ムチ・ムチ・チェリー

春風亭どれみ

小説

4,322文字

そう言えば、子どもの時、印西のアルカサールにあった「チムニー」ってレストラン、いつの間にか無くなっちゃったなあと思ったら、厳密にはあそこはビア・ガーデンで今はチムニーグループの看板テナントとなった「はなの舞」に多くはリニューアルされているんだそうですね。すかいらーくとガストみたいなものですね。飲食業界にはよくある話の。

「風向きが変わるまでという約束ですし……もう私からは、この子たちにしてあげられることなど何もありませんの」

「そうは言っても、メアリー・ジェンキンスさん。あなたがこの家に来てから本当に間もない。まだ娘の中には何の芽も芽生えていない。考え直してはくれませんかね。だいたい風向きというものは、一日のうちに幾度も変わるもので口約束にすらならない。僕は仕事柄、人より約束というものにうるさい人種でして。少し歩いてマリンスタジアムまで行き、そこの風速計を眺めてみたらといいですよ。矢印の指す方に首を傾け続けると、数十分のうちにあなたは首を痛めるに違いない」

 

父親と家庭教師の意見は、千葉方面に向かってそれぞれ延びる京葉線と東西線のようにどこまでも平行線を辿る。いわゆる先生に対して、お金を包む顧客は単なる依頼主でしかなく、師弟関係を結ぶのはたいがいその子どもたちである。この単純で厳然とした事実が古今東西、先生・生徒・保護者の人間関係を悩ませ続け、いくつもの泥沼メロドラマを生んだ。

 

「明るく朗らかで、フェアリーテイルの世界への造詣が深く、我が子の情緒を豊かに育んでくれるような家庭教師を募集しています」

 

情緒の世界を重んじる割に、いささかイキったプレゼン臭のする題の電子メールを雲の上からキャッチした、魔法を使う不思議なナニーのメアリー・ジェンキンスは「時代も変わったものですわ」とボヤきながらも、その手紙の送り主の願いを叶えてあげるべく、ふわりふわりと傘に揺られて千葉の夜空に舞い降りたのが、ことの始まりにして、その顛末だ。

 

メガ地銀の新都心支店に勤める銀行員の倉持氏は、一人娘とともに暮らすシングルファーザーである。四角四面を絵に描いたような顔と性格を持つ彼は、数字に基づく分析力を駆使したドライな融資取引に定評がある反面、ありとあらゆる政治に疎く、とりわけ0と1によらない回答を強いられることが学生時分からずっとずっと苦手であった。そして、その欠点こそが、彼自身がシングルファーザーであるそもそもの最大の原因でもあった。

 

「僕は僕なりにも、自覚はあったんですよ。僕には情緒が足りない、と。ペーパーテストをする分にはむしろその性格は有利に働きました。みんな真逆の力を伸ばそうとしますが、いわゆる現代文の読解問題なんかはその最たるものですからね。個人の歪な形をした情緒は正答を遠ざけるバグになる。けれども、人それぞれが心に浮かべる秋の空には法則がなかった。その鍵は、取っ掛かりになるのは、まさに情緒の歪な部分なのだと悟るまでに、随分と痛い目に遭いました。ですがね、情緒は足りなくとも、僕に愛情自体がないわけではないんです。僕は僕なりに、娘に愛情を注いできましたが……なんでしょう、娘には、僕と同じような辛い目には遭ってほしくはないんです」

「おお、ティッシュで拭えども拭えども、どくどくと涙がちょちょぎれて堪りませんわ。ですが、付きっきりで一日、ヒロミのナニーを務めた結果、彼女には魔法は必要ないと下した私の判断には二言はありません、おっと失礼」

 

メアリーが指をパチンと鳴らして、床一面に散らばったくしゃくしゃのティッシュペーパーを昇天させようとすると、ヒロミちゃんは自発的にそのティッシュを拾い上げ、せっせせっせとゴミ箱の方へと運んでいった。

 

