前回は、東京の新名所スカイツリー周辺の町のお話をさせていただきました。そこでご紹介させていただいた小塚原処刑場は常磐線・南千住駅の近くにありました。その隣の駅は北千住です。江戸時代はこの一帯を「千住」と呼び、日光や佐倉、水戸に向かうための街道の玄関口となる重要な宿場町でした。寛永2年(1625)に五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の整備によって、日光・奥州両街道の出発点の宿場町に指定されています。
余談ですが、最近読んだ本に高杉晋作の「革命日記」(朝日新書)という本があって、それには彼が22歳の万延元年(1860)8月に北関東から信濃、北陸を経て帰藩する旅日記「試撃行日譜」が載っているのですが、出発時に桂小五郎、久坂玄瑞、楢崎弥八郎らが千住宿まで見送りに来ています。桜田門外ノ変から数ヵ月後、幕末の喧騒が始まったばかりの頃ですから、彼ら志士たちも、まだのんびりとした印象です。ただ、晋作が師と仰ぐ吉田松陰を、井伊直弼の安政の大獄によって殺された恨みが晴れ、小塚原にある松陰の墓参りをしてから出発しています。
今回の舞台は、北千住と荒川を挟んで対岸に位置する小菅(葛飾区)と綾瀬(足立区)という街が舞台です。時代は幕末です。主役は、江戸無血開城直後に、この綾瀬(五兵衛新田)に駐屯した「新撰組」です。京都で新政府軍に敗れ、江戸に逃げ帰ってきてから甲陽鎮撫隊として甲府で敗れた連敗続きの彼らが、何故、この地にやって来たのでしょうか?何故、新政府軍の追手が迫る中で20日もこの地に居座ったのでしょうか? 僕なりに考えてみました。
「武蔵野国安立郡五兵衛新田」
今回のお題は「綾瀬新撰組」です。まずはお話の舞台となる小菅、綾瀬という街についてご紹介しましょう。
綾瀬を舞台とした大きな事件がいくつかありました。一つは「下山事件」です。昭和24年(1949)に国鉄総裁に就任したばかりの下山定則の轢断遺体が常磐線の線路内で発見された現場が綾瀬でした。また昭和63年(1988)には「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の拉致監禁殺害された犯行現場となった家が綾瀬の街にありました。
それらに関しても書いてみたいのですが、我慢して今回は幕末の話です。
綾瀬は利根川に連動する綾瀬川や古隅田川が流れ、いくつもの水害に見舞われました。江戸時代に幕府による治水工事の大プロジェクト「利根川の東遷工事」によって、河川周辺の埋め立てられた土地を有効利用しようとする「新田開発」が行われました。今の荒川放水路は当時古墨田川も利根川に連動しているので、度々、激しい水害に見舞われ、周辺の治水工事および新田開発が進められました。現在の北千住と綾瀬の間には荒川が流れていますが、これも明治になってから人工的に造られたものです。これを「荒川放水路」と言い、すべてが完成したのは昭和5年(1930)です。このため昔は地続きで隣接していた千住と小菅、綾瀬は分断されてしまいました。
江戸時代、今の綾瀬に包含される地域には、五兵衛新田、弥五郎新田、次郎左衛門新田、伊藤谷村と保木間村字二ツ家などのいくつかの村がありました。明治22年(1889)になって、これらが合併され、東京府南足立郡綾瀬村となりました。 今回の舞台は、その中の五兵衛新田と呼ばれた地域です。五兵衛新田は寛永年間(1620年頃)に開拓され、開拓者の内、年長者だった金子五兵衛の名を付けて五兵衛新田としたそうです。
