ぼくは、おとなはずるいとおもいます。どうしてずるいのかっていうと、ぼくは「おとなはずるい」というぶんしょうをかいたのですが、それがしんぶんにのって、それでお父さんとお母さんは「うれしい」となぜかよろこんでいたからです。
ぼくはぼくがおとなたちから笑われているんだと思いました。だって、ぼくはおとながずるいということを書いたのに、おこられることもなくてまわりのみんながうれしそうにほめてくれるのはおかしいとおもいます。
ぼくがもっとずるいと思うことは、こくごのきょうかしょのことです。ぼくはしょうがく二ねんのときに『ふきのとう』というはなしを読んで、ぜったいにこれはウソのはなしだとおもいました。
なぜかというと、ぼくのかぞくははるのはじめにふきのとうをとっててんぷらとかおひたしにして食べているからです。
おとうさんのふきのとうも、おかあさんのふきのとうも、これからだれかにつまみあげられてころされるとしたらどうでしょうか。こどものふきのとうはひとりぼっちじゃないでしょうか。
それから、ふきのとうが、だれかの手でひきちぎられるときのくるしみについて書いていないこともウソだとおもいます。
どこかのおじいさんがやってきて、おかあさんをねらったとき、「わたしはにがくてまずいから、むすこをおねがいします」といわないんでしょうか。
ぼくだったらぜったいにしにたくないから、おとうさんとおかあさんをさきにたべてほしいです。とくに、すごくきらいなおとうさんをさきにたべてほしいです。
このきょうかしょをつくった人とさくしゃはすごくひきょうだと、ぼくは思います。
まだあります。ぼくはしょうがく四ねんせいのとき、『ごんぎつね』というおはなしをむりやりよまされました。とてもこころがあたたかいごんが「じゅう」でうたれて死んでしまうことはすごくかなしかったです。
なんでこういうおはなしをよまないといけないの、とおとなにきいても「それはそういうものだからしかたがないんだよ」としかいってくれませんでした。ぼくはごんがすきだったし、へいじゅうもすきだったから、このおはなしをよんでふたりともしあわせにいきてほしかったからとてもおちこみました。
ぼくはごんが死なないでいるはなしがよみたかったとおもいました。
『大造じいさんとガン』というおはなしもむりやりよまさせれました。
ぼくは大造じいさんはガンをころさなくてもいきていけるんじゃないかと思います。はたけをたがやしたり、そのはたけでとれたものをちかくのむらのともだちみたいなひとたちにくばったりいろいろできたはずだとおもうからです。
どうして大造じいさんはころさなければならなかったのでしょうか。せんせいはあきらめたように「しかたがない」といいます。
でもこのものがたりの大造じいさんはガンといういきものをころすことだけにがんばっていきているようにおもいます。「いきものをりゆうもなくころすことはいちばんいけない」ことだとせんせいはいっていました。
大造じいさんは、ガンをころさなくても、じぶんでいっしょうけんめいはたけをたがやして、できたたべものをみんなでわけあってくらしていければしあわせだったのにとおもいます。
ぼくはちゅうがくせいになったとき『高瀬舟』というはなしをせんせいからよまされました。ぼくはちゅうがくせいとしてのちのうしすうが足りないとおとなから言われます。だけれど死にたいと思っている人を死なせないようにしているせかいはぜったいにまちがっているとおもいます。死にたくないとおもっているひとをころしてしまうせかいもまちがっているとおもいます。
このはなしはむずかしくて、よくわからないところもあったですが、ぼくにおとうとがいて、とてもくるしがっていて、もうころしてくれといわれたらぼくはぜったいにころすとおもいます。
でもせんせいは「それはいけないことだ」といいました。ぼくはちのうしすうとかのほかに「にんげんとしていちばんだいじなところがわかっていない」とせんせいとおやからいわれました。
ぼくはおとなはずるいと思います。ぼくのかいたぶんしょう、ぼくのことをわらっているおとなもやっぱり、ざんこくでひきょうだとおもいます。
『ふきのとう』のはなしも『ごんぎつね』のはなしもとてもぼくはきずつきました。でもおとなはいつも「まだこどもだから、そういうことがわからないんだね」とわらっています。
ぼくはおとなたちがいつもいっている「そういうこと」がわからないですし、これからさきもぜったいにわかりたくないとおもいます。
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