1
姿見鏡が揺れていた。蓋をした瓶の底のように静かな夜だ。鏡もまた、一切音をたてることなく揺れていた。
鏡が時々揺れていることに気づいたのは少し前のことだ。横五〇センチ、縦一四〇センチほどの大きさの姿見鏡だ。無垢のパイン材で縁取られ、脚は無く、代わりに紐がついており、壁に刺した画鋲に吊り下げられていた。
鏡が揺れているのに初めて気がついたとき、エアコンの風のせいだと思った。しかし、エアコンのオンオフにかからず、揺れるときは揺れていた。壁に刺した画鋲や吊り下げている紐にも、特に問題はなかった。
揺れる鏡はいくらか汚れていた。表面には細かい埃の粒が付着していた。映し出される自分は、そんな細やかな埃にまみれていた。そうして、なんでもない夜がゆっくりと過ぎてゆく。
新しい言葉を知るたびに、その分だけ、昔知った言葉を忘れてゆく。テクストを読み、映像を観て、いくつもの、様々な体験を重ね、語彙が増えてゆくというよりは上書きされてゆく感覚が強い。上書きを幾度も繰り返し、十代、二十代前半の頃と比べ、心を動かされることが少なくなっていった。表現に触れた際の心の動きが小さくなった。感性が摩耗しているのか、世界から感動が消えているのか、それはわからない。いつか、何も感じなくなってしまうのではと、時々不安になる。
二○二四年五月五日。
御徒町の喫茶室ルノアールで、この文章を書いている。四人掛けテーブルを一人で独占し、壁に沿って設置されたソファに座り、ノートパソコンに打ち込まれる文字列を眺めている。何かしらを頭の中で考えていたとして、文字にしなければその考えは形を持たない。考え、考えたことを伝えるために、文字にするのではない。文字にすることで初めて、思考自体が生成される。日本に帰ってきてからこの文章を書き始めるまで、一カ月以上を要してしまったことを、まず正直に告白すべきだろう。日々記憶は摩耗し、打ち寄せる波にさらされる砂浜に描いた絵のように輪郭は曖昧となり、その度ごとの手触りや温度、においは失われてゆく。正直ついでに言えば、この頃、僕はいくらか自信を無くしていた。
五月五日、ゴールデンウィークも残り二日という日。午前一二時、上野の国立西洋美術館へ行った。よく晴れた日だった。「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」という、日本の現代美術家の作品が並ぶ特別展を観てきた。国立西洋美術館で、日本の現代アートの特別展をするのは珍しい。展示されている作家たちの一人、弓指寛治の作品を観るために僕は行った。山谷のドヤ街や公園のホームレス、上野公園の人々への取材から、そこに暮らす人々を描いたルポルタージュ的な作品だ。上野周辺は文化的なエリアとして知られるが、他方で路上生活者の暮らしの場ともなっている。もうひとつ、常設展内の企画として開催していた「真理はよみがえるだろうか ゴヤ〈戦争の惨禍〉全場面」の展示を観た。一八○八年から一四年のスペイン独立戦争に取材し、戦いの光景やその中で苦しむ民衆の姿、政治風刺を主題とした版画の連作だ。
二つの展示を観て、僕はようやくこの文章を書き始めた。自信は未だないが、書く準備ができたと思うことにした。随分と時間がかかってしまった。
2
簡単に経緯を話す。
二〇二四年三月の話だ。僕は友人の三塚と、ポーランドとドイツへ行った。それは、アウシュヴィッツ強制収容所跡やザクセンハウゼン強制収容所跡といった、ホロコーストの歴史を巡る旅だった。子どもから大人まで参加し、アウシュヴィッツとホロコーストについて学び、聞いて、考え、議論する「特別教室」という場をつくる、そのための視察の旅だった。クラウドファンディングでいただいた支援により、我々はプロジェクトを実現することができた。この文章はまた、クラウドファンディングで支援いただいた方々への報告文書として、まず用意されたものをベースとしている。