綾瀬に隣接する小菅は、お鷹狩りの時などに出かける将軍の休憩所となっていた広大な小菅御殿と小菅銭と呼ばれる鉄銭を鋳造していた銭座がありました。維新時の昭和2年(1869)に、小菅御殿の場所に県庁が置かれましたが、その後、その跡はレンガ工場を経て小菅監獄と変わり、昭和になって現在の東京拘置所が置かれました。
東京拘置所は巣鴨拘置所(GHQに接収されスガモプリズンと呼ばれた)が母体ですが、昭和46年(1971)年、現在の小菅に移転しました。ちなみに巣鴨拘置所があった場所(豊島区東池袋)は、サンシャイン60およびサンシャインシティになっています。
小菅と綾瀬の間には綾瀬川が流れています。綾瀬川には「伊藤谷橋」と旧水戸街道(都道308号)に架かる「水戸橋」があります。江戸初期に徳川光圀が水戸と江戸を行き来し、時が下って鳥羽伏見の戦いの後、江戸に逃げ帰った徳川慶喜も、朝廷への恭順後に水戸に向かうのですが、彼もまたこの水戸橋を渡りました。
水戸橋に光圀の伝説が残っています。まだ名も無いこの橋に、夜な夜な妖怪が現れ、住民を恐怖させているという噂を耳にした光圀。自ら妖怪を退治したことで、橋を水戸橋と名付けたという話ですが本当でしょうか? 千葉県市川市にある「八幡の藪知らず」という森に肝試しのつもりで入って顔面蒼白で何かに怯えながら出てきたという光圀の伝説もあるので疑わしいですね。
「新撰組、五兵衛新田に現る」
慶応4年(1868)年3月13日(旧暦。14日説もある)、驟雨の中、五兵衛新田の名主、金子左内の屋敷の門前に48人の男たちが現れました。一人は馬上におり、大きな口を面白くなさそうにへの字に結んでいます。小者らしい男が門を叩いて「旗本、大久保大和の一行である。門を開けてもらいたい」と叫びました。
驚いて屋敷から出てきた男が門を開けると、何も言わずに腰に刀を差した男たちが屋敷内にぞろぞろと入ってきました。金子左内の屋敷は周囲に堀をめぐらせ、宅地面積だけで3000坪もあります。慌てふためく家人たちの眼前であっという間に70坪の母屋は人でいっぱいになり、米倉も彼らの手で勝手に開かれて、炊き出しを始めてしまいました。
この二日後には内藤隼人と名乗る男が大勢の男たちを引き連れてやってきます。その後も続々とこの怪しい一行たちは増え続け、100名を超えてしまいました。とうとう金子邸だけでは彼らを収容することができなくなったので、近くの觀音寺にも分宿させることになり、のどかな農村であった五兵衛新田は、毎日が祭りのような喧騒で溢れるようになります。
彼らの正体は、京都で倒幕に走る過激な尊皇の志士たちを畏怖させた新撰組でした。大久保大和と名乗る男は局長の近藤勇、内藤隼人は副長の土方歳三でした。
新撰組は江戸の街から江戸で集めた隊士たちを引き連れて会津に向かう途中でした。
「勝海舟の策にはまる新撰組」
局長の近藤勇や副長の土方歳三は、元々は武蔵多摩(今の調布、府中、日野、八王子など)の農民出身です。五兵衛新田でも親しみをもって住民と接したと思われるのですがどうでしょうか。近藤も土方も俄侍(にわかざむらい)というわけですが、鳥羽伏見の戦い以降、偽の錦旗をふりかざされただけで戦わずに新政府軍に同調していく当時の侍たちに比べれば、京都から勝沼、北関東、会津での戦いを経て五稜郭まで戦い続けた新撰組の方がよほど侍らしいですよね。
鳥羽伏見の戦いで敗れた新撰組は、京都から大阪まで撤退することになりますが、それよりも一足早く総大将であるはずの徳川慶喜は会津藩主松平容保、その実弟で桑名藩主松平定敬を巻き込んで大阪湾から開陽丸に乗って江戸に逃げ帰っていました。近藤率いる新撰組隊士たちも同様に榎本艦隊の船で江戸に帰還することになります。
