武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具
――「外郎売」
1987年 17歳
「ずっと峠越えてきて足が疲れてて。さかさまじゃなければ座れますもんね」
八月の朝三時半、湖面のそれのように漂いはせずとも、同種の、と言える霧と仄青い大気の一部に、光漏るトンネルのオレンジ色が滲んでいた。そこは山間の一車線の県道で、路上にはそのオレンジに背が染む形でタクシーが停車していた。車両が前方を照らす光の中には一塊の影が見える。
そして今、背後のトンネルから、片手をわずかに振り振り、セーラー服を着た人影が現れて、こちらへ近づいてきたのを、タクシーの運転手はバックミラーで見つめていた。いま、俺はどちらに注意を向ければいいのか。目の前の「あれ」か。謎の女子高生か。はたまた両方。が、女子高生らしき人物はなんということなく助手席のドアを開け、照らされる影、「あれ」への即席のガードを作るようにしてから、車内へ頭を滑りこませた。
運転手の中年の男は、心拍数がピークに達したこと、というのにも関わらず、頭を差し入れた制服姿の女の子の、髪から漂う香りを、これがいま流行りの朝シャンというやつかなと、呑気に分析したこと、知らず知らずにアクセルに足を置いていたこと、そしてハンドルを強く握りしめた自分の両手のことを、だが、彼女に至極まともな話し方をされたその瞬間の「ピンボケ」具合の自分の頭のことを、二十九年後の同時刻、習慣となって久しい新聞を取りに行くついでの庭の端での立小便の最中、その頭に咄嗟にその手をやる間もなく卒中でこの世を去るまでおそらく忘れなかっただろう(その手はペニスを握りしめていた。ハンドルよろしく握りしめすぎたくらいだった)。女子高生はこう言ったのだった、
「猟友会、呼んだらどうですか。『あれ』」
タクシー運転手がまず気付かなかったのはそう告げられて、この状況を誰かと共有できたことでほっと安堵したことであり、さらに気付かなかったのは、その安堵から、抱えている問題を恥ずかしげなくそのまま自分の子ほどの歳の娘に伝えたことだった。「鳴らしてもどかねん、『あれ』。人どこ、まったく怖がらねんだな」ぱー。ぱっ。ぱっ。そして、こうも付け加えた。「嬢ちゃん。突っ込んできて車体さ挟まれっどわりさげ、中さ入ったほうがいいよ」山から現れた女子高生を車内へ招じ入れた。「幽霊かと思ったけえ」何故かといえばその頃には彼女の面影にはどこか見覚えがあることに気づいていたからだ。彼女ははなからそうするつもりであったように体を滑り込ませ、先程の台詞を口にしたのだ、「峠越えてきて足が疲れてて……」
(さかさまじゃなければ?)運転手は、改めてこの制服姿の人物を少し(怖い)と思った。彼女は手に尖った何かを持っていた。先ほど歩きながら振り振りしていたのはそれだったのだ。殺傷性は高くは無さそうだったが、目など突かれたらダメージはあるような、枝ではない、何かの串だった。そして前方を見た。俺はとんでもない厄介を二つも抱えている。だが彼女は、「清明くんにはお世話になりまして」と告げた。その瞬間、運転手は、みずからの膝をぽんと打って、「ああ! やっぱり! ウチのの瑠衣子ちゃんだの。見ねうぢ、おっきくなたなんのお!」
瑠衣子と呼ばれた女子高生は満面の笑みで、「ええ、あなたの息子さんの清明くんにはお世話になりました。本当に」と答えた。その含みのある過去形と「本当に」という言葉に清明の父である運転手の裡に恐怖心が浮かんだ。「清明、なにか瑠衣子ちゃんに、やらかしたんけ?」「ええ、まあ」「山から来たなはそれと関係あんなが……?」
瑠衣子は静かに、だが、くっくと、おかしさが込みあげてくるといった調子で言った、
