(第10話)
伸びをした拍子に、店をぐるりと見回す。拘らないようにしているのだが、つい、あの女がいないかと探ってしまう。
女はいない。依本は落胆する。一目見れば、明日からまた順調に書いていけるような気になっていたからだ。
『大葉』には壁にテレビが掛けてある。依本は本を読む気が起きず、ぼんやりとテレビに視線を送っていた。
思わず苦笑が漏れた。バラエティ番組に映し出されている中堅女優の肩書が「作家」になっていたからだ。
芸能人が本を一冊出し、または雑誌に連載を持ち、肩書きが「タレント」から「作家」や「エッセイスト」になる。依本はそんなものを目にすると、フーンと一人鼻白む。知的に見せようという虚栄心を呆れているわけではない。そうではなく、作家ってそんなにいいもんかねぇと思ってしまうのだ。日本人だからあえてしないが、両の手のひらを上に向けて首をすくめるポーズを取りたい気分になってしまう。
しかし実際のところは多くの芸能人がそうしている。皆がする以上、一般的には文筆業が憧れの職業ということなのだろう。
依本が作家を憧れの職業に思えないのは、これが本職だからだ。肩書きだけでは済まなくて、売れるものを途切れることなく書いていかなくてはいけない立場だからだ。
依本だって専業作家となる前、一介の工場作業員だったときは憧れの職業だった。だから作家と肩書きをつけるタレントの気持ちは、正直なところ分からないではない。アメリカ人の男が「強い」と思われたいように、日本人なら誰だって知的に見られたいという共通の意識がある。しかしヒット作を出し続けなくてはいけない立場になってしまったら、憧れの職業などと暢気に言っていられなくなった。なにしろ毎日がテスト前日のようなものなのだ。
依本は学生の頃から大のサッカー好きなので、作家になって時間が取れるようになるとテレビでサッカーを観続けた。Jリーグも代表戦も、海外のも。しかしそこまでサッカー好きでも、選手になりたいと思ったことなど一度もなかった。もちろん選手に付いて回る、人々からの憧れの視線や収入などは単純にうらやましいと思った。しかし実力のない者が選手になった悲惨は容易に想像できてしまう。プロの基準に満たないプレーをたった半年や一年続けただけで、ピッチから追い出されてしまうのだ。しかも一旦プロの座から降りれば、スポーツ選手の場合、返り咲きはほとんどない。だから選手になりたいなど考えたこともなかった。選手にとっては一試合一試合が、それこそ採用試験のようなものだろう。
今回舞い込んだゴーストライターの依頼はまさしく最終テストだと、依本は思っていた。いや、一回仕事がなくなっただけに、スポーツで言うところのトライアウトだろう。この依頼を出版社の期待どおりこなしてさえ、チャンスが訪れるか分からない。まずはこれをやり遂げ、そこから活動の場を広げていくしかないのだと、あらためて肝に銘じた。
また明日から全速力で書いていかねば、ということで、依本はグラスに残っている『ソト』をドボドボ入れ、アルコールを薄めた。そしてこの一杯で帰ろうと誓った。
帰り途のコンビニのアルバイト募集がなくなっていた。早々に決まったのだろう。まかり間違ったらそれは自分だったかもしれないと思うと、なんだか複雑な思いだった。
行き詰った生活を打破するために、動くべきかじっと動かないべきか。そして依本は動かない方を選択し続けた。いや、実際には選択したのではなく、迷ってオロオロしていただけだ。動くことにより一条の光が見えるならまだしも、動けば、単に、食えないという基本的な悩みが解決されるだけなのだ。だから踏み出せないのも、ある意味当然というものだった。ともかく依本は動かずに、日々じりじりと減る生活費に恐々としていた。
こういったジリ貧状態のときはさらに悪い方悪い方へと事態が進み、苦しい状況がより深まっていくものだ。それが意外なことに、今回、いい方に進んでいくことになった。働きださなかったおかげで、飛び込んできた依頼にたっぷりと時間と精力を注ぎ込むことができたからだ。
アルバイトなどやってしまったら時間のやりくりに苦労し、これほど順調に書き進められなかったことだろう。まず資料の本からして読めなかっただろうし、そうなれば依頼の性質もうまく把握できず、物語の組み立てができなかったはずだ。人に長文の書き方はいろいろあるだろうが、ある程度ラストまで構成を組み立ててからでないと書き進められないのが、依本の特徴だった。
たかだかアルバイトなのだから、本職の書き物に邪魔になった時点で辞めちゃえば問題ないはずだ。しかしアルバイトとて仕事であることには変わりがなく、周囲の迷惑や混乱も頭の中を掠めるだろう。無収入に後戻りする怖さも内包しているところにもってきて、後は知ったことかとスッパリ切り捨てることが、果たしてできただろうか。想像するに、せっかく依頼が舞い込んで来たのだから是が非でも仕上げなくちゃと焦りながら、アルバイトもなかなか辞められず、両方に引きずられて窮地に陥っていたのではないか。
しかしながら、幸運にも依頼を受けたときには無職だった。これは悩む必要がないというものだ。働いていないのだから、そもそも辞める必要がない。かえすがえすも、内田からの連絡は本当にいいタイミングだったと依本は胸をなでおろした。これが数ヶ月遅れていたら日干しになっていたか、アルバイトを始めていたはずだ。コンビニの前に立ちながら、依本はタイミングの妙に安堵のため息をついた。
しかし正直なところ詠野作品の依頼を受けた直後は、これで生活が好転していくなどとは思えなかった。収入に繋がり、それはもちろんおおいに助かった。しかし単なるゴーストとしての依頼で、しかも一冊買い切りの契約。印税ではない、一冊買い切りのカタチなのだ。部数が伸びたとしても、金が入るわけでも知名度が上がるわけでもない。つまりは先の展開が開けない仕事なのだ。それでいて自身の作風と違うもので、産みの苦しみはおそらく自作を書いていた頃以上のものと想像した。だから、依頼を受けたいっときこそ喜び、その興奮が残る間は順調に筆も進むだろうが、冷めてくれば、作家になってからずっと悩まされた「頭の便秘」状態に再び苦しめられることになるだろうと予想したのだ。
それが意外なことに、止まることなく順調にページが進んでいっている。もちろんミステリーの核となるトリックの部分が用意されているからこそなのだが、それでも頭の中に展開が浮かび、それをスラスラと吐き出して、物語を進行していけている。それにつれて、心身も快調になっていっている。これはうれしい誤算だった。
作家、詠野説人の一連の作品は若い女性に人気の軽いミステリーで、工員の日常を描いた私小説風の作品で世に出た依本の作風とは正反対といっていいものだ。だいたいにおいて依本は、著作のなかに出てくるのはほとんど男だし、女性を主人公に書いたことすらない。ボーイズラブでもないし、友情ものでもないのに、男ばっかりなのだ。内田が帰ってから、勢いで受けたはいいけど、こんな畑違いのもの書けるものだろうかと不安になっていたのだ。しかしその心配は、今のところ不要だった。
部屋に戻った依本はいつものクセで冷蔵庫を開けて缶ビールを取ろうとしたが、いけないいけないと、手を引っ込めた。
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