慶喜は、小栗忠順らの抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張しました。徳川家の家督は田安亀之助(徳川家達)に譲り、勝海舟に事態収拾に当たらせ、結局、天璋院篤姫や和宮たちにも助命嘆願を託し、自分は上野寛永寺に籠って恐怖に震えるばかりという実に情けない将軍でした。勝海舟は徳川家の軍事取り扱いに任命され、慶喜恭順の意向を新政府軍に伝える最高責任者となりました。
海舟は徳川慶喜を恭順に固執させるように誘導し、江戸城の無血開城を目指します。ただし、新政府軍が目の敵にしている会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬(2人は実の兄弟です)、徹底抗戦を主張する幕閣や幕府歩兵隊、フランス軍事顧問によって訓練された幕府伝習隊、渋沢成一郎率いる彰義隊、京都での功績から幕臣となった新撰組などの処理に悩みました。彼らと新政府軍による無益な戦いによって江戸は焦土と化し、その隙をついて海外列強国によって日本は占領されてしまうかもしれないと考えたのですね。
海舟は、まず慶喜をそそのかして容保と定敬兄弟の江戸城登城を禁じ、小栗忠順など過激幕閣の役を解いてしまいます。登城を禁じられた容保は会津に戻り、弟の定敬は桑名藩の飛び地である越後柏崎(現、新潟県柏崎市)に向かいます。ともに新政府軍との徹底抗戦を誓います。役を解かれた小栗忠順も上野国権田村(現、高崎市)に戻ります。
海舟の思い通りに事が進みます。慶喜の恭順姿勢に嫌気がさした幕府伝習隊400名が八王子方向に脱走(後に大鳥圭介軍に合流会津へ向かう)。幕府歩兵隊の一部が脱走して歩兵頭の古屋作左衛門に統率されます(後に栃木県梁田で破れ敗走)。
そんななか、新撰組は幕命によって甲陽鎮撫隊として甲府に向かう命令を受けます。
鳥羽伏見の戦い以降の新撰組は、運に見放されたように負け戦が続きます。甲陽鎮撫隊として甲府を目指した新撰組は、甲州側から進軍する板垣退助率いる新政府軍を迎え撃とうとしました。しかし、故郷の多摩に立ち寄っているうちに新政府軍は一足先に甲府城を占領していました。それを聞いた近藤たちは慌てて甲府を目指しますが、時遅く、勝沼で強力な兵器で攻撃する新政府軍に苦戦を強いられて江戸に逃げ帰るのです。海舟は彼らが負けるのを見越して甲陽鎮撫を任せたのです。全員死んじゃうと思ったのですね。しかし、近藤も土方も生き残ったのです。
「徳川埋蔵金の行方」
新撰組は何故、五兵衛新田にやって来たのでしょうか?山形紘さんがお書きになった「新撰組流山始末」(崙書房)には「金子家の遠縁にあたる千住の高級餅菓子商、小島屋泉谷次郎左衛門が、出入りしていた医学書頭・松本良順に依頼された」という説に最も説得力があると書かれています。松本良順は開明派ですが、京都での池田屋事件後に近藤勇と親しくなり、それをきっかけに新撰組松本良順は懇意の仲となりました。江戸に戻っても良順と新撰組は親しくしていました。沖田総司を看取ったのも彼だと言われています。良順は、五兵衛新田にも来て、世話をしていたようです。
良順は、その後、会津に行き、藩校日新館を病院として傷病者の治療にあたったそうです。
綾瀬新撰組研究会の増田光明さんがお書きになった「新撰組五兵衛新田始末」(崙書房)で、新撰組が五兵衛新田に来た理由を「新撰組は五兵衛新田で火薬生成と銃弾鋳造を行った」と書かれています。
僕は違う理由を考えています。
皆さんは「徳川埋蔵金」をご存じですよね?80年代後半から90年代前半にかけて放送されていたバラエティ番組で取り上げられて、有名になりました。コピーライターを引き入れてプロジェクトチームを結成し、無意味に赤城山を掘って、結局何も見つからなかった…あの徳川埋蔵金のことです。
