ドアをあけるとまず濃いタバコのにおいに鼻をうたれた。バーカウンターのある部屋だ。
私は股間をあらってベッドに腰かけた。スプリングがかたい。
しばらくするとノックの音がした。出ると、高校の制服を着た小柄な女性だ。丸顔で、いかにもすけべそうな垂れ目に目が行く。鼻の造型がいくぶん不格好か……。私は品さだめのけはいをさとられるまえに視線をはずした。
「はじめまして。こはくでーす」
「北島です。きれいななまえだね」
ありがとございまーす、と言って、こはくはベッドのうえにゴロンと横たわった。
「オプションどうします」
「『上からおさわり』で」
「上からでいいんですか。直の方がやわらかいですよ」
私は苦笑した。こはくは部屋の照明をしぼった。
「いいならいいですけど」
一〇〇〇円札をわたしてプレイがはじまった。さわられてすぐに私は果てた。
「えー。まだ四分しかたってないですよ」
もう一回出しますかと問われて私は逡巡した。「のりきじゃないならやめましょ。やめましょ」とこはくが提案をとりけした。「あー。ペース配分まちがえたー」
私はよごれたティッシュをゴミ箱にすてて服を着た。それからベッドの上で体育座りをしているこはくのとなりに腰かけた。
「じゃあ……なんかおしゃべりしますかー」
とこはくのふぬけた声がのびてきた。
「そうだなあ」
なにを話したものかとかんがえていると、
「あー。なんか寝そう」
とききなじみのあることばがこはくの声に乗って発せられた。わかれた妻がよく言っていた。いまさらこんなことでどきりとすることなどないが、似ても似つかぬ女の顔が粒子のあらいやみのなかに茫とうかんだ。
「ふだんはなにをやられてるんですか」
「ライターをやってる」
と私はこたえた。『ふだん』ということばにつまづきかけた。『ふだん』とはいつのことだろう。
「なに書いてるんですか」
「ヤフーニュースを見てると、記事と記事のあいだに広告がはさまれることがあるでしょう。あれを書いてる」
おきまりの説明だ。そうだ、この説明こそが私の『ふだん』なのだ。
「へー。文才あるひとだ」
「文才はないけど、だましだましやってる感じかな」
こはくのようすをうかがうと、あおむけになっていた。その視線は天井へとむいている。
「だましだましでも、つづけられてるならいいですよ」
とたん、寝がえりをうって、こはくのからだがこちらにむいた。だしぬけに目が合う。私は即座に目をそらした。
沈黙が来た。しばらくしてこはくが口をひらいた。
「メイソウチュウですかー」
『迷走中』かと錯覚した。『瞑想中』のことだと気づいた。
「いや、なにもかんがえてなかった」
とこたえると、わらわれた。
「きのうね」
とこはくがはなしはじめた。「うん」と私はうなずく。
「あたしが好きなアイドルがアイドルやめるって発表したんですよ。それから、なーんか、ずーっとウツみたいな感じなんですよねー」
私にはなしかけていると見えて、これはこはくのうわごとにちがいなかった。
「アイドルやめても会える場所はつくってくれるらしいんですけど、そういうことじゃないんですよね。アイドルだったその人が好きだったから」
「アイドルじゃなくなるのは、そのひとが死んだにひとしい感じかな」
「そうですね。そーかも」
こはくはおおきなあくびをした。それから、
「あたし、アイドルになりたかったんです。だからそのひとはあこがれだったんです。そう、あこがれ。うん。あこがれだなー。死ぬまでアイドルやってくれると思ってた」
「うらぎられた、か」
「うらぎられたなー」
こはくを見ると、こちらを背にしていた。ほのかな照明のあかりのなか、制服すがたでふてくされるこはくは、一箇の少女にほかならなかった。「あー、どうしようかな。これから」
こはくの述懐によりそうことばをさがすうちに、寝息がきこえてきた。
おれもねむってしまおうか。ふとそう思った。妻がとなりにいたころは、その寝息がきこえてきたら、おまえもねむってよいという許しを得た気がして、私もそれにつづくことができた。許しがなくなって、ねむりにつく契機をうしなった。くすりにたよるようになってもうすぐ一年だ。
アラームの音がした。こはくがもぞもぞと起上って、まくらのとなりに置かれたスマートフォンを手にとった。音がとまった。
「はー、かえりますかー」
そう言ってこはくは伸びをした。固定電話の受話器をとり、いまからもどりますと無機質に宣言した。
「タバコ吸っていいスか」
「良いよ」
「ありがとございますぅ」
こはくはバーカウンターの丸椅子に右足だけあぐらをかいた姿勢ですわり、タバコをふかしはじめた。スカートのすきまから白い下着が見えた。
「吸わない人スか」
「やめたよ」
「へー。えらすぎる」
