色は、痛みに似たり。
青玄の眼には、物心つきたる頃より、この世の凡百の事象が、過ちの如き鮮やかさをもつて映じてゐた。常人の眼が形を捉へ、光を分かつに留まるべきところを、青玄の瞳は、万象の底に潜む感情の滓、肉体の腐れゆく前兆を、容赦なき色彩の濁流として呑み込んでしまふのだ。
野に咲く野菊の黄は、陽の温もりを告ぐるにあらず、地中の虫の屍を吸ひ上げた毒となつて目を焼き、朝餉の竈から立ち昇る煙は、飢ゑに喘ぐ者の胃腑の悲哀を帯びて、澱みたる鉛色に空を汚す。何より耐へ難きは、人の顔に浮かぶ色の移ろひなりき。健やかにして驕れる者は浅ましき赤黄を放ち、病に冒されたる者の皮膚には、泥の底より湧く濁土色の斑紋が浮き出る。そして、死の影に憑かれたる者は——いまだその胸が息を通はせ、手足が温もりを保ちてをるとも——皮膚の裏側を、どす黒き紫の帳が這ひ回り、やがてその帳の隙間より、冷たき藍の粒が、蛆の如く湧き出して全身を覆ひ尽くすのだ。
五歳の折、いまだ乳の香を残す母の額にその濁紫を見出し、泣き叫びて母の衣に縋り付きたるも、母は三日の後に俄かなる霍乱にて息絶えた。十歳の折、玄界灘へ船を出さんとする父の腕に、海底の藻に似たる青黒き斑紋が絡みついてゐるを見て、船止めを乞ひて砂浜に額を擦り付けたが、父は青玄を狂気と罵りて海へ出で、その船は二度と関の瀬戸へは戻らなかつた。見ることは、知ることであり、知ることは、その者の死を前もつて追体験することに他ならなかつた。青玄にとりて、光ある世界とは、幾百の死相が色彩の刃となつて己の脳髄を切り裂き続ける、終はりのなき責め苦の野であつた。
かつては、都の染殿に身を寄せ、染色の技を学んだこともあつた。その並外れたる色鑑みの才は、綾絹の紙一重の色の段差を見分け、帝の御衣を染むる禁色の配合を狂ひなく定める腕として重宝された。栄華は長くは続かなかつた。ある日、時の権勢を誇る大納言の賜はりたる衣の下に、不義密通の情念を告ぐる浅ましき紅と、破滅の毒を孕む濁れる緑の斑紋を青玄が見取り、その色をありのままに口にしてしまつたがためである。「不吉の狂言を弄する妖物」として捕らへられ、両の眼を焼き潰されんとしたところを、夜陰に紛れて都を脱出し、西へ西へと逃れ落ち、辿り着きたる果てが、この長門の赤間関なりき。
関の瀬戸を望む断崖の下、波飛沫が直接打ち寄する潮溜まりの傍らに、青玄は朽ちかけた苫屋を結び、染物小屋と成してゐた。
小屋の床は板を張らず、砂混じりの黒土を掘り窪めて、三尺ばかりの大甕を五つ、深々と埋め込んである。藍甕である。
甕の底には、都落ちの折に僅かな銭を叩いて手に入れた阿波の蒅が沈んでゐる。藍の葉を百日の間寝かせて発酵させたる蒅は、黒く固まりたる腐葉土にして、それ自体が植物の生命の澱なり。本来なれば、この蒅を灰汁に溶き、温めて「藍を建てる」のが染師の正道である。建てば、甕の表面には藍の花と呼ぶ青紫の泡が盛り上がり、芳醇なる醪の香を放つはずであつた。
されど、青玄の据ゑたる五つの甕は、いかに良質の木灰を用ひ、いかに念入りに湯の熱を計らうとも、決して花を咲かせなかつた。液は澱み、濁りたる黄緑色のまま死んだやうに冷たく沈み、甕の底からは、腐れ果てたる藻の臭気ばかりが漂ひ出る。
建たぬのだ。
青玄の求める青は、自然の草木が育む、あの長閑なる青ではなかつたからである。彼が求めるは、己の眼を夜毎に苛む、あの死にゆく者の皮膚の裏側を這ひ回る、底知れぬ冥府の青——人の魂が肉体を脱ぎ捨てる刹那にのみ放たれる、悔恨と未練の青であつた。
「……灰汁では足らぬ。酒でもない」
青玄は、夜の帳が下りるたび、五つの甕の前に蹲り、濁れる液を見つめて呟いた。
藍は、生き物である。生き物であるならば、その育つべき糧もまた、人の情念の極限でなければならぬ。壇ノ浦の潮流が巻き上げる死者の呻き、平家の亡者どもが海の底より伸ばす手、そして、この過酷なる乱世に飢ゑ、奪はれ、殺されゆく民の、最後の叫び。それらを吸はせぬ限り、青玄の藍甕は、真の息吹を吹き返すことはないのだ。
青玄は己の腕を捲り上げた。
