女の髪は濡れている。さきほどシャワーを浴びたからだ。まだ窓の外は暗かった。デスクに並べられた縦三面のモニターの光がその顔に漲る気迫を映し出す。モニターには異常な数のクロームのタブが開かれている。そこには数字がびっしりと並び、グラフが表示されている。女は会社の売り上げを管理する立場にある。女は部下が入力したエクセルを舐めるように見て、それからチャットワークを開いた。直属の部下がミスをしていた。指摘しなくてはならない。
[To:1845146] 岡田 健斗さん おはようございます。まだ出社前なのにチャット失礼します。68314 スルッとまるっとドッサリ酵素_Gunosy_全OS →こちらですがおそらく他社にCPM負けていてApp内のボリューム一切出ていませんので出社後すぐにCPC調整、ガンガン踏んでください。そして調整後この調子だとおそらく日予算上限当たるので50万→200万に変更お願いします。[返信aid=1835115 to=165749156-1229629453022306304] 栗原 希子さん すみません寝てました!! 今すぐ調整いたします申し訳ございません、8時-10時のゴールデンタイムに向けて今調整します。[toall]スルッとまるっとドッサリ酵素_Gunosy_全OS 日予算50万→200万に変更いたしました。
女はすぐに投稿された、6つも年上の後輩のそのチャットを見てようやく安堵した。そして大きく伸びをし、デスク横に積み上がったセッタを一本取り出してくわえ、煙を吐き出した。
男が帰ってきた。女は視線をびたと玄関にやった。飲み屋で拾ってきた14も年の離れた男はいつものように目の玉をとろんとさせ泥酔しきっている。男は「何、えぇ!? 希子仕事してんの? まだ5時なのに?」と深い彫りをにへらと崩して言った。そして男は褐色の手のひらで女の肩を揉みながら、笑った。「なんじゃこりゃ。暗号?」
「管理画面見てるだけ」女は男の硬い手に自分の手を合わせた、「今日は現場、どうだった?」
「別に。いつもと一緒のメンツで建物壊すだけ。そんでチェーンで飲む」
「ああそう」
二人は恋人でも夫婦でもない。セックスもない。40の男の性欲は酒によって破壊されていた。男は服を脱ぎトランクス一枚になって、床に敷かれた、何年も洗われていない布団に寝そべりながら缶ビールを開けた。
「そうだ希子おれ今日から時間変わるんだ。新しい工事現場になるから」
女は表情を変えず鼻から煙を吐き出したまましばらく静止した。
「……え何時からになるの?」
「今度は夕方から夜中じゃなくて、夜中の2時から8時になる。ここにくるのは9時過ぎとかかな?」
女は軽く取り乱した。
「夜中は私寝てるし、9時はもう出勤してるし、じゃあ……土日しか、会えないね」
「そうなるな。その年でお偉いさんになったおめえを起こさないように静かに風呂入って、行くよ」
「もうひと眠りしようかな、……」
女の声はか細かった。それはもう、とても。まだ開けられていない、ブランドのロゴが入った箱を蹴り飛ばし女は男の横に寝そべった。そして蜂の巣になったガラスの灰皿に煙草を押しつけた。少しずつ朝日が昇ってきて女の横顔を照らした。
「寝な寝な、おれが起こしてやるよ。起きんの8時とかでしょ?」
「いや、いい。目覚ましかける。信頼できないもん」女が八重歯を剥いて笑った。女はまだ若かった。
「もう四年も風呂借りにきてんのに信頼できないってか」
「そんなやつだからこそ一番信用できない」
男は女の頬を優しく叩きながら、「おめえの衝動買いしたブランド品全部メルカリで売りさばいてやろうか」女は爆笑した。「そんで風呂つきの家に引っ越す」「やめてよ、」と女はやや強く言ってから眠りについた。
けたたましく目覚ましの音が鳴っても死体のようになって眠る男を残して女は家を出た。すると一階のポストに何かが差し込まれていた。荷物の不在票だった。
平日の夜荷物を受け取るのは物理的に無理だった。女が仕事から帰宅するのは22時過ぎだ。苛々した。女はオフィスに着いても苛々していた。もし土曜に受け取って、男を起こしてしまったら? 男はわけもなく私の部屋にいる意味がないからあの部屋から徒歩4分の自分の家にそそくさと帰ってしまうだろう。それはどうしても避けたかった。女には友人も、誰もいなかった。もし仮に自分が他人だったとして、私と何か複雑な関係を持ちたくはないと女自身が思っていた。こんな無味乾燥な女とわざわざ関係を持ってどうする? 女の世界にはただ風呂を貸しているあの男がいるだけだった。だが風呂を貸し続けたこの四年で自然と男を愛するようになってしまった。でも言ったら『これ』は終わってしまいそうで、言えなかった。だから男とこの家で眠ったり話したりする時間を切り裂かれるぐらいなら、仕事のストレス発散のために、金を使いたいがために買ったそのブランド品を返品したってよかった。これまで店舗で買ってたけど面倒くさくてネットで買ったのが女の足を掬った。部下たちが入力したエクセルの売り上げ表を確認し終え、返品問い合わせをしようと通販サイトを開いたが返品不可だった。女は舌打ちをし男が起きないことを切実に願いながら、仕方なく土曜日に再配達を設定した。そして普段は自分でやるのに、女と年の変わらない派遣社員にコーヒーを持ってくるよう言った。
土曜の9時すぎ男が缶ビール片手に帰ってきた。女は飛び起きた。女は嬉しかった。たった三日会ってないだけなのに。よォ久しぶり。三日会ってないだけじゃん。なんだおめえ寂しいこというなよ。今日は疲れたな。新宿から歩いてきたんだ。えっ新宿から下北沢まで歩いてきたの? まあ一時間ぐらいだけどな。缶ビール飲みながらだらだら歩くのが好きなんだ。で、今度の新しい現場がすごいきれいでな。建物の前にでっかいライトがあるんだ。それがなんか外国の教会みたいに、夜中じゅうきらきら光るんだよ。女はそれを想像した。男がきれいだというんだからそれはさぞきれいだろうと思った。
そして男がコンビニで買ってきた弁当を食べ、『アタック25』を観てから二人で昼寝していたらピンポーンと音が鳴った。男はえぇ? 誰か来た? と寝ぼけながら言った。いや、違う。寝てて。ただの荷物。大丈夫だから。本当に。でも——男はしばらく惚けた顔をしてからよいしょと言って立ち上がった。そしてのろのろと服を着始めた。女はそれを詰まるような目で見た。なんか起きたちゃったし、洗濯しなきゃいけないから家帰るよ。今日は家で寝て、おめえも疲れてるだろうし銭湯行くわ。また明日の夜風呂借りて、行くよ。というか……これから夜中寝てるお前を起こしたくないし、銭湯行くようにするかな。
男は女が荷物を受け取ったタイミングで出て行った。女はそのまま箱を抱えて玄関にじっと座っていた。張り裂けて、動くことができなかった。
退会したユーザー ゲスト | 2019-09-28 20:52
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牧野楠葉 投稿者 | 2019-09-28 22:02
ありがとうございます!!