電子書籍として出すにあたり、改めて目を通し、文章を追加し、削除し、書き換えた。他方で、本筋の部分は一切変えていない。多少読みにくい部分や、わかりづらい表現など、適切と言い切れない箇所もあり悩んだ末に残した。また本テクストは、クラウドファンディングの報告文書として三塚によって書かれた、もうひとつの「視察レポート」と対を成すものとしてまず書かれた。「視察レポート」がアウシュヴィッツやザクセンハウゼンが提示した内容を説明し、解説を加えた、それ自体と正面から向き合って書かれた文章だとしたら、本テクストはその外部ないし裏面を捉えようと試みたものである。ゆえに本テクストのみを読まれた場合、説明不十分だったり、もっと語られるべき論点があえて語られていない、という印象を持たれたりするかもしれない。この点についても、加筆することは断念した。以上の経緯で書かれた文章であることを念頭に置いていただけると幸いだ。
二○二四年三月二○日から二五日にポーランドとドイツを訪れた期間を中心に、その前後数カ月、あるいは数年の範囲において、僕の視点から捉え、感じ、考え、悩んだことを綴った文章だ。事実だったり、あるべき方向性や意図だったりを打ち出すものではない。論文ではないし、取材記事でもない。拙い紀行文として読んでほしい。このような文章に、一体意味はあるのだろうか。
3
二○二四年三月一九日。
午後八時十分頃、電車を乗り継ぎ、羽田空港に到着した。昼は暖かいが、夜になると肌寒い。八時集合と言いながら、早速遅刻する。三塚は日本円をズウォティとユーロに換金し、ウェブチェックインを先に済ましていた。僕は前もって換金していたので、案内に従いチェックインを進めた。荷物を預け、入国審査を終え、発着場内で二人ラーメンを食べて、売店でミネラルウォーターとアイマスクを購入した。カフェに入りビールを飲みながら、搭乗の時間を待つ。
「ビール、トウキョウ・クラフトだ。美味い」
「どうせ、ポーランドでもドイツでも、ビール飲むんだけどね」
「最後の、トウキョウのビールです」
「ここまできたね」
「ほんとに」
「緊張してる」
「ちょっとだけ」
「いろいろ、失敗しないように。トランジットとか。行けませんでした、は許されないから」
「でも、今は眠い。なんか疲れてる」
「そう、眠い。シンプルに。ラーメン食べた満腹が効いてきた」
「なんで大盛り頼んだの」
搭乗開始のアナウンスを聞き、飛行機に乗る。離陸前、三塚は既に眠っていた。僕は映画「二〇〇一年宇宙の旅」を観始める。機内食を食べる。白ワインを少しずつ、舐めるように飲む。映画のクライマックスシーンを眺め、抽象的な映像表現に身を溶かし込むよう、眠りに就く。
二○二四年三月二○日。
時差の影響を可能な限り抑えるため、ある程度計算して眠りに就き、起床することができた。単一の深い眠りではなく、複数の、意識と無意識を行き来する細切れの睡眠だ。それでも、複数を束ね、なんとなくひとつの眠りとしたものを始め、終えられた。機内は明るく、話し声が多方から聞こえた。ほとんどが外国語だった。機内食を食べ、知らない銘柄のビールを飲んだ。
羽田からドバイ空港へ。ドバイで乗り換え、ワルシャワへ向かう。トランジットは一時間。タイトなスケジュールだ。ドバイの着陸予定の時間が迫るが、着陸の気配を見せない飛行機に焦り始める。予定時刻を過ぎて着陸してから、その後もなかなか扉が開かない飛行機に、ますます焦りが膨らむ。十秒ごとに時計を見つめ、十秒経過したことを確認する。それを幾度も繰り返し、十数分の時が進む。ようやく飛行機から出られた時には、到着予定から三十分遅れた時刻だった。三十分で乗り換えを完了させなければならないが、ここはドバイ空港、果てしなく広い。
長時間のフライトによる疲労、着陸十分前頃におきた機体の激しい横揺れによる酔い、ビールを飲んだことに起因する酔い、ドバイの暑さ、便意と腹痛、重たい荷物と冬物のダッフルコートなど、すべてを抱え、我々は走った。三塚は僕より体力がある。僕は少しずつ離されながら、彼に先を走ってもらう。見失うと迷子になりかねないので、遅れつつも必死についてゆく。同じように搭乗口へ向かって走る夫婦とすれ違う。大きな楽器ケースを抱えており、見るからに辛そうだ。ポーランドと言えばショパンだ。音楽の国。そんなことを一瞬想像し、互いの健闘を祈り、走る。
搭乗口には搭乗締め切り時刻に五分程度遅れたタイミングで到着した。特に問題なく乗ることができ、本当に安堵した。疲れた表情で笑ってこちらを見る三塚に、僕も笑い返したが、きっと死んだ顔をしていたに違いない。全力疾走して汗だくの身体を飛行機の座席に沈めた。セーターを脱ぎ、肌着一枚となって、汗拭きシートで気休めのように全身を拭く。楽器を持った夫婦も遅れて搭乗してきた。アイコンタクトをし、微笑む。