その前腕の皮膚は、度重なる染液の毒に侵され、既に常人の肌色を失ひつつあつた。白き肌の奥に、浅葱の筋が幾筋も走り、指先は爪の生え際に至るまで、落ちぬ縹に染まつてゐる。甕の液に手を入れるたび、青玄の筋は藍の命と直に繋がり、液の渇き、液の飢ゑが、己の喉の渇きとなつて迫り来る。
弥生の半ば、春とは名ばかりの、凍てつくやうな雨の降る夕暮れなりき。
海は鈍色に濁り、引き潮の関の瀬戸は、幾つもの牙を剥きて白波を泡立たせてゐた。青玄が染物小屋の蔀戸を押し上げ、潮の引きたる砂浜を見遣つたとき、波打ち際の岩礁の陰に、一人の女の姿を認めた。
女は、膝下まで潮水に浸かりながら、微動だにせず立ち尽くしてゐた。
粗末なる白麻の小袖は、雨と飛沫を吸ひて肌に貼りつき、肩のあたりで切り揃へられたる黒髪は、濡れて項に縋り付いてゐる。足元には、海女の使ふ鮑起こしの鉄箆と、破れたる竹籠が転がつてゐたが、女はそれを拾ひ上げやうともせず、ただ、壇ノ浦の潮流が渦を巻く沖合の一点を見つめてゐた。
投身せんとしてゐるのか。青玄は眉を顰めた。
この浦では珍しきことではない。海で夫を亡くした若後家、飢ゑに耐へ兼ねたる孤児が、壇ノ浦の急流に身を投げる様を、青玄はこの一年で幾度となく見てきた。その者らは皆、海に入る直前、全身から吹き出すやうなどす黒き紫の帳を纏ひ、絶望の光彩を放ちながら水底へと消えてゆく。
されど——その女は、違つてゐた。
青玄は、思はず戸枠を握りしめ、眼を細めた。
色が、ないのだ。
女の全身から、色彩がすつかり抜け落ちてゐた。
肌は白くもなく、土色でもなく、ただ雨雲の光を吸ひ込みたる灰の如く乾いてゐる。濡れたる黒髪も、艶を失ひて墨の消え残りたるやうな影を引いてゐる。怒りの赤も、恐怖の紫も、絶望の青すらも、その女の輪郭の内側には一筋たりとも揺らめいてゐなかつた。あたかも、極彩色の嵐が吹き荒れる現世の真ん中に、ぽつかりと墨絵の断片を切り取つて貼り付けたやうな、徹底したる「無色の空白」。
それは、色彩の暴力に朝夕苛まれ続けてきた青玄の眼にとりて、生まれて初めて出逢ふ静寂であつた。痛みが、ない。その女を見つめてゐる限り、眼の底を灼く針の如き疼きが、潮が引くやうに遠のいてゆく。
女の足元が、ぐらりと揺れた。
急流が女の足首を浚ひ、体が斜めに傾く。
青玄は無意識のうちに小屋を飛び出してゐた。濡れたる砂を踏み荒らし、打ち寄する波を蹴立てて走り、女の体が波間に呑まれる寸前、その細き手首を掴み取つた。
骨と皮ばかりの手首であつた。
引き上げた女の体は、氷の塊の如く冷たかつた。青玄の手のひらに伝はり来るその冷気の中には、死相の濁りは微塵もなかつた。ただ、何もない、空つぽの器の冷たさであつた。
女を小屋へと担ぎ込み、土間の炉に枯れ枝を投げ入れて火を熾した。
煙が小屋の天井を這ひ、青玄の古びたる襤褸布を女の肩に打ち掛けてやると、女は炉の火を見つめたまま、微かに唇を震はせた。
その瞳を間近に見て、青玄の手が止まつた。
女の瞳は、黒く澄んでゐたが、光を宿してゐなかつた。盲ひてゐるのではない。青玄の姿も、燃え盛る火の粉も、確かにその瞳の中に映り込んではゐる。だが、火の赤を、女の瞳は捉へてゐないやうに見えた。
「……寒くはないか」
青玄が問ふと、女はゆつくりと首を巡らせ、青玄の顔を見上げた。その視線には、見知らぬ男の小屋に運び込まれたことへの怯えも、警戒もなかつた。平らかな、水底の砂の如き静けさであつた。
「寒うは、ございません。……ただ、重うございます」
女の声は、低く、濁りのない鈴の音に似てゐた。
「重い?」
「水が、体に溜まつてゐるやうな心地がいたします。海から引き上げられてより、このかた」
女の名は、千鶴といつた。
浦の海女であつたが、去年の秋、引き潮の瀬戸に潜りたる折、海底の岩礁に足を挟まれ、浮き上がることが叶はなくなつたのだといふ。父と兄が海へ飛び込み、千鶴の足を岩より引き抜き、舟の上へと押し上げたが、二人はそのまま壇ノ浦の早瀬に巻き込まれ、二度と浮き上がつてはこなかつた。
「わたくしは、半日の間、砂浜の上に転がされてゐたさうにございます。息もなく、肌も白うなりて、近所の者らが筵を掛け、葬りの穴を掘り始めた頃に、ふと息を吹き返したのだと」