徳川埋蔵金話の主人公は海舟によって江戸を追われた小栗忠順です。小栗は、幕府の御用金を密かに持ち出して権田村まで運び、赤城山に埋めたという噂話から番組制作に至ったのですね。
新政府軍の期待は、その「徳川御用金」でした。ところが無血開城後に江戸城の金蔵を開けると、御用金がなくなっていました。金の行方を問われた勝海舟あたりが旧幕府関係者たちが密かに持ち出したのだろうなんて適当なことを言ったのでしょう。上野に進駐した新政府軍東山道軍によって捕縛された小栗は、地元の烏川の河原で家臣らとともに斬首されましたが、この理由が「徳川埋蔵金のありかを自白しなかったため」と言われているのです。
僕は、幕府の御用金が密かに持ち出されたとしたら…その下手人は小栗ではないと思っています。幕府の重鎮だった育ちの良い彼には、そんなことができなかったと思うのです。では、誰が御用金を奪ったのでしょう? 育ちが悪くて、御用金を奪うなんて芸当ができるのは…そう、新撰組なんです。僕は御用金を奪ったのは新撰組だと思っているのです。彼らは京都で壬生浪と蔑まれていた農民上がりの自分たちを侍にしてくれた会津藩に恩義を感じていました。そこで幕府御用金を奪って手土産として会津に運んだと思っているのです。
「海舟の鼻をあかせ」
突然、五兵衛新田に現れた新撰組は、江戸城の金蔵から奪ってきた物凄い額の御用金を運んできました。でもこのまま小判のまま運んでは、御用金を狙う新政府軍や同調する藩兵の追尾が厳しくなるかもしれないし、海千山千の輩ばかりの新撰組内部でも御用金争奪のつまらない争いが起こるかもしれません。
そこで、小判を他の形に変えたのではないでしょうか? 前述しましたが、綾瀬の隣の小菅には小菅銭を鋳造していた「銭座」がありました。近藤、土方、いずれの考えなのかは知りませんが、小判を銭座で溶かして他の姿に変えて会津まで運んだのではないか?というのが僕の考えです。ご存じだと思いますが、黒澤明の映画「隠し砦の三悪人」で主人公たちが金を運んだのと同じです。
例えば金を棒状にして炭で黒く汚して俵に詰め、それを綾瀬川か古隅田川を船で、新撰組の次の目的地である流山まで運んだのではないでしょうか? 近藤勇が流山で新政府軍に包囲された時に自ら出頭したのも何だか変なのです。出頭する前に時間稼ぎをしていたようですから、その間に御用金を船で上流か下流に運んだのではないでしょうか?
流山を流れる江戸川は、上流に向かうと利根川に合流します。利根川の上流には小栗忠順が首を斬られた利根川の支流、烏川があります。仮に新撰組ではなく、小栗が御用金を隠し持っていたとしても、斬首前に烏川から利根川下流に運び出し、新撰組に預けるということも可能です。
ちなみに・・・徳川埋蔵金の噂のもう一人である小栗忠順は、自分が捕縛される直前に母親のくに子、身重だった夫人の道子、養女の鉞子 を家臣たちとともに会津に脱出させていました。急峻な山道を越えてようやく会津に到着した彼女たちを会津藩は受け入れて野戦病院に収容しました。婦人の道子はここで女児を出産します。会津落城後にも彼女たちは生き、明治になって小栗家を再興するのです。
もしかすると・・・新撰組と会津藩、松本良順に小栗忠順らは結託して幕府の金蔵から御用金を持ち出して会津に運んだのかもしれません。無血開城と慶喜の救命のためと言いながら、その実は自分たちの保身に固執し、結果的には新政府軍に媚を売った勝海舟の鼻をあかすのも彼らの大きな目的だったのではないでしょうか。勝海舟の鼻を明かす・・・いいですね。小栗忠順や新撰組を主人公に御用金強奪の幕末冒険小説とすれば面白いかもしれません。
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