「疲れた」
「広すぎる」
「ま、なんとかなった」
「一人じゃ、たぶん諦めてた。二人だから、なにより、みんなの想いを乗せた旅だからこそ、最後まで諦めず、走りきることができた」
「主人公じゃん」
結局、予定時刻から約五十分遅れて飛行機は離陸した。走らなくてもよかったなと思ったが、あまり深く考えないことにした。
機内で映画「Winny」を観た。金子勇が開発したファイル共有ソフト「Winny」を巡る裁判を扱った映画だ。ファイル共有ソフトの利用者による悪用が、社会問題になった。「ナイフで人を刺した場合、ナイフを作った人は罪人となりうるか?」という比喩が印象に残る。罪や悪はどこに存在するのだろうか。
4
少しだけ、僕と三塚の話をする。それから、プロジェクトの話を。
僕らは大学の同期で、かつて大学の食堂だったり、居酒屋だったりで、歴史や社会や世界について際限なく語ってきた。僕らは京都や愛知へ行った。社会人になって、三塚は高校の地歴科の教師になり、僕はウェブメディアのマーケティングの仕事をしている。時々会って、酒を飲み、学生時代と変わらずに歴史の話をした。彼は現役で世界史に携わっているが、僕にとってはいわば引退した身だ。彼の存在が僕を「歴史」に繋ぎ止めてくれたと言って過言はない。
ある日、三塚がアウシュヴィッツへ行きたい、と言った。僕が行こう、と答えた。最初は旅行として考えていた。せっかく行って、見て来るのだから、何かしら社会に還元できるものにしたい、と次第に思うようになった。世界の情勢も変化し、今、アウシュヴィッツへ行く意味があるように感じた。なぜ日本人がアウシュヴィッツへ行くのか。それはヨーロッパ外の存在である我々だからこそ、フラットに捉えられる歴史があるのではないかと考えたから。なぜ僕たちが行くのか。専門家でも何者でもない僕らだからこそ、ただの観光客として訪れ、歴史について考える、ある意味で「普通の」歴史の学びと実践の可能性を開くことができると思ったから。その上で、教師である三塚とメディアでマーケティングの仕事をする僕とだからこそできる、特別教室という場をつくることを構想した。
「帰って来たら、報告会だったり、レポートだったり、紀行文だったり、そういうのをやるんでしょ。行く前に考えていることを書いておくといいんじゃない?」
ある日、家で彼女にそうアドバイスをもらった。その通りだと思った。僕と三塚の間で共通する問題意識についてはクラウドファンディングのページに綴られた。多くの時間と熱量を注いで書かれたものだ。二人で何度も議論し、確認し、文章を書き、書き換え、構成を入れ替え整えながら、自分たちが今何を考え、なぜアウシュヴィッツへ行くのか、その問い自体を言葉にしていった。
僕個人がアウシュヴィッツへ行く前に考えていたことは、そのようにして二人で作成した「問題意識」と重なる部分と、そうではない部分とがある。以下三点だ。
ひとつ目は「歴史と部外者」の問題。ヨーロッパという場所が、ユダヤに対する過去の歴史によって、現在のイスラエルとパレスチナに至る困難を強いられる状況を、日本に暮らす我々ならば別の視点で捉えることができる。あるいは、研究者でも政治家でもない僕らだからこそ、より一般的な視点で、アウシュヴィッツの歴史を学び、伝えることができるのではないか。アウシュヴィッツという世界史上に類を見ない悪について語ることは容易ではない。誤りがあってはならない。ゆえに、誰もが語り、考えること自体、難しくなっている。自分と関係のない、他人事となってしまう。その困難を切り開き、もっと近い距離で、誰もが考え、語れるようにしたい、という狙いがあった。
二つ目は「歴史と観光」の問題。観光という形で、観光客だからこそ考え、応答可能な歴史があるのではないか。例えばアウシュヴィッツという場所は、観光地として見た時にどのような場所として映るのか。あるいは今回の訪問では、歴史の博物館や収容所跡以外にも、ヴィエリチカ岩塩坑のような、いわゆる「観光地」も訪れる。そのことによって見えるもの、単にアウシュヴィッツを視察するだけでなく、ポーランドとドイツへのトータルの観光によってつかめる感覚があるのではないか、という仮説を持っていた。