千鶴は炉の火に手を翳した。火の粉が爆ぜてその手の甲を掠めたが、女は眉一つ動かさなかつた。
「生き返つたときから、世界が変はつてをりました。……色が、分からなくなつたのです」
「色が……見えぬのか」
「はい。赤も、黄も、青も。全てが同じ、灰色の濃淡にしか見えませぬ。あの火も、わたくしの目には、ただ煙が揺らめいてゐるやうにしか見えませぬ。……そればかりではございません」
千鶴は己の胸に手を当てた。
「父と兄を亡くしたと聞かされても、悲しいと思ふ心が、どこかへ沈んでしまつて戻らぬのです。涙が……出ませぬ。浦の衆は、身内を殺しておきながら涙一つ流さぬ薄情者と罵り、鬼の申し子と忌み嫌ひます。わたくしも、泣かうといたしました。目頭を擦り、胸を叩きました。けれど、目の中は塩壺のやうに乾ききつて、一滴の水も湧いてこぬのです。……わたくしの魂の半分は、あの海底の泥の中に、父や兄と一緒に取り残されてしまつたのでございませう」
淡々と語る千鶴の顔を、青玄は見つめ続けた。
嘘ではない。青玄の特異なる眼が、その言葉の真実を証立ててゐた。
人の語る言葉には、必ず情念の色が乗る。悲しみを繕ふ者は青き煙を吐き、怒りを隠す者は赤き火花を散らす。この千鶴の口元からは、何の色彩の飛沫も上がらなかつた。ただ、透き通つたる冷気だけが、吐息となつて揺れてゐる。
この女は、色を失ひ、涙を失ひ、感情の輪郭を削ぎ落とされた「空白」なのだ。
青玄にとりて、これほど安らかな存在が、この世にあらうとは夢にも思はなかつた。千鶴の傍らにゐるだけで、己の眼を四六時中責めさいなむ色彩の嵐が鎮まり、脳の奥底に、静寂の帳が下りてゆく。
そのとき、土間に据ゑられたる五つの藍甕の奥で、かすかな音がした。
ぷつり、と。
青玄は弾かれたやうに振り返つた。
死んだやうに冷たく沈んでゐた三番目の大甕の表面に、小さな気泡が一つ、浮き上がりて弾けたのだ。
阿波の蒅を沈めてより半年、一度として動くことのなかつた藍の液が、微かに、されど確かに揺れてゐた。
青玄は立ち上がり、甕の縁に膝をついた。
液の表面に顔を近づける。
発酵の兆しであつた。石のやうに硬直してゐた液の底で、何かが動き始めてゐる。千鶴が小屋に入り、その冷え切つたる身を炉の火に晒し、魂の喪失を語りたる、その瞬間に。
青玄の背筋に、戦慄が走つた。
藍は、知つてゐたのだ。
この甕が待ち望んでゐたものは、生者の放つ安つぽい喜怒哀楽ではない。一度死の淵へと沈み、魂の半分を黄泉の国に置き忘れてきた者——死と生のあはひに宙吊りにされた者の、底知れぬ「空虚」と、その奥底に封じ込められたる、流るること能はざる「涙の原石」であつたのだと。
青玄は振り返り、炉の傍らに佇む千鶴を見た。
灰色の女。涙を流せぬ海女の娘。
「千鶴」
青玄の声は、震へてゐた。
「ここに居るがよい。行く宛てがないのならば、この小屋に留まれ」
千鶴は瞬きもせず、青玄の暗き瞳を見つめ返した。その瞳の奥には、恐怖も、歓びもなかつた。
「……わたくしは、飯を炊くことも、魚を裂くことも、手がおぼつかなくなつてをります。色の見えぬ者に、染め物の手伝ひなど出来ませぬ」
「何も染めなくてよい。ただ、そこに居てくれればよい」
青玄は甕の縁を両手で掴み、爪を立てた。
「お前がそこに居るだけで、わたしの眼は痛みを忘れる。……そして、この甕が、息を取り戻す」
千鶴は首を傾げた。
その仕草は、風に吹かれて傾く野の枯れ草のやうに頼りなげであつたが、やがて、小さく、静かに頷いた。
「……お前さまのお眼は、とても深い色をしてをられますね。何色かは分かりませぬけれど、海の底のやうに、静かな色でございます」
千鶴のその言葉を聞いた瞬間、青玄の胸の奥で、何かが決定的に軋んだ。
青玄は答へなかつた。
ただ、千鶴の手首を掴んだ己の掌を、いつまでも見てゐた。指の腹には、女の冷たさがまだ残つてゐた。
三番目の甕の液面は、もう動かなかつた。
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