「清明くんとはある場所で一緒でした。昨晩ですね。日付が変わる辺りまで。ついでに言いますと、そのあと、たった今も、彼に会いました。彼は上下さかさまでしたが。ついでに言いますとあなたの息子さんはですね、峠の向こうのある場所に私を置いて車で一人帰っていったんですよ。だから私、峠を越えてここまで歩く羽目になったんです。さらにさらについでに言いますと、彼、帰り道、よっぽど飛ばしていたんでしょうね、トンネルの手前のカーブで黒のラインの白いスポーツカーごと引っ繰り返ってます」
瑠衣子はこうは言わなかった(彼、峠の向こうの空港近くのホテルに私を置いて逃げていきましたよ。部屋にお化けが出たらしく。一人で車で逃げていきました。シャワーを浴びてる私を置いて)とは。代わりに「親子揃って幽霊騒ぎだなんていいですね」と呟いた。清明の父が無線に手を伸ばしたので、それを瑠衣子は押し戻し、「清明くん、いたって健康です。会話もまともにできましたし」瑠衣子のほうは出くわした個人タクシー車両が清明の父のものであると知っていてドアに手を掛けたのだった。瑠衣子の髪は乾いていた。それも当然で、そのモーテルの一室でのんびりと映画を途中まで観ながらブロウしてきたのだ。先に料金を払っていたので瑠衣子は会計をそのまま出てこられた。髪を乾かしながら眺めていた映画はたまたま瑠衣子の弟の銀幕デビューの作品だった。だが、子役の弟はこの頃はまだ無名で冒頭にしか登場しないので、あとは観るのをやめて、一路、峠を越えるべくモーテルを出発したのだった。
瑠衣子は前方を見つめながら清明の父に言った。「『あれ』は私がなんとかします。その代わり話を聞いてくださいね」
どこかへ行く前に、瑠衣子はコンビニに寄る。いつもだ。そして瑠衣子は駐車場の車の助手席に座り、しばらく誰かを待つ。瑠衣子は人を待つのが好きだった。「待ち人」という者が愛おしかった。昨晩も、駐車した車窓からの風景を眺めているのがいい感じに思えた。瑠衣子はこれまでいろいろな場所で待った。でもコンビニで、駐車場で、助手席で、雨の日や、あるいは晴れた夜半に待つのが一番好きだった。雨の日は、大雨であればあるほどいいのだが、窓という窓が、遮断された気がするからいい。待ち人が手庇で走ってくる姿がぼんやりと見えるのもいい。相手が愛おしくなるからだ。晴れた夜が好きなのは、一度は自分も相手と一緒にコンビニに入って、そして自分だけ店から出て車に戻って……、を雨に濡れずにできるからだ。そしてその時に手にしているのはお団子でなければならないのだが、そうして昨晩も快晴で、瑠衣子は車の中でお団子を手にし、口づけていた。
タクシーの中で瑠衣子はこうも告げた、
「お団子は買ってもらってもいいのです。自分で買ってもいいし。つまりお団子ほど、そのどちらでも嬉しいものはないってことです。奢って貰っても安いから相手のことが少し好きになる恩の嬉しさ愛らしさで、心地いいんですね。でもそれが自分で買うと少し贅沢した気持ちになるから不思議。そんなわけでお団子を食べながら待つのは嬉しいんです」
瑠衣子は、コンビニの青白い明りは均一なようで、危ない、と思うことを告げた。自分たちを照らして、良く見せて――。そして、その照明のもとにいたら、自分だってほっとかれずに、すぐに買われるということを、つまり誰か適当な「待ち人」が現れることを、瑠衣子は知っていたということを清明の父に告げた。三か月だけ、アルバイトをしたコンビニがある。柴本や森田、吉木、田岸、木野、峰と言った連中。客にも同僚にもそれらはいた。しかし自分が買われると感じることが少なくとも自分は嫌だった。そのたび圧倒的に解凍された自分を想像した。成長して、私、いま柔らかで温かいんですね? そう見えるんですね? そのたびそう思ったのだ。
置いてけぼりを食らったホテルは空港沿いの一番手前にあったので、歩き始めるとすぐに登り道になった(もちろんホテルが出発地点だとは清明の父には明かさなかった)。帰路、つまり峠へ入った。登り始めた。もちろん、獣道や山道でなく、しっかり舗装された県道である。自分の住む町は峠を越えてすぐの小さな集落だ。腕時計を見ると一時だった。