「おー、偉いぞ、ヒロミ。きっとサンタさんも見てくれているはずだよ、うん」

 

倉持氏がぎこちないファンシーを携えながら、ヒロミちゃんの頭をなでると、彼女は大きな額をぶるぶると横に振って、答えた。

 

「ううん、パパ。私は運を集めているの。決してオカルトではなく、リスクヘッジの観点からもこれは合理的なのよ。陰徳あれば陽報あり。ベルグソンから豆腐屋七兵衛まで、過去の統計は嘘をつかないわ」

「ハハっ、そうか。ヒロミは賢いなあ」

 

倉持氏は苦笑いを浮かべると、チラリとメアリーを一瞥した。メアリーはコホンと咳ばらいを一つするだけで、眉一つ動かさず、彼女の隣でかれこれ一時間はヘタクソなコンテンポラリーダンスを踊り続けていた自称メアリーのソウルメイトにして掃除夫のザーボンだけが、

 

「Oh! なんだい、イントクってのは。それって、チョメチョメなことなのかい?」

 

と、言いながら、指でバッテンを作り、ジミ・ヘンドリックスのようなエクスタシー溢れる恍惚の面持ちでダンスのフィニッシュを迎えることにより、彼女の言葉に対して、大きなリアクションを示した。倉持氏は、メアリーの関係者であるがゆえに、彼のことを追い出しこそはしなかったが、なるべくかかわらずにいたいと考えた為か、目線一つ彼にあわせようとはしなかった。

 

「なあなあ旦那、最後に一度だけ、この嬢ちゃんにおいらのアートの世界で遊んでほしいんだ。なかなかそれを許してくれる親御さんがいなくてねえ。おいらのアートこそ、じゃりン子の情緒ってやつを育むにはピカイチだと思っているんだけどねえ」

「そのことに関しては私からもお願いしますわ。何と言いますか、そうした方が言葉で説明するよりも早いと思うのです。少し、お宅の壁が汚れてしまうのですが……」

 

ただでさえ、インチキ臭い上に、意識して一人称に「おいら」を用いるザーボンには、不信感しか抱けなかったが、そのだんまりを決め込もうとした相手の方から、声をかけられてしまってはさすがに鹿の十を決め込むわけにもいかず、倉持氏が首肯しようとすると、それを遮るようにヒロミちゃんがザーボンに囁いた。

 

「平気よ、おじさま。パパは仲間内からは腹を割っては離せないと、あまり信頼されていないけれども、ダイナースからだけは全幅の信頼を勝ち得ているから、お金の心配はあまりしないでいいの」

 

「旦那。この嬢ちゃんはこんなに傑作なジョークだって言えるんだよ。やっぱりメアリーの言う通り、情緒の心配なんてしなくていいさ。ささ、事が決まれば善は急げだ」

「……まあ、そうですね。そういった心配はしないで結構です。メアリーさんを呼んだ時点でそういったお金は教育費のうちと割り切っておりますので。それに、あなたの絵が素晴らしかった場合は、そのまま残せば良い。ただ、娘の言ったセリフはですね、ジョークでなくて、私がパーティーの立ち話で支店長から言われた事実なんですよ。娘はそれを横で聞いていただけなんです」

 

ザーボンは両手にスプレー缶を掴むと、てばしこくミルキーホワイトの壁一面にオルタナなイラストを描き始めた。そうして出来上がったイラストは町野変丸の描くヒロインが蛭子能収の漫画の世界線に迷い込んだかのような珍奇な代物に仕上がっており、おおよそ倉持氏の理解と審美の範疇から外れた麁陋品となった。

 

「嬢ちゃん、この絵の中に入ってみたいと思わないかい」

「尾を引かないスリルを味わえるなら、それは興味深いと思うわ。事実ならば、その非代替性が生むパワーはバンクシーを超えることになると思わない、メアリー?」

「そうね、ヒロミ。楽しんでいってらっしゃい」

 