そう言ってこはくは魂がぬけるほどのけむりを吐いた。
部屋を出てエレベーターをまった。「まあ、テキトーに生きてくしかないですよね」
「そうだね」
ドアがひらいた。のりこんで、ドアがしまったとたん、
「ボチボチやって、テキトーにやっていきますかー」
とこはくがさけんだ。私はわらった。
「テキトーにやろう」
とつぶやくと、こはくの手が私の股間にのびた。
「気持よかったですか」
「気持よかったよ」
「それならよかった」
こはくは妖艶な笑みをうかべた。
部屋の鍵をかえして、ホテルを出た。
「右ですか。左ですか」
「右だよ」
「じゃああたし、左なんで」
と言ってこはくはだらりと頭をさげた。「ありがとござましたぁ」
「ああ、ありがとう」
私はそう言ってすぐに右にあるきだした。月あかりのさしこむほそい路地を往き、地下鉄の入口が見えてくるころ、制服のうえからさわったこはくの胸の感触を両の手のひらにおもいだして、たしかに直にすればよかったと、しきりに後悔した。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-05-23 20:30
余韻……って感じですね。雰囲気は好きなんですが、全体的に寂寞とした余韻……って感じで叫びはあまり感じられなかったです。でもこれは静かなる叫びなのかもしれないと思いました。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 12:45
こはくちゃんには救われてほしいです。そして主人公も。
今野和人 投稿者 | 2024-05-24 13:21
「魂がぬけるほどのけむりを吐いた」に疲れが出ていてよかったです。
こはくの叫びの内容は大体ため息交じりでつぶやかれることが多いと思うのですが、叫んだことによって生き様が見えた気がします。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-05-24 20:15
妻と別れた男の悲哀を感じました。主人公もデリヘル嬢も公開していない感じが良かったです。
大猫 投稿者 | 2024-05-25 12:44
うわー、渋いなあ。いいなあ、この文章の感じ、じわじわと醸し出される寂寥感、数十分限りで買ったデリヘル嬢との間に、肉体の快楽以外になんとなく伝わるものがあった感。消えない煩悩に何も変わらない日常。私の好きな「文学」が詰まっていました。
吉田柚葉さんの作品は合評会でいくつか拝読しましたが、これが一番好きかも。
(もちろん個人の感想です)
深山 投稿者 | 2024-05-26 00:20
すごく印象に残るわけではないんですがじんわりといい作品でした。こはくの「しますかー」「ですかー」の言葉遣いとか、バーカウンターの丸椅子であぐらかいちゃう(座りにくいだろうに)ところとか、こういう子いるなあと想像できて良かったです。こはくの体つきとかもっと書かれててほしかった気がしましたが、あえて欲情の描写は抑えているんでしょうか。世界の中心はあまり感じなかったです。読後感がとても良かったです。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-05-26 14:33
叫びとはうらはらに静けさのある小説…心の中で実は叫んでいるのでしょうか。
それはそうと、そういうお店じゃなきゃ刑事民事でとんでもない賠償額になりそうな某タッチ。オプションという名の取引が成立すると1000円とな。ハムカツ定食くらいやがな
河野沢雉 投稿者 | 2024-05-27 06:04
全体の気怠い感じがいいですねえ。
あえてひらがなで書くことばが絶妙にちりばめられてるところ、これがセンスって奴か! と感心しました。
退会したユーザー ゲスト | 2024-05-27 18:26
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Juan.B 編集者 | 2024-05-27 19:45
国語の教科書に載せて全国の青少年少女に読ませて世相について考えるヒントにしてもらいたい。
そんな日もある。
今回波野氏がおらず残念である。いや波野さんが毎回風俗ばかり書くって訳ではないが。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-21 22:56
「だましだましでも、つづけられてるならいいですよ」
なんて妙に達観したことを言われて、ちょっと、なんというか、ちょっと、あ? って思ったんですけども、でも、それでも、なんか、こはくさん、こはくちゃんには災厄を回避してもらいたい。なんでだろう。なんでかそう思う。