三つ目は「歴史と表現」の問題。前の二つは二人の共通の目的だったが、これは最も僕の個人的な問題意識と言えるかもしれない。他方で、ひとつ目と二つ目の問題とも関連した問題である。アウシュヴィッツの歴史は現地で実際にどのように語られているのか。歴史はいかに語り、伝えることが可能か。僕らは本や映像を観て、アウシュヴィッツとホロコーストを、現地を訪れる前に勉強した。歴史の入門書を読むと、歴史の概要について把握することはできるが、その残虐さを実感するまではできなかった。他方、『夜と霧』のようなエッセイだったり、ノンフィクション小説だったりを読むと、その場の音や臭い、痛みを想像し、僅かでも手触りを得ることができた。それは偽物だ。表現を通じて得た「僕の」想像の産物にすぎない。それでも、過去の出来事を伝え、残すには、ありのまま事実として伝えるか、もしくは何かの表現に落とし込む必要がある。このことに僕は関心があった。例えば博物館はどのように歴史を展示しているのか。何が展示され、展示されないのか。本や映像の表現と現地の展示の表現とで、受け取った際にどのような違いがあるのか。それらを観てきた上で、僕らはどのようなアウトプットが可能なのか。
クラウドファンディングのページを作成し、公開し、二月下旬の頃に改めて僕はそのように整理した。出発の一週間前にも、簡単にこれらの問題意識を振り返った。三塚とも互いに話をした。羽田を発った瞬間以降、これらの問いと仮説はしばらく思い出されることはなかった。
二○二四年五月一一日。
帰国してから一カ月以上が経った日。特別教室の開催に向けて、プログラムを三塚と議論する。開催にあたっての具体的な設計や準備について僕の方で洗い出し、三塚は授業内容とスライドを作成し、互いに確認し合う。アウシュヴィッツへ行って、あるいは、ポーランドとドイツへ行って帰ってきて、考えたこと、今考えていることについて改めて話をした。僕らは共通してある感触を持ち帰っていた。それは、大きな困難でもあった。
二○二四年三月三○日。
ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港に着く。入国審査では長蛇の列ができていた。EU圏内の場合は審査が簡易化され、スムーズに進むのに対し、我々EU圏外から来た場合は一人一人窓口で入念な審査が行われた。三塚が早速ゴープロを取り出し空港のあちこちを撮ろうとすると、すぐさま空港の係の人間がやって来て注意を受けた。即座に撮影をやめ、撮ったものをその場で削除するよう求められた。そういうこともある。
一時間近く待たされ、入国した。荷物をピックアップし、空港からワルシャワ中央駅へ電車で向かうべく二人で話す。切符の買い方、乗り方、乗り場所がわからず、ググり、何度も人に尋ね、教えてもらい、ようやく乗車する。乗り換えを少し間違いながらも、ワルシャワ中央駅のすぐ隣の地下鉄の駅に辿り着く。地下から地上に出ると、大きな青空が広がっていた。ワルシャワ中央駅へは一直線の広場化した通りが走る。スーツケースをワルシャワ中央駅のコインロッカーに預けると、ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館へ向かって歩く。三十分くらいの道程だ。
近代的な街並みが並ぶ。広くまっすぐな道路と高いビルディング。道は碁盤の目のように区画が整理されている。建物は旧共産圏であることを思い出させる意匠が多い。一方では八十年代のSFチックな建築物が、他方では団地的な構造の建物が並ぶ。都度歩みを止めては写真を撮って、再び歩み、周囲を見渡して、を繰り返しながら、我々はゆっくりと大通りを進んだ。
ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館は、何よりその建築物に興味を持ち、行きたいと思った場所だった。遠目から見るとモダンなガラス張りの建物だが、外壁を覆うガラスのルーバーにはラテン語とヘブライ語で「Polin」という単語が書かれている。エントランスからメインホールにかけて波打つ高い壁は「ポーランドとユダヤ人の歴史の亀裂」を象徴するもの、とのことだ。ドイツとユダヤ人ではなく、ポーランドとユダヤ人、である。
