雪はしっかり降る方が暖かく感じる。小雪のちらちら降る日、特に夕方は寒さが骨までしみて嫌いだ。
仙台駅西口のペデストリアンデッキを妻と歩く。駅前にふたつあるパルコはハイキュー!!とコラボをしていて、キャラの描かれた垂れ幕が下がっている。呪術廻戦にも出てきたパルコなのに、そっちとはコラボしないんだと思った。でも仕方のないことだった。そもそもこの街で漫画と言えば、石ノ森章太郎といがらしみきおの作品、そしてハイキュー!!だけだ。荒木飛呂彦は十年前ぐらいからようやく地元のローソンとコラボするようになったし、芥見下々の痕跡はまだない。仙台人は自分たちがのんびり屋で穏やかな性格だと自認したがる。その仙台人の感覚からすると、身内から出てきた彼らは理解不能の異端で、大々的に応援する気にはなれないのだ。
まだ尻が痛い。新幹線の指定席が三週間前にはすでに売り切れていたので、品川駅から特急ひたちに乗って五時間かけて帰省した。松戸を越えたら風景は一気に、土がむき出しの田んぼとなり、水戸ですこし街の風景を見る以外は延々と同じ光景を見せられていた。
列車が名取川にかかる橋を渡ると、水戸以来ひさしぶりの都市の光景が見える。だんだんと線路沿いにマンションが並びはじめ、すこしすると日本最北のイケアが見えた。そのすぐ北の広瀬川を渡ると旧仙台城下に入り、仙台駅へ到着した。――久しぶりの帰省だった。美容室を経営する実家とは仲が悪く、生まれ故郷だが妻とは駅近くのホテルに泊まる。両親には帰ることすら、そもそも結婚したことすら知らせていない。出た学校の偏差値と勤め先の規模でしか人間を評価できない人たちの視線を、妻に浴びせたくなかった。
妻は仙台大観音を見たがった。ペデストリアンデッキのそばのバスプールでは、大観音のすぐ近くへ行く路線バスに、バックパッカーたちが乗りこんでいた。あんな、不動産会社の社長が信心を起こしてポケットマネーでつくった像が、世界中から観光客が来る名所になるとは子供のころ思いもよらなかった。
行くのは明日だ。今日の夜はもう用事が入っている。
仙台駅の南にはJRやNTTの仙台支社、石油の卸のカメイの本社が立ち並ぶ。そのオフィス街のアパホテルが宿だった。
妻をそのアパホテルに置いて、俺は外に出た。東北本線のアンダーパスをくぐって、かつて仙台の秋葉原と言われた電気街の跡、そして予備校の並ぶ親不孝通りを歩き、仙台駅東口へ出る。
商業ビルの一階、大衆食堂の半田屋に入る。そこが待ち合わせ場所だった。カフェテリア方式の食堂で、ミニサイズのご飯とおかずを取り、ハイボールは別で注文。会計を済ませてテーブル席へ行くと、「おう、久しぶり。老けたな」と、中学の同級生の木皿が呼んできた。
木皿はすでに奥に座っていた。姿を見てぎょっとした。髪を赤く染め、爪を黒く塗っていた。ヴィジュアル系バンドの、解散して三年経ったメンバーのようだった。襟元につけたチェーンがチャラチャラ光る。
「うるせえ。お前と違って年相応になっただけだ。そういや、配信やってんだって?」と木皿の前に座る。
「最近バズったの、見てく?」
木皿は返事も待たずにスマホをこちらへ向けた。配信の切り抜きショート動画だった。木皿が画面に流れる名前を読みあげて「よちよち、今日も頑張ったね」と甘い声を出している。ハートが噴き上がり、画面の上には《ビジュアル系Vのママ、現るwww》と太い字が載っていた。
「お前、そんな声出るんだな」
「投げ銭のためなら何でもするさ」
木皿はスマホを伏せた。配信だけでは服代にもならず、パルコのTOHOシネマズでアルバイトをしているという。住んでいるのはイケアの隣のタワーマンションで、一人暮らし。家賃は女が振り込んでくれる。前に部屋へ来ていた女がゲーム機を嫌がったので、スーファミもメガドライブも売ったらしい。
話を聞きながら俺はブラックニッカのハイボールを飲む。木皿はアサヒの生ビールだった。(サントリーの酒は仙台では滅多に見ない)
木皿はバイトの苦労話をしはじめる。夏のあいだ、毎日ちいかわのチケットをもぎっていた。劇場に客を入れ、映画が終わったら出し、急いで劇場の床を掃除する。バイトの大学生たちも鞄にちいかわをつけて出勤していたという。「あんな大学のくせによ」と木皿は大学の名前を出した。そこを出れば一生の恥だと、学生時代の俺に教師も両親も祖母も口すっぱく言った学校だった。
「休憩中、スマホ見てすんげー速さでフリックすんの。終わると彼氏が迎えに来るんだよ。木皿さん、お疲れさまですって、二人で頭下げて帰るの」
飲み会にも誘ってくれるが行かないという。冷静に考えて、三十過ぎの同僚を飲みに誘うなんて相当ありがたいことなのに、木皿は不満げに煮物のこんにゃくを箸で刺す。