瑠衣子は暗闇の恐怖に打ち勝つために、歩きながら声に出した、
「圧倒的に解凍されて、幾分かまだ冷ややかでも、仄温かいんですね! でも私にとっては、その自分より、圧倒的に解凍された時間のほうが魅力的なんでした!」
タクシーの中でも口にした、
「そして皮肉なことにその時間が私にあるから、あなたたちも私が魅力的に見えてしまうんでしょう、それで、いざとなって、その時間があなたの指先にふれたら、あなたはそのまだ冷たき体に逃げてしまうんでしょう?」
何の変哲もない女子高生の話だったが、有無を言わさぬ何かがあった。清明の父は黙って聞いていた。
瑠衣子は峠道を歩きながら呼吸する。わずかな明かりの街灯の夜道に吐息が白く靄る。
瑠衣子は手をぶらぶらさせながら峠を登った。峠は暗かった。手を振って歩くには、心細すぎたので、腕の振れ幅はあまり大きくしなかった。その手は団子の串を求めていた。
その脈絡から彼女は思い出した。清明をコンビニで待っているあの時一度、後ろの座席に移動したことを。足元暗く、膝頭も暗く、運転席と助手席のあいだに団子の串を持つ手を差し出すと、全身は暗いままでそれは照らされた。そして助手席のシートの背もたれの脇腹に食べ終えたお団子の串を突き刺した――。
峠は依然登りで、崖がいままでで一番大掛かりにコンクリートで覆ってある。その上には落石の防止ネットが張ってあった。
それらを団子の棒でなぞれたらよかったろうに。お団子は串を持つという感覚がいいのだ。棒を持ってると愉快だ。振れるし、片眼を閉じて、欄干や街灯のポールなどの景色に重ね合わせてみるのもいい。その棒がいま欲しかった。自分にとっての待ち人がなんであるか気づき始めた頃の、瑠衣子のどうしてだか譲れぬものだったのだ。
この道はいつも父が登下校を送迎してくれる道だ。通いなれていても夜では不気味だ。鹿らしき獣の鳴き声がする。車は一台も通らない。車、車、車。いま車が通ったら、見知らぬ誰かに――もしくは顔見知りの誰かに――あのホテルへ連れ戻される予感があった。それでもよかったのだ、待ち人がなんであるか気づき始めていたから。車。車。だが清明のスポーツカーのようなのに興味があるわけではない。父が送迎してくれた軽トラックも好きだったが興味はなかった。でも思うのは、あの軽トラは、二人乗りのを買う時点で、それはもう、二度と母と弟は戻ってこないと言っているようなものではないかということだ。瑠衣子はこの思考を毎度反芻している気がする。車で待つあいだに食べるお団子を選び大福餅を除外する時のように。大福は粉が落ちるから駄目だ。車を汚す。それは等価の記憶と思考だ。山育ちの瑠衣子がいま歩く峠道を海に棲むマッコウクジラの背のようだと、飛距離のある比喩を持ち出そうとするように。大きくヘアピンを描いたカーブへとさしかかった。ガードレールが大きな何かの力で裂けていた。団子がシートのあいだに刺さった見覚えのある白いスポーツカーが崖下へ転落しているかと覗いたが、何もなかった。だが遠く向こうに、眠った街が見えた。自分の町から少し離れた幹線道路だ。紳士服、墓石、電気屋のそれぞれのチェーン店の看板。街灯。バイパス。眠たげなのろのろ車の灯。
(人が生活しているのだ!)瑠衣子は思った。それらが見えた。光っていた。それを無性に誰かに伝えたかった。そしてその見晴らしのいい場所が峠のくだりのスタートだった。
靴擦れがした。まだ柔らかで水分の含んだ落ち葉を何枚か重ねて折って靴とソックスのあいだに挟んだ。無事に帰って脱いだらソックスの白は緑色く染まっていることだろう。
