ティピーの布で包んだリリーの遺体を乗せ、海へ押し出した。ネバーランドの法則に従っているのか分からないが、イカダは静かに沖へと流れていった。そして、砂浜に座り込んでいるパズルに、木の棒を渡した。
「貴様は俺の子分だ……いいか、パズル。余計なことは考えるな。船を……海賊には船が必要だ」
「フックさん、やめて……あなたまで……言いたくはないけど、死んでしまう」
「死なない!」
俺は声を張り上げた。
「いいか、他人が死ぬ死なないなんて考えている暇があったら、俺の与えた仕事に向き合うんだ! お前にはそれが出来る! 船を……!」
パズルは俺を見上げ、そして立ち上がった。砂浜にある木をいくつか手に取り、一ヵ所に並べ始めた。
「こういうことしか、出来ないけど」
「良いんだ、それで……」
そして夜が来た。焚火を二人で挟むように座り、俺はパズルに聞いた。
「他の子供たちは? まだいるのか」
「あの四人だけ……あの子たちは普通の子だったから。本なんか必要としない、頭のすごく良い……」
「頭がよくて、やることがアレか」
「別にあの子たちは私の二歩も三歩も先に考えが出来るから」
「違う、考えていなかっただけだ。もし本当に頭で考えられるなら……」
俺はふと思い出し、頭のカツラを外した。なぜこんなものを渡してきたのだろうか。俺は毛のないパズルの頭を見て、カツラを渡そうとした。
「付けるか」
「……いや、それは船長のものだから。船長にこそ必要です」
船長。その響きには、妖精や他の子供たちの様な響きはなかった。俺はカツラを被り直し、そして布の上に横になった。
10
曇天を通した鈍い光を顔に浴び、再び起きた時、目の前の海辺に、小さな海賊船が泊まっていた。
「……船だ」
パズルは先に起きていて、砂浜に立ち船を眺めていた。俺はどういう言葉をかけるか一瞬躊躇したが、パズルの肩を掴んだ。
「偉いぞ。乗るんだ」
船体から垂れているロープにつかまって上がり、甲板へ。俺は船のあちこちを触り、そして操舵手席の近くで静かに、あの骨を置いた。
「……スミーたちに見せてやりたい」
「これからどうするんですか……」
「ピーターパンと向き合うしかないだろう。見ろ……」
水平線の向こうに、もう一隻の船があった。この小さな海賊船をあざ笑うかのように、大きなシップ船が。帆はどこからともなく風を受け、岸から離れ、船は海へ走り出した。操舵していると、俺はそして、船が相対すると、あのピーターパンは待ち構えていた。
「フック! ……ああ、思い出したよ、海賊フック! いいおもちゃだな!」
「ピーターパン! お前も今や分かっているだろう。この世界は終わりつつある。もう子供たちは来ねえ。だがこのガキだけは何としても無事に返すんだ。元の世界へ……」
「いやだ! いやだ! 絶対に嫌だ!」
「分かっているだろう! お前は向こう側の世界へ行って、全部を見てきたはずだ! お前の絶望は知っている! だがこいつにはこいつの……」
「僕の話屋を返せ! 海賊フック!」
俺は天を仰いだ。そうか、全ては世界の理に縛られるしかないのか。そして俺はパズルに向き直り、無言で頷くと、細い縄で縛り上げた。
「……いいだろう、ピーターパン! かかってこい! 今日こそ……今度こそ雌雄を決そうではないか!」
「……そうこなくっちゃなあ!」
ピーターパン以外に誰も乗っていない巨大なシップ船はただの舞台としての役目を終え、ピーターパンは単身でこちらに飛びかかってきた。その手には、あの血塗られた待ち針が握られていた。甲板の中ほどに、縛られたパズルが横たわり、その前で俺とピーターパンは刀を抜き向き合った。
「もうワニもいない。爆弾や毒薬もない……正々堂々の勝負だ、ピーターパン!」
「何が正々堂々だ! 大人はいつも自分でルールを勝手に作って!」
怒りながらも激しい笑みを浮かべたピーターパンが切りかかってきた。俺は激しく刀を左右してさばき合い、前へ後ろへと一進一退した。
「……分かってるんだろう、ピーターパン……全部……」
「……終わりを決めるのは……僕なんだよ……!」
ピーターパンは数歩引いたかと思うと懐から、更に小さな懐中時計を取出し、無造作にネジを巻いて投げつけた。俺の未だ薄い記憶の中から、あの迫る様な針の音が響いてきた。
「それ、チクタクチクタク、大人を追いかけるこの音に跪くがいいや」
俺は息が荒くなった。単なる小さな時計にもかかわらず、その音は俺を責め立てるが如きだった。俺はサーベルを無造作に振り払いながら、懐中時計から離れたが、音は執拗について回った。
「いつまでも……この土地は滅ばない! 滅ぶわけがない……」
じりじりとピーターパンは俺を壁に追いやり、待ち針を突き刺さんがごとく腕を引いた。その時、パズルが両足を思いきり上げたかと思うと、懐中時計を踏み壊してしまった。
「……! 何をする、話屋!」
それは恐らくパズルが初めてピーターパンに見せた自我だったのかもしれない。俺は振り向いたピーターパンの背中を蹴飛ばし、更に鍔迫り合った。
「何が……終わりだ! 今日の所は、クソッ」
ピーターパンは羽を出し、空に飛びあがったかと思うと、逃げ出してしまった。
「大丈夫か、パズル……」
ロールプレイに近いとはいえ、縛ってしまったパズルに近づいたその時。
「危ない!」
パズルの叫び声と共に、俺は金のフックに一瞬反射し輝くものを見逃さなかった。そして、サーベルを逆手に振り向いた。その時。逃げたように見せかけてすさまじい勢いで飛び込んできたピーターパンはサーベルに弾かれ、真っ二つになった。
「ピーターパン!」
「分かってたんだ……分かってたが……こうするしか僕にはなかった……」
「なぜ……!」
「なぜって……こうすることこそが何よりもピーターパンだから……」
11
俺は直視することなく、血も出ずに二つになってしまったピーターパンの遺骸をどうにか二つに合わせ、そして天を仰いだ。もはや何もかもが終わってしまった。狂ったような雲が迫り、海が荒れ始め、船が激しく揺れた。海賊船よりもはるかに大きいはずのシップ船は跡形もなく壊れてしまった。
「すまん、パズル。帰れるかどうかも……何が正しいのかもわからなくなってしまった」
「……いいんです」
俺はピーターパンの遺骸を、敬意を持って弔おうと持ち上げた時、不思議なことに気が付いた。影が動かない。
「これは……まだ生きているのか」
俺はその影を触ってみた。すると、影は徐々に大きくなり、まるで意志があるかのように浮かび上がり、辺りを飛び回った。遠くで雷鳴がする。と同時に、不思議なことに一筋の光が遥か彼方に刺していた。影は右へ左へとぐるぐる回っていたが、最後に俺とパズルの目の前に横たわった。そして腕の辺りが手招きするようにペラペラと動いた。
「……俺達だけじゃない。この船ごと行けるか?」
その影はすっと立ち上がったかと思うと、両手を腰のあたりで広げてさあねと言わんばかりのポーズを取り、そして船の下へ回っていった。次第に、船は浮き上がり、その光の指す方へ勢い良く進んで行った。
了
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