「客もさ、俺くらいの男が一人で来んだよ。ちいかわ観て、グッズ買って、大事そうに持って帰んの。なんなんだよ、あれ」
「好きなんだろ、放っておけよ」
「俺だって観たよ」
「観たのかよ」と俺はふたたびハイボールを飲む。
「仕事終わってからレイトショーで」
「面白かった?」
木皿はようやくこんにゃくを皿に戻した。俺の質問には答えなかった。
俺は話を変えようと、いま構想している小説のことを言いかけた。しかし、すぐにひっこめた。仙台を離れてからあとの八年間で、俺と木皿は、引き返せなくなるほど遠く離れてしまった。
二十五歳のとき、仙台駅前の丸善で偶然木皿に会ったのが始まりだった。中学では同じ学年で、顔は知っている程度で一度も話したことがなかったが、小説家志望と聞いて急に興味が出てきたのだった。
自分じゃどうしようもない理由で大学院を中退し、公務員試験を受験するため、仙台駅前の予備校へ通っていた。平成の終わりはまだ公務員が人気職で、大学院を出ていない化学系の学生は公務員になるぐらいしか就職口がなかった。
木皿は日大の芸術学部を辞めて(いまだに理由を言わないし聞いたこともない)、仙台に戻ってきていた。群像新人文学賞の三次選考まで残って、その後も書きつづけていた。たしかに木皿はセンスがあった、センスがある男には女がよりつく。木皿は女のヒモをするだけで、生きていくことができた。
俺のバイトが終わると、二人で東一番町のマックに行って、小説の話をした。村田沙耶香はいいね。どうせ砂川文次はすぐ消えるっしょ。佐藤究のAnkはいいけどね、次はどうだか……。傷の舐めあいだった。
生まれ故郷で味わう孤独。東北大学や中央省庁の出先機関、大企業の東北支店のおかげで、百万人が住む政令指定都市に肥え太っただけの地方都市。そんな、よそから人も物も勝手にやってくる仙台で独創性なんて邪魔なのだ。
仙台ゆかりの文豪には島崎藤村から伊坂幸太郎まで数えきれないほどいるが、彼らもほとんど仙台を出ていき、余所で死ぬ。遠い親戚と思っている歌舞伎作者の眞山青果も東京へ行って帰ってこなかった。俺は仙台から二度も離れた。仙台で生まれ、仙台で生きて、仙台で死んだ文豪は詩人の土井晩翠ぐらいで、その名前は、通りに残っていた。
晩翠通り、その北端にあるスーパーがバイト先だった。予備校の授業が終わると運動がてら歩いてスーパーまで行き、昼はレジを打っていた。まいばすけっとに毛が生えたような大きさの店で、パートのおばちゃんたちは優しくしてくれた。いまでも感謝している。東京で失った人間性を回復したのも、このスーパーで働いたおかげだった。
「リスナーって何人くらい来んの」と俺は聞いた。
「日によるかな」
木皿はスマホをひっくり返す。画面にはちらほら通知が来ていた。俺は木皿の小説の話題をしかけて、やめた。
木皿の実家は、井上ひさしの母校、仙台第一高校のちかくにある。何度か行ったことがある。ライオンズマンションの一室で、木皿の親父は国家公務員だった。バイト先のスーパーの真向かいが職場だったが、木皿が高校生のときに離婚をしていて、父子家庭となっていた。木皿の子供部屋を覗くと、うずたかく積まれた小説と、スーファミとメガドライブとそのソフト、そして女から買ってもらったニンテンドースイッチが雑然と積まれていた。それらの上に、新人賞に落ちた原稿が紙で印刷されて乗っていた。俺は作品を読んですぐ、編集者へ持ちこめよと言ったが、「俺の文学はあいつらにはわからない」と木皿は卑屈になって、結局送らなかった。
二人で大魔界村を遊んだらいつのまにか外が暗くなっていた。今日は遅番でバイトがあるから俺が帰ろうとすると、木皿は玄関まで追ってきて、「さっきの、最後の二ページどうだった」と聞いた。引き返すことはなかった。
就職して静岡へ引っ越したあとも、木皿とはたまにLINEを送りあった。新しい小説ができたと木皿が言うことは、いつからかなくなった。俺も小説を書きだして、原稿を送っても、最初は数行程度の感想を送ってきて、やがて、送っても既読がつくだけになった。
俺がご飯を箸でかっこんでいるあいだ、木皿は箸袋を手で器用に折っていた。
茶碗が空になったところで聞く。
「群像の原稿、まだ持ってんの?」
「さあ。パソコンを替えたから、データも残ってないんじゃない」
「紙に印刷していたろ。お前んちで見た」
「捨てたんじゃねえかな」
木皿は箸袋をまた折った。俺がもう一度聞こうとすると、先に口を開いた。
「お前、あのころ俺が芥川とか漱石を超えるって言ってたの、覚えてる?」
「覚えてる」
「恥ずかしいよな」と自嘲する癖に木皿は笑わず、箸袋をさらに折った。折り目をしごく爪は黒く輝いていた。