歩いた。まだ暗い。途中、またいつものように外郎売が頭に浮かんだ。これは活舌を良くし表現を豊かにするために、弟がやらされていた、「口上」を使ったトレーニングだ。時折、瑠衣子もそれを暗誦した。特に弟がいなくなってから余計に口にし、そして「耳にした」。母が弟を連れて出てからずっとだった。現れるのは、いるはずのない弟である時もあれば、弟と年の近い名も知らぬ誰かたちだった。あの時の子役事務所で見た誰かたちだと瑠衣子は思った。年恰好の近い彼らを瑠衣子は「若き俳優たちの彼ら」と呼んだ。そしてその彼ら――彼女らの時もあった――は外郎売をよく口にしていた。峠が下りになったその時もまた、その幻覚は、チェーン装着所の隅の光る電話ボックスの中に立ち、外郎売を唱えるのだった。幽霊とは思わなかった。この時はまだ幻覚、幻聴だと分かっていた。
そのうち、陽は登ってきた。だが霧は晴れない。いくつかのカーブを曲がり、薄明かりになってきて、路面にブレーキ痕が現れ、辿った霧の先に点灯するランプが見えた。散らばる細かなガラス片。黒いラインの入った白色のスポーツカーが完全に引っ繰り返った姿で現れた。霧の中、半ば開いたボンネットからは白い煙が上がっていた。白い煙は辺りの霧に無理矢理、自身を押し込み、お互いがたまたま居合わせた旧い知り合いといったよそよそしさの顔で瑠衣子の視界を覆っていた。ガソリンの匂いと、まるで父の胸に顔を押し付け呼吸したような、むせかえる油とゴムの焦げた匂いは、自動車事故という「味」として、混じり合って舌に張り付いた。瑠衣子の心拍数は特別上がらなかった。ただ、車を見つけたのだ。近寄ってみると、窓という窓に手形が沢山ついていた。子供の手だった。
割れた窓の運転席から、上下さかさまにベルトに吊られた清明は顔を充血させながら呑気にイビキをかいていたのが見えた。首が圧し潰されて、頭のてっぺんが天井に着いていた。窓から瑠衣子が手を突っ込んで、シートベルトを外すと清明の体が完璧に落ちた。「てえ」と目を覚ました。二人は二言三言、会話をし、瑠衣子は狙い定めて、助手席の背もたれから生えているお団子の串を抜いた。握りしめて立ち上がると、それを振り振り、歩き出した。
瑠衣子はこの晩と早朝の峠のことを三十二歳になって、思い返す。この夜、瑠衣子は赤ちゃんが欲しかった。この時、一番の「待ち人」とはそういうことだった。「待ち人」は瑠衣子の子だった。そしてこの夜の出来事は彼女の何かを開放した。なぜなら――。
この年の三年前、瑠衣子の母は子役に育て上げた弟を、さらにスターダムを駆け上がらせるために有利な地、都心へと出て行った――。タクシーの車内で瑠衣子はこう告げた、「そしてこの後、まさにこの後です。私は数年間、病院に入れられます。幻覚、幻聴。そして想像妊娠、破水、そして――。ふふ」
清明の父はようやく無線に手を伸ばした。彼女の異変が(初めからそうだったのだ)気になる。瑠衣子は今度はその手を押し戻さなかった。清明の父のタクシーが先ほどから立ち往生していたのには、瑠衣子から話を聞く他に、理由があった。タクシーの進行方向、前方には、巨大な体躯の猪が三頭いたのだ。山からここまで降りてくるようなら、今後、自分の畑、あるいはよその畑が荒らされる。そしていま、瑠衣子の話はとうとう壊れたプロペラ機のようにふらふらと飛んで、未来の予言に不時着して終わった。もっと早く彼女の異変に気付くべきだった。
瑠衣子はというとハンドルに手を伸ばし、ぱー、ぱっ、ぱっ、とクラクションを鳴らし、最後にこう軽やかに叫んだ、「ほんとだ。全然逃げません!」手にしていた串と親指でデッサンの時に鉛筆でするように、猪の頭に照準を合わせた。だんだん瑠衣子の肩が震えていくのは笑いが大きくなってきたからだ。