実際に建物を目の当たりにすると、写真ではわからなかった建築の巨大さに驚かされた。口コミでは四時間以上かかる、とも書かれていたが、なるほどこのサイズの博物館ならありうる。中に入り荷物検査を済ませ、リュックサックはロッカーに預ける。音声ガイドは日本語も対応していた。展示は古代から始まる。鮮やかな色彩と美しい文様のシナゴーグの再現が、まず目を惹いた。
展示内容は大きく二つの方向性に整理される。ひとつはポーランドにおけるユダヤ人の歴史を描く。もうひとつはポーランドの歴史にユダヤ人の立ち位置を丁寧に書き加え、その視点から観た歴史(ポーランドの歴史)を描くものだ。すなわち、「ポーランドのユダヤ人の歴史」と、「ポーランドのユダヤ人から見たポーランドの歴史」とが、時代順に展示されてゆく。音声ガイドを頼りに丁寧に観ていくが、これが何の歴史で、何に繋がってゆく展示なのか、しばしば迷子になりかけた。僕の理解力の問題もあるが、そもそも扱う歴史自体が複雑なのだ。特に中世あたりまでの歴史は、ユダヤ人の離散の歴史でもある。ひとつの線として歴史を描くことは可能なのか。
本博物館の展示は極めて詳細かつ具体的だ。ゆえに膨大である。数字やテクスト、図面、手記、写真、動画、イラストが多用され、展示空間の設計や導線が細部まで考えられている。実寸大の模型や道や街の再現まで、照明だったり材質だったり、非常に手が込んでいる。平面ではなく、空間を使った立体的な展示だ。単なる記録の羅列ではなく、どれも丁寧に表現に落とし込まれている。見せるだけでなく、体験させるものも多い。本博物館の展示の体験は、まるでディズニーランドの「ライド」に搭乗してディズニーの物語世界に没入するようだった。実際、ライド空間における小部屋を分けての場面転換や、映像とマテリアルの展示の融合など、共通点は多いように感じた。
展示はホロコーストの時代の歴史に突入すると、途端に色が失せ、白と黒の世界となる。白黒の写真の展示が多い、というだけでなく、明らかに表現のトーンが変容する。博物館は、かつてワルシャワゲットーがあった場所に建っている。そのことの実感はあまり沸かない。博物館の内部で完璧に作られた展示空間が、それ自体でひとつの完成が達成されていたからかもしれない。
ポーランドのユダヤ人博物館を出ると、既に日は傾いていた。博物館から数分歩いた場所にあるワルシャワ蜂起記念碑を見に行った。ワルシャワ蜂起を起こした兵士たちの、力強さが表現された碑だった。我々は記念碑の兵士たちの一員になったようにポーズを決め、写真を撮り合った。記念碑の隣には最高裁判所が建っていた。
夜、ワルシャワの旧王宮の近くでハンバーガーを食べる。タクシーに多額の料金をふっかけられ、しぶしぶ了承してワルシャワ中央駅へ向かう。スーツケースをピックアップし、チケットを購入して、クラクフ行きの電車に乗る。ハリーポッターに出てくる汽車を現代的にしたような、個室タイプの電車だった。自由席と勘違いして適当な席に座っていると後から来た乗客に指摘され、あるべき席へ移動する。
個室に入ると既に男性二人、先客がいた。相部屋のようだ。日本人が珍しいのか、初めから好奇の眼差しを向けられた。彼らはポーランドでトラックの運転手をやっているようだった。一人は日本のマンガやアニメが好きで、腕には孫悟空のタトゥーが入っていた。スナップチャットが流行っているらしく、彼は彼の友人にビデオ通話をし始めた。僕はかめはめ波を彼のスマホ画面に向けて放った。鳥山明が亡くなって一カ月と経たない頃だった。互いに拙い英語で、何度も聞き直したり、言い直したりしながら会話した。楽しかった。
クラクフに着くと二十二時を過ぎていた。疲労と睡魔が波のようにゆるやかに、確実に押し寄せた。路面電車に乗り、ホテルへ向かった。部屋に着くと、交互にシャワーを浴び、ベッドに潜った。明日はアウシュヴィッツへ行く。仰向けで寝そべると、手の届かない、部屋の高い位置の格子窓から月が顔を出し、室内に白い光を注いでいた。
5
二○二四年三月一八日。
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