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へんな村

腥田をにゆり

沼色の湖と、谺のような響きと、マムシと、村と、彼女の話です。

タグ: #純文学

小説

2,392文字

へんな村

腥田をにゆり

沼みたいに光を吸い込む湖の畔で彼女と出会った。早春にしてはどうも底冷えのする一日だったので、冬越しするような厚手のアウターを纏いながら銀の底から沼の上を見ていた。野鴨が翼をばたばたと叩いている頃に、その厚手の胸へと人差し指を曲げたままタップした。

パンッ。

野鴨がぎりぎり沼の縁に引っ掛かっていて、翼は一瞬だけ泳いでいるようになった。最後は力尽き、その胸にある穴は冷却したせいかさざなみを湛えたまま赤い影すら一筋も零さなかった。パンパンとしたピローみたいに、穴が開いても硬直した躰を大きく揺らさない限り羽根は飛び散らない。重量と直線だけがまだ生きているままに野鴨の視線は沼みたいにだんだん不透明になっていった。
「その野鴨を撃ったのは私です」

銀の底から彼女がやってきた。浴衣のような極彩色かと思いきや、深緑の天鵞絨ビロード仕立ての防寒着に、どうもりんご飴のようにごろごろとしたウシャンカ姿であった。

この胸の穴は間違いなく自分が開けたものだと思っていたが、恐らく彼女の指先にも火薬の匂いが残っていた。先程、大きく響いたのはどうもこだまのせいではなかった。彼女は少しも譲る気がなさそうだった。
「この野鴨は貴女に譲るよ。かわりに今夜の泊まり先を案内してくれないか」

と、野鴨の頸を差し出すと、彼女は振り子のように野鴨を持って前を歩いた。溶けた雪水が染みた獣道に沿って進むと、枯れた骨のようにまっすぐ伸びた白樺の木陰の間を奥へと抜け、白樺の腓骨ひこつのような梢から、所々、沼色の湖にすら拒まれた陽射しが落ちてきた。

村があっという間に、予期せずに瞳へ飛び込んできた。白樺に囲まれたせいか気づかなかったが、村があるなんて知らなかった。

ダーチャと長屋が無秩序に、ままごとの野菜のような並び方をしていて、村はこれらの蒼白な骨の林よりも木のように見えた。

 

 

「馬鹿ね、そんなへんな質問をして」

灰のついた土間を上がると玄関はこじんまりとした中の間より狭かった。中の間の旧い影を廻ると右手の座敷の遠くに誰もいない囲炉裏があった。今は何年何月何日なのかと聞いたら、そう返された。
「ところで、この屋敷、旧くないか」
「もう何年も引っ越してくる人がいないから、大工もこの辺に住みたがらないの。最後の大工は十年前に死んだから、雪のせいで屋根が傷んでもどうにもならない」
「へえ。そういうことか、引っ越せばいいのにな」と思っていても、結局そうは言わなかった。

そして彼女が火鉢に炭を足した。温まるのにさほど時間はかからなかった。アウターを長押に掛けると鴨居と天井のあいだに欄間彫刻が広がっていた。彼女に打ち明けようと思っていたが、振り向くと彼女は既にキッチンへいってしまっていた。ピローを、黒い光沢を湛えている竈と湯気のあいだに置くようだった。細身のヤクートナイフしか持たない彼女を手伝うために自分も窓の下に向かおうとしたら、「座っていいから」と言われた。
「この家はあなただけが住んでいるのか?」
「いいえ、留守にしているだけ。みんな当分帰ってこないけれど」
「それで、あなたが散弾銃を持って自分で食材を調達しようとしたんだ。自分のほうが腕が上だけど、しばらくここに居てもいい?」
「いいよ。けどあなたが居なくても大丈夫よ」

と彼女が笑った。別にへんなことは言っていないと思うが、それで、釜の蓋が鳴るのを待つあいだ彼女が欄間彫刻をくぐって囲炉裏にいる自分に声をかけた。
「あの鳥籠をもってきてくださる?」

と彼女がいった。

ここは窓が一つも開いていなくて気づかなかった。火鉢の影の中に布の被さった何かが置かれていた。布を剥がすと鳥籠であった。

よく見たら……。
「うわ!」

ふいに吃驚びっくりしてしまった。鳥籠には双頭のマムシが居た。
「頭が……」
「そうよ、この子は私がいないとダメだから、家に残ったの」

話している最中いつの間にかまな板にはコルクだけが残されて、そしてふとワインボトルのようにまだ温もりが残った真赭色まそほいろを彼女が緩やかにこれらの牙のあいだに注いだ。

しかし、頭が二つあるせいで困った。殆どが畳に液垂れするだけで、頭二つはそれでも順番が決められなかった。片方の頭が行こうとすると、もう片方は行かせず、どうしても一方は先に真赭色の溜まりを嘗めたくて譲れなかった。同じ躰なのに彼らはずっと争っていた。台無しになったまま、い草の繊維に染み込んでいき、畳の一部が暗黒に染まっていった。
「あらあら、お皿も用意すれば良かった」

涸れた瓶の口を目視で確かめつつ、雑巾を持ってきた。飢えた彼らを再び鳥籠に入れると、彼女はまたどこかへ行こうとした。

今度は彼女に仕事をさせまいと、灰のついた白樺のような腕を引っ張った。
「何をするつもりなの?」
「彼らはずっとこのままなのか……」
「どうして」
「ずっと……」
「知らず知らず納得してきたのよ。きっと。淋しくならないために」

それを聞いて、自分も淋しくなってきた。彼女の腰に触れようとすると——
「やめて」

ぱちぱちぱち。

いつの間にか旧い硝子窓の隙間から火鉢の灰が入ってきた。硝子窓には浮草模様があしらわれていて、透過するどころか反射すらもしなかった。

火鉢はいつのまにか火が消えていた。自分は裸になったせいで寒かった。

ただ、硝子窓から段々と魚鱗うろこの光が落ちている。

ポポポポポ。
「あら、起きたのね」
「自分って…」

釜の蓋が湯気で踊っている。また、何を作ってるんだろう……。

布を捲って、鳥籠を覗くとマムシがまだ寝ている。寝ている時だったら夢で喧嘩しないのだろうか。
「どこに行きますの?」
「もう一羽を獲ってくる」

そして、再び腓骨のような淋しい壁を越えて、やがて魚鱗の満ちた湖に戻った。

ただ、銃はなぜか持ってこなかった。村へ戻って、取りに行こうと……。

なのに、さっきまで通ってきた灰のついた獣道はもう、どうしても見つけることができなかった。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年8月24日公開

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