私は質問を変える事にした。尊文が小説本の類を読むようになったのは何時頃かを問うた。果たして、カヨさんの答えは明白であった。「其れも同じ年ですよ、夏休みの宿題で書いた読書感想文を学校の先生に褒められましてですね、それであの子、一寸舞い上がっちゃったのです。」
そう言ってカヨさんは、その時に尊文が書いた読書感想文を見せてくださった。課題図書は大岡昇平の『野火』である。以下に全文を引く。
『野火』がぼくにとって好ましかったのは、軍隊の小説なのにリンチやいじめの類が出てこなかったところです。たぶんこれは、大岡さんの実体験を書いたものだと思うのですが、実際にリンチやいじめがなかったのか、それともあえて書かなかったのかは分かりません。しかし、もしもあえて書かなかったのであれば、それは正解だったと思います。どうしてかと言うと、この小説の大事なところは、そういう細かいところにはないからです。大岡さんがこだわったのは、そういう細かいところではなくて、極限状態における人間の心理の細かいところなのです。とは言え、ちょっと戦争の具体的な描写が物足りない気はします。ぼくが戦争を経験していないからかもしれませんが、兵士たちがどんな見た目で、どのくらい怪我をしていて、どのくらい痩せていたかなんていうのが、今ひとつ想像しにくかったのです。そうした意味で少し肩透かしだったことは否めません。作中で二度出てくる「野火」は、それが何を意味しているのか、実際に起こったことであれば、意味などないのかもしれませんが、作者が何か意図してのことだとしたら、よく考えて見る必要があると思いました。ぼくは「祈り」なのではないかと思いました。それにしても主人公の「私」は、よく戦場でクリスチャンでいれたものです。おそらく、「天皇陛下万歳」が絶対だと思うのですが、どうにか隠していたのでしょうか。だとしても、何か食事をする際、例えばこっそり十字でも切ろうものなら、仲間たちから何をされるか分かったものではないと思うのですが。よく分からないところが多いです。
一読して判るのは、ここには批評の精神が在ると云う事である。「リンチやいじめの類」を描写しなかったのを「好ましい」と書きつつ、一方で大岡の描写不足を指摘する。これを批評と言わずして何と言うか。即ちここには、本来読書感想文に求められている教訓めいた自己反省の類が無い。加えて、文章の水増しのための「繰り返し」も見られない。あまつさえ「あらすじ」すらここには書かれていない。こうしたものを素直に認めた教師も偉いと言えるが……、しかし昨日や今日、本を読み始めた中学生が突然にこのような文章を書けるものであろうか。
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