昼すぎに目ざめて、水をのみ、ちょっと机にむかったが、一文字もすすまず、きのう書いた原稿をなんどか読みかえしているうちに、小説ぜんたいがひどくぶさいくなものに感ぜられ、そのぶさいくからのがれるために、マンションを出た。
そとは、暑かった。
昨夜さんぽに出たときは、すこし肌寒く、だから秋の入口にたったつもりだったが、ひと夜を越えると、見えぬ巨人の巨大な腕でいたずらに夏におしもどされたふぜいで、「人生、そうあまくないぞ」という遠い日の父のことばが、まだぼくを支配しつづけていることに気づく。
電車にのった。奈良駅まで行って、おりた。
ふらちにも、夏が、ぼくを追いかけてきた。
奈良公園をぶらついた。木陰で鹿が二匹よりそってねむっているのをしばらく見ていた。なごやかなここちになりかけると、とたん、書きかけの小説のことが思い出され、ちんぷな書き出しや、じっかんのこもっていないセリフ、なげやりなものがたり展開が、ぼくを折檻した。
うで時計を見ると、まだ十五時だった。夜になればなんとかなる、そんな気がした。夜中に書いて、朝読みかえすと、まるでだめなのはいつものことだが、書きすすめているときの感覚と、しらふになったときの感覚のどちらがじっさいにほんとうなのか、いざしあがってだれかに読ませてみるまで、わからない。夜の感覚がただしいこともあるし、昼の感覚がただしいこともある。だから、とにかく夜をまつのは、そんなにもまちがったことではないのだ。
鬱が、停滞する。
空が、ぬけて青い。
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