なにも遮るもののない関東平野は濡鴉色の夜闇に浸かっていて、その夜空の一面を箒星が覆っていた――栗の花のような淡く黄色い白を天空に撒き散らして。
ハルキはミニバンのドアガラス越しに土浦の夜に広がる「天体ショー」を眺めていた。
カーラジオからAM放送が聞こえる。ラジオは、淡々と世界の終わりを伝えていた。
――いま世界を絶望のどん底に陥れている彗星は、昨年の暮れ、マウイ島のハワイ大学ハレアカラ観測所で発見されました。識別のためにつけられた符号はC/2023 X6。どこから到来してきたか一切不明のこの彗星は、形がヒトの精子に似ていることからスペルマ彗星と命名され、大学の天文センターで軌道を計算した際、皆さんも知ってのとおり、今日、8月5日の日本時間の夜11時に地球に衝突すると判明。彗星を構成する物質は不明で、直径は推定100キロメートル。6600万年前に恐竜を絶滅させた隕石の10倍です。6月からは非常に明るくなり、天体望遠鏡がなくても肉眼で見えるようになりました。
ミニバンの2列目、中央のシートに座るハルキは、空を眺めながら札を握っていた。――高校最後の夏は散々だった。まず地球に彗星がぶつかり人類がほぼ100パーセントの確率で滅びる。そして世界滅亡に比べたらどうでもいいことだが、夏休みに実家に帰省したら八尺様に魅入られてしまった。
これから実家のある集落から脱出しなければいけない。といっても、脱出できたところで1時間後には彗星が衝突して全人類が滅亡する。だが、ハルキたちの賭けが成功すれば、もしかしたら地球滅亡を回避できるかもしれなかった。
チアキ――ハルキの父が運転席から手を伸ばしてラジオを切る。
唾を飲みこむ。
助手席から長老のクニカツが話しかける。
「お主ら、彗星の形をよく見るのじゃ。どう思う?」
窓の外を再び眺める。彗星の形は先端がうちわのように丸く膨れて、ありえないことに、細長い線の尾は時折、うねうねとオタマジャクシのように動く。帰省前に新宿の紀伊國屋書店に立ち寄ったとき、投げ捨てるように大量に売られていた月刊ムーは「スペルマ彗星は本物の精子だった!?」と、いつにも増してぶっとんだ特集を組んでいた。
「……すごく、精子です」
ハルキがクニカツに答えると「そうじゃ。精子だろう。精子は必ず、卵を求める。卵――それはあの忌々しい化け物だ!」と険しい声で返し、しわだらけの指でフロントガラスの向こうをさした。
夜の大地。蛍光灯が冷たい白を放つ。蛍光灯がとりつく電柱に寄りかかっているのは白いワンピースを着た巨大な女。身長は電柱と地面の距離のちょうど半分。――八尺様だ。
クニカツはハルキを振り向くと、目を輝かせた。
「集落の言い伝えによると、八尺様は男を魅入るのではなく、正確には男の精子を魅入る。つまり今回の彗星は、大宇宙の深淵を泳ぐ一匹の巨大な精子が魅入られて地球へやってきたのじゃ! ついでに八尺様はハルキも魅入った。節操がないのう。じゃが、やられっぱなしじゃいけない。ワシたちも馬鹿だった。八尺様に物理攻撃が効かないなんて思いこんでいた。誰も試したことがないのに」
なにもやらないなら死ぬだけだ。世界を救うため、これからミニバンで八尺様を轢く。
隣に座る親戚が「そろそろだ。ハルキ、目を合わせるなよ」とつぶやくと突然頭を掴んできた。ハルキの視線は強制的に下に向けられた。あまりにも素早く動かされたので危うく舌を噛むところだった。
「急加速すんぞオラア!」
チアキが大声で叫ぶとミニバンは猛スピードで加速。唸る2.5L直列4気筒エンジン。学生時代は特攻のチアキと呼ばれていたとハルキは聞いたことがあるが、その異名はまだ色あせてないようだった。
エンジンに負けじとハルキの座るシートの左右と3列目に座る一族たちは一斉に念仏を唱えだした。エンジン音と念仏の重低音がうねりながら協奏する。
激しく車体が揺れる。衝突。切り裂くような断末魔!
ミニバンは急ブレーキをかけて停車。ハルキは顔をあげて外を見た。撥ねられた八尺様の体はぐったりと地面に横たわっていた。
「やったか?」
チアキがつぶやく。
だが、地面に倒れた八尺様は何事も無かったようにむくむくと起き上がると、あろうことか、突然背が伸びはじめた。
ぐんぐん伸びる。どこまでも、どこまでも。電柱を越えた。電柱の隣の大木も越えた。高圧線の無骨な鉄塔もすぐ越えた。
八尺様は、ハルキの実家から毎日拝める牛久大仏よりも大きくなり、2倍ほどの高さになったところで止まった。
――牛久大仏は120メートル。その2倍だから身長は240mメートル。つまり八百尺様じゃないか。
そうハルキが思うとすぐに八百尺様は分裂した。2体になった。4体になった。8体、16体……。16回も分裂した。指数関数的に増殖した、推定約65000体の八百尺様は平野を埋め尽くし、口を一斉に開くと純白の光線を放った。光線は平野に広がる田んぼやロードサイドのイオン、遠くに霞む東京の煌めく夜景に当たると瞬く間に火の海が地表を覆った。
ああ、もう遅かった。世界の終わりだ。
「ふざけんな。こんなことになるなんて!」
チアキが涙声になり、インパネを拳で叩く。クニカツと他の一族はただ呆然と震えて涙を流し、八百尺様たちが世界を焼き尽くす様を見ていた。
燃え盛る大地を八百尺様たちは横一列に並び、地獄の業火に照らされながら進む。
刹那、八百尺様たちは天を仰ぎ、一斉に「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ……」と唱えだすと、天に輝くスペルマ彗星は、その核をこちらへ向けてきた。
彗星は瞬く間に大きくなった。全天が、精子の白い頭が覆われた。
ああ、八百尺様が大地を焼きつくしたのは受精の準備のためなんだ――ハルキはなぜか根拠もなく悟った。
轟音とともにスペルマ彗星は落下し、地面と衝突した。
ハルキの肉体は一瞬にして溶け去ったが、まだ意識があった。
ハルキはいつのまにか大宇宙の虚空に浮かんでいた。太陽が見える。月が自分の周囲を回っている。どうやら、地球と意識が溶けあってしまったようだった。
ふと、宇宙の遥か遠くを眺める。地球は女の肉体の中に埋まっていた。土星がかすめるところに女の頭があり、そこから太陽と点対称の場所に足が見えた。女は白いワンピースを着ていた。
ハルキは小学生のころに読んだ天体図鑑を思い出した。土星と地球の距離は約12億キロメートルだから、あの女の身長は24億キロメートルになる。つまり、八兆尺だ。そしてここは女の下腹部にあたる。
「そうか、この地球は卵子だったんだ。そしてここは子宮だ。――八兆尺様の」
ハルキの脳裏になぜかチアキの声が聞こえた。いや、チアキだけじゃない。様々な声が聞こえる。ミニバンに乗っていた親戚たちの意識、日本列島に住む人間の意識、そして、地球上に住む全人類の意識が溶融していた。
全ての人類の意識はドロドロに混ざっていた。子宮に包まり、全人類は地球とともに細胞分裂を繰り返し、何万年、何億年、何兆年かが経過した後、八兆尺様の産道を通り抜けて元気な産声をあげた。
「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ……!」
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