俺はハイボールをもう一杯注文しに行った。レジで会計していると、ふと小説の冒頭を思い出した。テスカトリポカが出たころ木皿から送られてきた作品だった。三ページ目に好きな一文があった。どんな感想を返したかは思い出せないのに、その一文はまだ覚えていた。席へ戻ったらきちんと木皿の小説の話をしてみようと思った。木皿は新しいジョッキを見た。
「なあ、金、貸してくれないか」
「いくら」
「……十万」と言う木皿は俺と目を合わせず、伏せたスマホへ手を伸ばしかけてやめた。
箸袋は何度も折られ、先が湿ってほぐれていた。
「機材を買わないと、もっと上に進めない。……絶対返すから」
俺は返事の代わりにテーブルの箸袋を指さす。
《貸借は友を失う――ゲーテ》
名言の書かれた半田屋の箸袋のおかげで、仙台市民の大半はゲーテの名前を知っている。
しかし木皿はせせらわらう。
「ゲーテはそんなこと言ってねえよ。たしかそれはハムレットの一節だろ」
「それぐらい知ってる。つーかさ、お前、卑怯だろ。お前の動画見たことがないとでも思ってんの? ソシャゲで溶かしたって一週間前に言っていたの、知ってるからな」
「……貸さないってことか?」
俺はハイボールを飲んだ。木皿は俺が口を離すまで待っていたが、答えがないとわかったらしく、残りのビールをあおった。口の端から泡が垂れた。
「芥川ってさ、金玉にアルコール塗って悶絶したらしいぞ」
「は?」
「狂気がないと文豪にはなれねえんだよ。ソシャゲも狂気、いまやることも狂気」
木皿は鼻をすすった。語尾がもつれ、酔っているのがわかった。水を持ってこようかと聞くと、首を横に振り、空に近いジョッキをつかんだ。
「ちいかわって、何にもできねえんだよな。弱くて、泣いてばっかで。それなのにハチワレが助けに来るだろ。JKは鞄につけて歩いてんだよ。俺が三十過ぎてあれつけてたら、きもいって言うくせに」
「まあ、ちいさくて可愛いからな」
「ちいさけりゃいいのかよ」
木皿が顔を向けた先には若いカップルがいた。女の鞄から、ちいかわのぬいぐるみがぶら下がっている。目が合うと、女は鞄を膝に引き寄せた。
「俺だってちいさくてかわいいぞ」
木皿は立ち上がった。椅子の脚が床をこすって甲高く鳴った。木皿は大男だった。女は隣の男に何かを耳打ちした。
木皿は腰のあたりを両手で探り、ベルトの金具を外した。あまりに普通の手つきなので、俺はトイレにでも行くのかと思った。木皿はその場でズボンと下着を膝まで下ろした。女が悲鳴をあげた。
「これが俺のちいかわだ! 俺のちいかわにアルコールを塗りたくってやる!」
木皿はジョッキの底に残ったビールを手のひらにこぼした。泡が黒い爪にからみ、その手を股間へ持っていった。
睾丸をこすりながら木皿は喚いた。途中から泣き声になった。俺は立ち上がろうとして椅子の脚を引っかけ、椅子ごとひっくり返った。尻もちをつくと、目の前に木皿の股間があった。三十過ぎの何の変哲もないペニスがぶら下がっていた。可愛いかどうかはわからないが、ちいさかった。
驚いた顔の店員が厨房から飛びだし、外へ走った。ビルの隣には交番がある。すぐに警官が二人やってきて、木皿を床に押さえつけた。警官にベルトを締めろと言われると木皿は素直に従ったが、手が震えてうまくいかず、若いほうの警官が締めてやった。
連れていかれるとき、木皿は俺を振り返ると、中指を立てて笑った。爪の黒さが木皿の白肌に映えた。
昔、ライオンズマンションで大魔界村をやったときと同じ笑顔だった。あまりの難易度にイライラしながらコントローラーを投げたとき、木皿は笑いながら拾ってくれた。
あのコントローラーも、もう売られて、木皿の手元にないんだとふと思った。
別の警官が遅れてやって来て、木皿との関係を聞いた。本当のことを言えば、俺も交番に連れていかれるだろう。
「知らない人です。座ってたら、いきなり目の前に来て絡まれたんです」
そう答えると警官は生真面目にメモを取った。木皿が少し離れたところで口を動かした。名前を呼ばれた気もしたが、木皿はろれつが回ってなかった。警官が行ってから、店員に謝り、木皿のトレーを返却口へ運んだ。煮物の皿には、箸で穴をあけたこんにゃくが一つ残っていた。俺のトレーも隣に重ねた。
店を出ると、まだ小雪が降っていた。親不孝通りを歩きながらLINEを開く。木皿のアイコンが一番上にあった。そのまま木皿をブロックした。ホテルに向かう最中、フロントの隣にファミマがあるのを思い出した。ファミチキでも買って一緒に食べようと思った。妻のアイコンをタップして電話をかける。
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