昨晩、車は向かった。フロントガラスに映る街灯の明かりを後方へなぎ倒しながら。後方へ引っ張られる真円だったはずの光の粒たちは楕円形に伸び、ボンネットや窓やシートの表面を流れたんだった。車は向かった。空港付近のモーテルまで。瑠衣子からみて清明は、青春の不法占拠者だった。彼は大学生だった。もしも瑠衣子がこうした清明の立場だったら、食べ終えたお団子の串を持て余していただろう。いや、持て余すのはそれだけではなかったはずだ。待ち人を待つあいだの、圧倒的に解凍された無限の時間、それをもきっと持て余してしまったことだろう。瑠衣子はこの年、その完璧な時間を持て余すことのない高校二年生だった。おぼろげな幼さの完璧な保持者だった。本当の待ち人というのは、自分に宿らない限り存在しえないのだと薄々気付き始めた頃のことだった。自分の子。母にとっての弟。猟友会が来るのがあと十分早ければ、お団子の串で猪を退治するなんて瑠衣子はしなかっただろう。でも彼女にはそれが可能だったかもしれない、と彼女を羽交い絞めにした清明の父はその力の強さを感じて思った。その後言われるような、「自殺念慮者」とは微塵も思わなかった。いっぽうで瑠衣子の頭の中には外郎売が流れていて、タクシーの両脇の斜面には観客のように若き俳優たちの彼らがいた。
1984年 14歳
その日、瑠衣子と六つ年下の弟、和樹は他の者たちに混じり、まずカメラチェックを受けた。実際に動画に映ってみて、どう見えるかを確認するためと、写真以上に立体的なプロフィールデータとして記録するためにだ。一応、瑠衣子も書類選考を通ったからこうして一緒に都心へ来て子役事務所の門戸を叩いたわけだが、思えば和樹が子役というものをどう考えていたか分からなかった。それはいまだに分からないままだ。
この日、数十名が受けに来ていたが、皆が最後の部屋で待機する選考委員のうち「五人中二人」だけを自ら選び、その前で質疑応答、模擬演技をする必要があった中で――もちろん瑠衣子もそうした。なんとかという連続ドラマの助監督だとか、劇団の演出家だとか――和樹だけが「五人中五人」に回されていった。(「次はこれを読んでみて、これも言ってみて、君だったらその時どういうふうにするかな?」)。そして選考委員たちは、保護者である母をその場に呼んだ。彼らはそしてすでに活躍していた有名な元子役の名を口の端に載せつつ、それと比較するように、和樹の素晴らしさを熱弁した。自分が受けるわけでもないのに余所着を徹底して着込んでいた母の姿が、瑠衣子には無様に思えた。主役は弟なのだ。そう思うと、自分もなんなんだろうと思ったが、悔しさみたいなものは瑠衣子にはなかったし、孤立感も覚えなかった。そのあとでじきに和樹はレッスンの日取りが決まり、その子役事務所の主催する舞台の主役を演じ――弟はやはり私たちの主役だった、失ってから瑠衣子はさらにその思いを深めた――そして世に待つ作品のオーディションへ連れ回されるようになった。母はそれですっかりおかしくなってしまった。
1990年 20歳
〈間違えて送ってくるほうがかっこいいんじゃないかな? 名前の一字ほど。失礼にあたらない程度に、もっと気を大きくドンとかまえてさ。僕みたいに気を使って、君みたいな難しい名前のすべての漢字を一致させずとも。――すべてを一致させてあくせくすること、それはダサい。気の使いすぎ。重い。でも「瑠衣子」っていう名前、僕は自分で書いた字、何十回も確認しちゃうんだ〉
四十代の男性からの手紙がある時そんな内容だったので、寝転んで読んでいた瑠衣子はその文面通りに「むはー、それが重いんだよなあー」と笑って呟くと、紙をくしゃくしゃにして枕元に放った。三つ目の現在の病院はいままでとは違い個室だった。病棟はいままでの三つの病院と一緒で男女わけられていたが、作業療法などは合同だった。だから手紙のやりとりがそういう時、公然と行われた。仲良くはやっていたが、瑠衣子はしかしどの男性患者ともそこまで親しくならなかった。
瑠衣子の個室で気に入りの部分は、建付けの緩い戸だった。閉める時の、かちゃん、とん、の「とん」が好きだった。朝で誰もが寝静まっている時ならば余計に。まるで「偉いね。よくぞ私を『とん』までしたね」って、言われてるみたいだ。そう思っていた。