メアリーがハンカチを振りながら、見送ってから、「そうら、凄いだろう。あれが、鼻から小便を垂れ流す巨大な人面型の飛行船だよ」「凄いわ、素敵。こんなの初めてよ」といったじょいふるなシャウトが飛び交うまでは、もうさほどの時間はかからなかった。

 

「どうです、ヒロミはこんなに我を忘れて楽しんでおりますのよ」

「しかし、飛び交う単語に可愛げがない。今だって、仮想現実から拡張世界へ、NFTメタバース、そのメカニズムに普遍性と量産性はあるのか、価格弾力性は……私はそれを可愛いと思えますが、世間は、関数電卓を嬉々として叩く仕草に愛嬌を覚えないでしょう」

「しかし、世間並みはアカデミックやハックだけでなくファンタジックからもかけ離れているものですよ。大切なのは、ヒロミが発している単語でなく、その声色そのものです。ヒロミは、ある子どもが魔法に、また別の子がかけっこに夢中になっているのと同じように、ファイナンシャルなものに純粋な好奇心を傾けているのです。それはとても歪で、画一的でない、ヒロミそのものの情緒だと思います。お父様に似て、とても感受性が豊かなのですわ」

 

メアリーはニコリと微笑んだ。このままでは、こども一枚¥358,000-の蛭子能収テーマパークの為だけにむざむざ自身の口座から資産を引き落とされなければならないというのに、倉持氏は、自身の感受性というものを褒めそやされることに一番弱かった。

ザーボンと手を繋ぎ、満面の笑みを湛えて、壁から飛び出してきた愛娘を見ると、倉持氏はもう「ハイ、そうですね」と肯定するほか、ままならなかった。

 

「それではこれは、私たちからの少し早いクリスマスイリュージョンということで。……あら、もうこんな時間、行かなくては。ヒロミ、これからもいい子にしているのよ」

「ええ、ありがとうメアリー。新しいビジネスの可能性を夢見させてくれる、とっても素敵な体験だったわ」

「ってことで、旦那。一件落着、万事解決。これでいいのだ、それでもライフ・イズ・ビューティフルってやつみたいだな。それでは Merry XXXmas!!!」

 

最後にザーボンがそう叫ぶと、メアリー・ジェンキンスたちはオリオン座が煌めく幕張の星空に吸い込まれるようにして消えていく。まるで、糸の切れた凧、もしくはレオネス・マーティンの放つホームランボールのように—―。

 

そして、微かにメアリーが歌っているであろう朗らかな歌が聞こえてくる。モスキート音もキャッチする子どもの耳を持っている分、ヒロミちゃんの方がその歌をはっきりと聞き取ることができるようだった。

 

Muchi Muchin-ee

Muchi Muchin-ee

Muchi Muchi cher-ee!

A swapping is as lucky

As lucky can be

 

「パパ、スワップ、スワッピングですって。プレイン・バニラ・スワップのことを指しているのかしら?!」

 

ヒロミちゃんが流星群よりも、瞳にキラキラと星を入れて、倉持氏の袖を引っ張りながら、尋ねる。

 

「次に家庭教師を頼むときは、下ネタは言わないという条件を入れておこう」

 

倉持氏は少なくとも、そう心に決めてから、ヒロミちゃんを抱きかかえ、ベッドに向かっていった。

2021年12月23日公開

© 2021 春風亭どれみ

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"ムチ・ムチ・チェリー"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2021-12-25 22:56

    なにかふんわりした気分になりました。
    凄腕のメアリー・ポピンズ、じゃなくてジェンキンスはやはりいつの時代でも必要とされている気がします。
    たとえどんなフィナンシャルな子供でもその個性を伸ばしてあげることが大切ではないかと考えさせられました。
    勝手な感想で失礼します。

  • 投稿者 | 2021-12-28 10:24

    コメントありがとうございます‼️
    そのような感想を持っていただけるとジェンキンスも雲の上でほくほくでしょうw

    著者
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