「ルキアノス先生!」
ドアを叩く音と、わたしを呼ぶ声が聞こえる。
「ルーキーアーノースせんせええ!」
ああ、わかっている。わかっているとも。今がもう朝で、締切は昨日で、わたしが彼に連絡しなかったことはわかっている。ドアを叩く音は一向にやまない。奴隷のスレッカスが応対しているのが聞こえる。
「こりゃどうもシンタクティスさま。今朝はどのような用向きで?」
「ルキアノス先生は?」
「ええ、まだお休みのご様子で」
「起こせ」
「え、いえ、そんなことをしたらオラが叱られますだ」
「いいから」
「ご勘弁くだされ。折檻されてしまいます」
もちろんわたしは奴隷にそんなことしないが、シンタクティスが来たらそのように言えと言ってある。言わなかったら折檻する可能性はある。
「ええ、どけ! おれが起こす!」
「あ、ちょっと! 困ります!」
ああ、やれやれ。突破されてしまったか。次にまとまった金が入ったらスパルタ人の奴隷でも買うことにしよう。
「ルキアノス先生!」
「ああ、大声を出さないでクレタまえ」
「なんだ起きていたのですか。早く出てきてくださいよ」
「君の声で起こされたのだよ。なんだねこんな朝っぱらから」
シンタクティスは、一瞬言葉を失ったようだが、もちろんわたしは彼の用向きもここへきた目的も、そしてその目的が果たされないこともすべて理解していた。理解しているが、理解しているように振る舞えないこともある。今の私がそうだ。
「なんだねじゃないですよ! 昨夜ずっとお待ちしていたのに、使いもよこさないし、原稿も届かないし、どうすればいいのですか。書写の者が大勢お待ちしておったのですよ」
「ああ、その件か」
申し訳ないと思っているが、謝罪してはいけない。謝罪だけはしてはいけないのだ。謝罪は新たな罪だ。罪に罪を重ねてはならない。ゼウスのナニかけてもだ。
「その件です。今いただけますか?」
「今か」
「今ですねえ」
「何を渡すのだったか」
もちろん、何を渡すのかをわたしは知っているし、理解しているし、それができないことも熟知している。しかし、それをこのタイミングで認めるわけにはいかないのだ。
「原稿です。『無學な書籍蒐集者に與ふ』をいただけるお約束だったと思いますが」
「ああ、無学の、書籍の蒐集者になんだっけ」
「与うです。あたう。あ・た・う」
「ああ、そうそうそれそれ」
もちろん覚えている。そしてそれが一行も書けていないこともわたしは知っている。これはわたし以外にもスレッカスも知っている。しかしこのシンタクティス氏は存じていない。存じないようにわたしがしているからだ。
「君はオリンピックに興味はあるかね?」
「なんですか急に。そりゃまあ好きですし、観戦も行きますよ。最近は裏レスリングってのが港町の方でありましてね。もちろん本戦のオリンピックではないのですが、なんと女のレスリングってのがあるんです。その中でもアマゾネス出身のヨシディアというのがめっぽう強くて。東方の血と混血だとかよくわからないですが、とにかく強い。これはもうオリンピックも女部門をやっていいんじゃないかと思ってしまうほどです。ただまあ、そのアマゾネス集団の指導を行っている者がちょっと派閥問題とかいろいろあっていろいろもめたり、練習場の哲学院の院長がなんかおかしな言動を披露したりといろいろ不穏だそうで」
「相当好きなようだな。その君の好きなオリンピック選手も、スポーツばかりに興じているわけではないし、トレーニングばかりをしてるわけではないのはご存知かね?」
「えーまあそれはなんとなく」
「ときには身体を休め、普段やっていないことをやってみたり、まったく知らないことに挑戦してみたりすることで、心身ともにリフレッシュし、次のステップに上ることができるわけなのだよ」
「はあ、なるほど」
よし。目的を忘れつつあるようだな。いい感触だ。このまま押し切ろう。
「我々のような作家も、堅苦しい哲学書や叙事詩ばかり書いていては、脳や身体が硬直してよい結果が得られないことがあるのだよ」
「先生の書くものはそんなに堅苦しくもないのでは」
まあ、風刺ものばかりだから。いや、ここで折れるわけにはいかない。
「君ぃ。わたしは学者だけではなく、広く市民に読めるものを提供しようと、いろいろ工夫をしているのであって、それはそれなりに簡単なことではないのだよ。上っ面のレトリックをこねくりまわすだけのほうがよほど簡単なのだ。文体は読みやすく、中身は深く。それこそがこれからのギリシャ文学の真髄になるのだよ」
「これは失礼いたしました」
「わかればよろしい」
「ですが、先生は一昨日も宴会で、その前も宴会でしたよね。もう十分リフレッシュは達成されておるのではないかと小生は思うのでありますが」
なんで知っているのだ。さてはプロドスイアの奴か。おのれわたしを売ったのか。許さんぞ。
「酒を飲めばリフレッシュになると? 本気で言っているのかね?」
「え?」
一般には酒はリフレッシュになる。わたしも肉体は一般である。そして、宴会でリフレッシュ済みでもある。しかし、そのことを認めるわけにはいかないのだ。
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