ほとんど誰とも親しくならなかったが、この病棟には阿古という十五歳の女の子がいて、患者の中で最も若く、トルエン中毒で入院しているとの噂だった。もっともその情報は、患者同士のあいだで囁かれてるものではなく、看護師の一人が半ば冗談のように検温の時言ったもので、瑠衣子も本気で信じているわけではなかった。雨上がりの柵格子付きベランダで、いの一番に阿古がしたのは、瑠衣子を「ルーコさん」と呼んでいいか訊く前に、じっとしばらく真ん丸な目で瑠衣子を見つめたことだった。そのあとでしたのは、エアコンの室外機に座っていた瑠衣子の脇に同じポーズで座ったことだった。
そして告げたのは、自分は本当は男なのだということだった。阿古が最初に明かした秘密だった。二人の出会いは歪だった。瑠衣子がこの病院に転院して来た時、阿古は既にいたはずだった。だが瑠衣子の最初の二週間、二人は顔を合せなかった。阿古には――口の軽い看護師の言い方では――寝たきりの患者に執拗に「水を飲ませる」癖があるとのことだった。そのために瑠衣子が来た時、阿古は隔離室に入れられていたのだった。ただ、トルエンの噂とは違い、阿古本人の口から瑠衣子は何故水を飲ませるのかを聞いた。「だって、『喉が渇いたよう』って涙も出ないんだよ? 看護師さんは一日に必要な水分量なんか無視して、おむつ交換が面倒で尿の量を管理してるんだよ? ベッドに縛られてるカラカラな可哀そうなお婆さんたちなんだよ?」心臓病や誤嚥性肺炎云々やなんかのことを言わなかったことで阿古は嬉々として「縛られてる人たちの集められた部屋は田中さんか五十嵐さんの夜勤の晩は鍵がかかってないから今度俺と一緒にベルトを外しに行ってあげよう?」と瑠衣子に秘密と犯罪計画を共有することを持ちかけた。瑠衣子はその時、自分の口元がほころんでいるのに気が付かなかった。何故だかわくわくした。阿古だけは目ざとく口のそれを見て、「今度、消灯後にルーコさんの部屋に遊びに行っていい?」と言った。
しかし阿古はそれからも何度かその病室の寝たきりの患者たちに衝動的に――田中か五十嵐の夜勤だと知ると、いてもたってもいられなくなるのだ――「一人」で水を飲ませに行ったので、自分がおむつをされて四六時中「一人」の部屋へ隔離された。それで、阿古の深夜の訪問の願いは未だ叶えられていなかった。瑠衣子は考えたものだった。内面が男性でも、このような場所ではやはり、区分けは保有する肉体で判断するのだ、と。
〈そういう人はもしかしたらこちらにもいるのかもね。僕? 僕は違うよ~。多分ね。つまりその子とは逆、内面が女性で体が男性という意味だけど。襲われないようにね~〉
相変わらず重いし、真剣みに欠けていたし、瑠衣子もその忠告をすぐに忘れた。
三つの病院を経て、一人ずつ、二人ずつ、若き俳優たちの彼らは減っていった。彼らは主に影として現れた。部屋の壁、カーテンのひだの上。いまの病院に移ってからはドア板にだけは影は現れなかった。あの、かちゃん、とん、のドアだった。彼らは瑠衣子と同じように歳を取った。こう推測してよければ和樹と同じように歳を取った。何故推測なのかといえば、瑠衣子は和樹のいまの姿を知らなかったからだ。若き俳優たちの彼らの一人に、瑠衣子の弟のいまの姿があるのかもしれなかった。病院にはテレビがなかった。ビデオの映画上映はあったが、それに弟の姿はないようだった。いま、彼はもはや俳優なのかどうかも知れなかった。あるいは生死も知れなかった。
ある入浴の時間、瑠衣子の班と阿古の班が前後重なった。脱衣所で、阿古の下腹に、蛇のような痣があるのを見た。そしてそれからしばらくした夕食時、食器と共に手紙がトレーに載せられてきて、それはやっぱり阿古からだった。〈今晩お邪魔します〉と蛇のようなマークと共に書かれていた。
阿古は消灯時間後、個室へやってきて言った、「お婆さんを縛ってたベルト、持ってきちゃった」瑠衣子はこの時、まだ自分が何をされるか予測していなかった。二人は話をした。何の話だったのか、のちに瑠衣子はまったく思い出せなくなった。いつからか分からないが、何も話さなかったのではないかと思えたほどだった。「ねえ、ルーコさん、ベッドに横になって、ばんざーいってしてみて」その言葉だけははっきりと覚えている。その言葉通りにした途端、阿古は瑠衣子の両手を『お婆さんを縛っていた』というベルトで固縛した。「ルーコさん、好きだよ俺……」パジャマ替わりの病衣の腰紐をほどかれて、瑠衣子は上半身をまさぐられた。「俺さ、俺さ」阿古が乗ってくる。阿古が一糸まとわぬ姿となる。蛇の痣が硬く、突っ張っていた。瑠衣子の下半身にそれが当たっていた。熱かった。
喘ぐ阿古が言った、「あと一分我慢して、ルーコさん、俺の細胞がルーコさんにいくから」瑠衣子は息が荒くなっていた。一分なんてもたない。死んでしまう。長い一分。もう無理だ。その瞬間、阿古が囁いた、
「姉さん、……好きだよ」
瑠衣子は意識を失った。
◇
「どう」目が覚めてから阿古は言った。服を着ていた。瑠衣子も服を着せられていた。まだ暗かった。私に、とん、聞かせて? 瑠衣子は出ていく背中に向かって寝ぼけ気味に告げた。とん、なんて自分以外は知り得ないことなのに。だが阿古のその背中は「言われなくってもそうするよ、ルーコさん」と笑った。
その日、阿古は寝たきりの老人患者のベルトで首をつって自殺した。遺書などはなかった。その日が阿古の退院の日だと知ったのはあとでだった。
そしてあの日の瑠衣子の予言は再び当たった。
2002年 32歳
幼い頃に感じていた、決して閉じてはいなかったはずの扉が閉じられていて壁になり、境目からは光が漏れるが、そこの前を何もないと思い素通りしてしまうような、記憶の辿り着けない場所。そんな私のかすかで確実な遺伝子、ある時すべての扉が閉まってしまっていて、そのまんまどこへも出られなくなる阿古の遺伝子を受け継いだ私の堕胎をした子。
瑠衣子は気付くとふとそのことを考えていることがある。
精神病院にはオペ室など、ましてや分娩台などなかった。
あの夜のことを知るのは自分だけだ。本当のことだったのか、誰にも言ってはいないので、分からない。阿古は行ってしまったのだし。瑠衣子はあの晩から下腹が丸く膨れていった。そして紛うことなき妊婦となった。そして医学的にもあれは破水だったとあとから精神科医は言った。……
瑠衣子はその後退院して、市営住宅に住んだ。……
十月(とつき)経ったある時破水して、瑠衣子の産道を通って来たのは、ころんとしたラグビーボールを一回り小さくした茶褐色の卵だったのだ。
◇
明け方、コーヒーメーカーを操作すると、中に水が残っていて、それが内部の熱くなったところに触れ、その音が台所一杯に聞こえるくらいの大きさだったので、まるで自分の後ろに誰かが立っていて、聞き耳を立てるために息を潜めているような存在を、瑠衣子はよく錯覚していた。起き抜けで髪をとかしていないので、寝癖のホワホワした部分に空気が当たると、それが後ろに立つ存在のあの「武具、馬具、武具馬具」の声のように感じ、駄目だった。昔、お団子を選んで大福を除外したように、毅然とした意図をもって、こんなことが起こらないように予防策を張っておきたかったがいつも何故だかできなかった。だが一番怖かったのは、顔の前の窓硝子に目をやることだった。カーテンで覆われてなく、すり硝子だったが、朝の暗い時、それは自分のいる明るい部屋の様子を映し出していた。後ろに誰が立つか、それでいつも分かってしまうのだった。阿古ではなく、父でなく、清明でなく、それは紛れもなく、成長した弟だった。彼は女優と結婚して、離婚して、親権を奪われて、女優と結婚して、離婚していた。そして、今は癌の闘病中で事実上の引退という話だった。
2020年 50歳
今まで生きてきたという実感が、これから生きていくうえで負担にならなければいいね。瑠衣子は今も、あの卵を抱いて眠っている。弟よ、卵は孵らない。
了
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